表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/22

第三話:混迷の世紀

 加治木が執務室の入るテナントビルをでると、日が高くに上がっていた。


 梅雨を目前にした五月とはいえ、近年では、五月はもはや夏と言えるほどに気温が高い。

 歩くだけでも、背中にじっとりと汗がにじむのが分かった。

 深夜の尾行から起き続けのせいか、一瞬、頭がくらりとした。


 最寄り駅に向かう道すがら、古民家のような、入口だけ木造の装いをした居酒屋に入る。店内はクーラーが効いていて、心地が良かった。


 現れた若い男の店員に名前を告げると、どうぞ、と店の奥に案内される。

 明かりを落とした迷路のような店内を進むと、障子で間仕切られた個室に辿り着いた。


 障子を開くと畳敷きの座敷席になっていて、背中を丸めた栗原と、その対面で中ジョッキを煽っている榎田の姿が目に入った。

 加治木は、靴を脱いで座敷に上がった。


「すまんね、遅くなった」

「おつかれさんっす。先、頂いてます」


 ビールでいいですか、と訊ねてきた栗原に返事をして、榎田の隣に腰を下ろす。

 栗原は卓上のタブレット注文機に手を伸ばすと、慣れた手つきで操作した。


「天穂は、来なかったか」

「誘ったんすけどね。用事があるらしくて」

「まったく、かなわんやつですよ。余程、何の用事だって問い詰めてやろうかと」


 息巻く榎田は、吐き捨てるように言ってからジョッキを煽った。


「エノさん。それ、セクハラっす」

「またそれか。中年は喋るだけでセクハラか? ええ?」

「気を付けてくださいよぉ。髪切った? とか絶対NGっすから。そのうち、対面の席に厳めしいエノさんがいるだけで、天ちゃんがヘソ曲げるかも」

「はっ。わけがわからん」


 榎田は黒々とした顔をしかめた。それを見て栗原がけらけらと笑う。

 加治木は、小さくため息を吐いた。


「新しい任務前の景気づけに、一杯、やっておきたかったんだけどな」

「カジさんも案外、古いとこありますね。俺とそれほどトシは変わらないのに」

「変わらない、って言っても小学一年生と中学生くらいは違うだろう。三十六だぜ?」

「へえ! 二十代かと思ってました」

「馬鹿。嬉しくないよ」


 調子のいいことを言ってにやついた栗原を、こちらも笑って窘める。

 栗原の後ろで障子が開いた。先ほどの男の店員が、ジョッキのビールを運んできた。


「それじゃ、乾杯」


 加治木が音頭を取り、ジョッキを掲げた。榎田と栗原も、乾杯、と声を上げた。

 ぐっと、ジョッキを傾けると、きめの細かい泡が口に触れ、痺れるほど冷たい液体が喉を通り過ぎていった。


 呼吸もしないまま、ごくごくと喉を鳴らして、半分近くを飲み干してしまう。

 杯を口元から放すと、溜息ともつかぬ呼気が、自然と大きく漏れた。

 口腔内に残るじんわりとした苦みを、丹念に味わう。


「いい飲みっぷり!」


 栗原が歓声を上げた。


「久々だからな。最近は滅法、外で食事すらしないし」

「ウチもですよ。飲んで帰った日にゃ、カミさんにどやされる。無駄遣いすんな、って」


 加治木の視線は、自然と榎田のジョッキへ向かった。榎田は、にやりとして「帰るまでに酔いを醒ますんですよ」と囁いた。


「そういう話を聞くと、俄然、結婚する気が失せてきますねえ」


 栗原が呟くと、榎田がせせら笑った。


「元々する気がねえだろうが、お前は」

「まあ、そうですけど。メリットがデメリットを上回れば、考えないことも無いですよ? 結婚って、コストパフォーマンス悪いんですよね」

「小賢しいやつだよ」


 ふん、と榎田は鼻を鳴らした。


「最近の若い奴はこんなやつばっかりで、この国はどうなるんですかね。加治木さんはどう思います?」

「俺は……独身だし、栗原と似たような立場なんで、なんとも言えませんね」


 言葉を探したが、適当な話が見つからず、加治木は苦笑した。


