第二話:公安部総務課一係
笑みを絶やさない老警部の前で、加治木は頭を垂れた。
「すみませんでした」
一塊に寄せられた四つの机が部屋の中央に陣取っている。ひと際大きい机が、窓際に一つ。
小さな会議室のような部屋の空気は、重々しく澱んでいた。
四つの席の内、三つには男女が腰かけていた。
窓際の席に座る白髪頭の老警部は、温雅な笑みを作っている
「いいよいいよ。失敗しなかったんだから。加治木くんのピンチヒッターは、天穂ちゃんが頑張ってくれたしね」
そう言って、目の前に佇む加治木を慰めた。
「でも、檜山警部。次は失敗するかもしれません」
にべもない口を挟んだのは、加治木の背後に座る若い女性捜査員だった。
耳が出るほどのショートカットの女性は目を吊り上げて、非難がましい顔つきでこちらを睨みつけた。
振り返ったはいいものの反論の余地もなく、加治木は言い返せない。
檜山警部は、座ったまま、女性捜査員の方を向いた。
「まあまあ。こういうこともある。喧嘩に巻き込まれたとあっちゃ、どうしようもない」
「初犯っていうなら分かりますけどね。でも、もう何度目ですか? そのうち尾行もバレますよ。加治木さんは、わざとやってるんです」
「天穂。言い過ぎだ。口を慎めよ」
天穂の対面に座る、浅黒い坊主頭の男が渋面をして諫める。
優に二十は歳が離れているだろうに、臆することなく、天穂は食い下がった。
「事実でしょう。森宮さんがいた頃は、こんなにもアクシデントがありませんでした」
「なあ。何度も言わせるなよ。裁定を下すのは檜山警部だ」
「榎田さんは心配じゃないんですか? 数カ月も、下手をすれば年単位で追ってた対象を、ちょっとした不注意なんかでみすみす逃したら、目も当てられませんよ」
天穂の剣幕に押され、坊主頭の榎田は押し黙った。口をもごもごとさせてから、真横に結ぶ。
「機嫌悪いねえ。天ちゃん、チョコ要る?」
「要りません!」
菓子の箱を掲げ、からからと鳴らしたパーマの若い男を、天穂は一蹴した。
余計な半畳を入れるなとばかりに、榎田が、隣に座るパーマの男、栗原に顔をむける。
栗原は、消え入るように、乾いた笑いを溢した。
栗原を睨みつけていた天穂の目が、加治木に向き直った。
「とにかく。ここにはここの……公安のルールがあるんです。いつまでも、刑事気分でいられたんじゃ、困ります」
加治木は、喉から出そうになった言葉を呑み込む。
天穂の言葉は、檜山警部からも、三か月前の転属当初に懇々と説明された話だった。
現場の事件は、現場の警官に任せる。公安は現場の事件には関わらず、大悪を追う。
それが公安部なのだという。
こうした公安部の不文律とやらを考えるにつけ、もやもやとしたものが、いつも加治木の胸に湧き上がってくる。
刑事畑で十年以上も犯人を検挙してきた加治木からすれば、どうしても理解に苦しむのだ。
畢竟、小悪は見逃せと言っているのと同じだからだ。
警察官である以上、小悪も大悪も悪は悪に違いなく、取捨選択できるものではない。
根本のところで納得がいかないのだから、行動に出てしまっても仕方がないのだと、加治木は半ば開き直りつつあった。
自分が間違ったことをしているとは、思えずにいる。
公安部だろうが、刑事部だろうが、警察官は警察官だろうが——そんな言葉が、胸元まで出かかっていた。
沈黙した場を引き取ったのは、檜山警部だった。
「天穂ちゃんの言うことは分かるよ。でも加治木警部補には、刑事の視点を生かしてほしいんだ。
それに、実際の所、加治木君は犯罪を抑止しながらも、尾行対象に一度も気付かれていない。
これは加治木君の尾行センスや、現場での高い判断力があってのことだ。
今回だって、尾行に気付かれてはいけない、なんてことは、加治木君だって当然わかっている。だろう?」