「ほらね。今時の二十代、三十代はこんなもんなんすよ。エノさん」

「かっ。嘆かわしいねえ。若者よう」


 榎田は、卓上の刺身が盛られた大皿に箸をのばして、一切れの切身を摘まみ上げた。


「人だけじゃねえや。これ一枚でいくらするのかってんだよ。この一皿、三人前で一万ですよ? 十年前の四倍近い」


 醤油をつけて口の中に放り込んだ刺身を咀嚼し、


「しかも、薄ぺらい」と、榎田はぼやいた。


「俺らが言っちゃ嫌味みたいなもんすよ。まだマシな方。最近増えてるらしいですよ、公務員志望の学生。給料がいいからって」

「へえ。リーマンショックの時みてえだなあ」


 大した感興もなさそうに、榎田はぼやいた。


「榎田さん、よく覚えてますね」


 加治木は些か驚いて、聞き返した。


「そらあ、覚えてますよ。今から、十……いや、二十四年前か。二〇〇八年だもんな。ちょうど俺が高校出て警察に入ったときですからね」


 榎田は、当たり前だと言わんばかりに声を張った。


 簡単な計算を、加治木は頭で巡らせた。となると、榎田は四十二歳ということになる。

 面と向かって年齢を尋ねたことがなかったから、なんとなく年上だろうとは思いつつも、六つも上だとは思いもよらなかった。


「昔は良かった、なんていうと年寄り臭いですけどね。今よかあ、幾分マシです。物価だって、何だって」


 榎田は、ぽつりと溢した。

 言葉に困り、加治木は杯を煽った。加治木とて、そう考えないことはなかった。


 一部の大企業と同等に、物価上昇に伴って給与が上昇した公務員では、生活苦を実感するほどでは無かったものの、二〇二〇年からの十二年は、日本経済の怒涛の転落だったように思う。

 かの時代から、既に世界は……日本は、地獄の縁に足を掛けていた。

 

 何が嚆矢となったのかは、分からない。元を辿れば二十一世紀の始まりから、何かが狂い始めていたのかもしれない。

 

 二〇〇〇年初頭は、未婚率が増え、労働人口は減少の一途を辿り、高齢者人口が増加しつつあった。

 科学技術の発展が平均寿命を押し上げる一方で、社会保障費は右肩上がりに増加していた。


 もっとも、それだけであれば、まだ日本経済の軌道修正は可能だったのかもしれない。

 ボタンを掛け違えたように世界が歪んでしまった契機は、陰惨な歴史の清算行為だった。


 戦争である。


 宗教対立や政治的イデオロギー対立に端を発した火種は、世界大戦後も燻ぶり続けていた。

 イスラエルとパレスチナ。

 インドとパキスタン。

 アメリカとキューバ。

 北朝鮮と大韓民国。

 中国と日本。


 ひと所で燃え上がった戦火は、相対する国同士だけではなく、集団ヒステリーのように地球全体を巻き込んでいく。

 日本にとって特に致命的だったのは、隣国で開戦した朝鮮戦争だった。


 北朝鮮に相対する大韓民国という構図は、瞬く間に、中露、対日米の構図に置き換わった。

 日本をはじめとする周辺国は、経済的・物質的支援により対戦国を遠巻きに、慎重に支えた。


 自国に核が落ちるかもしれぬという極度の緊張状態が、直接的な関与を躊躇わせていたといえる。

 だが何もせずとて、手負いの虎と化した北朝鮮が、破れかぶれの核攻勢に打って出ることは、想像に易くもあった。


 そうした抜き差しならない闘争状態で日本政府が出した答えは、静観であった。


 その選択が正解だったのか、失敗だったのかは、誰にも分らない。のちの歴史家にでも判断が委ねられることだろう。

 ともかく、日本国本土に核が落ちてくるという最悪の悲劇だけは、今のところ免れている。

 今はまだ、だ。


 戦争は、なおも続いている。

 朝鮮半島が戦場となったことで、半導体産業をはじめとした世界経済に甚大な影響が生じたことは言うに及ばず、戦争難民の保護や経済支援によって、ただでさえ安定感を欠いていた日本経済は、死体に群がる蠅のように狂気的な動揺を見せていた。


 ()てて加えて、戦争特需や原油価格の高騰が国内物価を直撃し、幾何級数的なインフレを引き起こして、人々の生活は混迷の渦中にあった。 


「昔は良かったっていいますがね。今更、何言ったって、俺らにはどうしようもないっすよ。お上の言うことを訊くだけ」


 栗原が、あっけらかんと言う。


「そういう投げ遣りなのが、よくねえっつうんだよな。……加治木さんもですよ」

「はは……耳が痛い限りです」


 榎田の言葉を受け止めつつも、栗原の語るような、外部環境に対する無力感は、加治木の心の内にも存在していた。


 個人単位でいえば、刑事部から公安部への異動なぞは青天の霹靂であって、受け入れざるを得ない辞令だったし、個人を離れれば、戦争の趨勢や給与水準、物価高なども、どうにかできるものではない。

 世の中は本当に、どうにもならないことで溢れている。大人ですらそうなのだ。


「カジさん、今日はあんまり飲んでないすね。節約っすか」

「ああ。いや……」


 まだ半分近く残っているビールを、口に含む。苦みがしつこく、舌の上にへばりついた。


「アレですか? 天ちゃんにどやされて凹んでるとか?」

「そういうわけじゃ」


 ジョッキが机を叩く鈍い音がして、加治木と栗原の視線が、さっと榎田のジョッキに集まった。榎田が、顔をぐらぐらと揺らしながら、長い息を吐いた。


「ありゃね、加治木さんは悪くないよ。どこもかしこも、ガラの悪いやつらばかりなんでさ。どうにもここんところ、空気が澱んでやがる。……ほら、噂をすれば」


 榎田は、赤くした顔の口元に、人差し指を立てた。静かにしろ、という合図だ。


 遠くで、くぐもった話声が聞こえた。隣室の客かと思ったが、人の気配は先ほどからしていない。

 店内のテレビかと思っていると、徐々に声ははっきりと聞こえ始めた。


 ——ちょう……せ!


 一定の感覚で、言葉が繰り返されている。加治木が耳を澄ませていると、今度の声は明瞭に聞こえた。


 ——朝鮮人を、追い出せ!

 ——政府は、難民の支援を、止めろ!


 シュプレヒコールだった。どうやら、店外の道路でデモ行進が行われているようだ。


 榎田が、舌を鳴らした。


「これだからな。今頃、総務課三係か四係あたりも、出張ってるでしょう。貧すれば鈍するたあ、この謂ですよ。

 そこかしこで、窃盗だのなんだの犯罪件数も増えてるらしい。

 てめえの生活大事さに、人の心まで失っちゃ、いよいよおしまいですわ」

「犯罪の母数が増えてるから、尾行中の犯罪遭遇率も増えてる、と?」


 こっくりと、榎田は頷いた。


「天穂だって馬鹿じゃねえんだから、そんなこと承知の上だと思うんですがね。

 ただ、あいつは、森宮さん信者みてえなところがあった。

 公安としてのイロハを天穂に教えたのは森宮さんだったし、それでまだ、加治木さんのやり方に慣れてねえだけだと」


 ジョッキを見つめていた榎田が、顔を上げた。


「だから、あんましヤツを悪く思わないでください。天穂は生意気な奴だが、気概はある。なにより、俺たちはチームだ。お互いを信じなきゃ、尾行も監視もうまくいきません」

「……ええ。わかってますよ」


 天穂は、公安の仕事に誇りを持っている。方や自分は、刑事の仕事に誇りを持っていたし、今でもそうだ。

 その二つは、決して対立するものではないはずだ。


「そのためには一つ、天穂嬢からも融和的外交を図ってほしいとこっすけど」

「いや、俺からも努力するさ」

「頼んますよぉ」


 栗原がだらしない声を漏らすと、榎田がテーブルに身を乗り出した。


「偉そうだがな、お前まだぺーぺーだろうが。天穂よりも公安歴短いじゃねえか」

「もう四年目っすよ?」

「まだ、四年ぽっちだよ、馬鹿」


 厳しいなあ、と苦笑した栗原を、榎田が更に詰った。


 二人の様子を眺めながら、加治木は、残り少なくなったビールを煽った。

 すっかりぬるくなったそれは、まとわりつくような苦みを残して、胃の中へ落ちていく。


 シュプレヒコールは、もう聞こえなくなっていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