檜山警部は、加治木に水を向けた。
「……ええ」
加治木が返すと、檜山警部は鷹揚に頷いた。
「そうだろう。何も、尾行に気づかれなければ何をしてもいいと言うつもりはないけど、今回のことは、これで手打ちにしてくれないかね?」
天穂が再び口を開くまでには間があった。
一度、開きかけた口元には、まだ喋り足りない文句が影を潜めているようだったが、それらを飲み下して、
「……わかりました」
と言った。
目尻に刻まれた皺を深くして、檜山警部は満足そうに破顔する。
「よろしい。さて、仲直りができたところで……」
檜山警部は、のそりと椅子から立ち上がった。加治木より頭一つ分は小さい小柄な体躯をしているが、肩幅が広いせいか、貧弱さを感じさせない。
部屋の中央、捜査員の机まで歩み出た老警部は、ゆったりと部下たちを見渡した。
四人の訝しげな視線が集まる。
「今、追っている橋詰だがね。我々第一係の所掌から外して、第二係に引き渡す」
皆が一様に、息を呑んだ。気味の悪い沈黙が場に満ちた。
「私のせいですか」
滲み出た苦々しさで、思わず加治木は口を開いた。視界の端に、天穂の射るような視線を感じる。
転属して間がないとはいえ、腐っても現場指揮を任されて、部下三人を束ねる立場にある加治木にとっては、とうとう見限られたという絶望感があった。
公安の仕事が腑に落ちないまでも、できる限りのことをやってきたつもりだった。
第一係の仕事を、檜山警部が受け持つもう一つの係——公安総務課第二係に引き継ぐということは、我々第一係の手に余ると評価されたということに違いない。
突然、檜山警部は呵々大笑した。
「馬鹿言っちゃいけない。むしろ、加治木くんは予想以上に早くチームに馴染んでくれたおかげで、次のステップに進めると言った方がいいかな」
加治木は首を傾げた。
天穂や榎田、栗原たちに目をやるが、彼らも何のことか分からない様子で顔を見合わせている。
ふいに、檜山警部の双眸に力が籠った。
「刑務所連続放火事件。……分かるよね」
檜山はゆっくり問いかける。
加治木は、思わず知らずのうちに唾を飲み込んでいた。喉元に、得体のしれないものがせり上がってくる心地がした。
現代を生きる日本人ならば、知らぬ人はいないだろう。
二月に発生した鳥取での犯行を皮切りに、三月に富山、四月に山形と、既に三か所の刑務所が何者かによって放火され、受刑者や刑務所員の多くが火事で命を落としている。
死傷者が累計で千五百人を超える未曽有の重大事件だった。
事件を担当こそしていなかったものの、加治木が刑事部に居た頃からことのあらましは伝え聞いており、同一人物の犯行として、特別捜査本部まで設けられていると聞く。
そして、事件が引き起こしたのは人的被害に留まらなかった。巷で、かまびすしい論争を引き起こしていたのである。
刑務所における防犯措置の瑕疵を責める声。
連続放火犯を逮捕できないでいる警察への批判。しかのみならず、匿名性の高いSNSなどでは、目を覆いたくなる罵詈雑言や謂れない風評で溢れていた。
曰く、天罰。
天命。
神の思し召し。
犯罪被害者による私刑。
火災による被害者をせせら笑うような投稿まで見受けられる。
その大半が、犯行を支持するものであり、犯罪者に対する私刑への理解を示す意見だった。
犯罪者が奪った命、傷つけ癒えることのない心に見合うものは、犯罪者当人の命ではないか——。
過剰ともいえる懲罰感情が、諸国民の論争を過熱させていた。
「我々が、連続放火事件を担当するちゅうことは、つまり東京の刑務所でも、放火の予見があるわけですか?」
榎田がくぐもった声を上げた。
「いやいや。エノさん。もしそこまで察しがあるなら、刑事部の仕事っすよ。うちらの出る幕じゃない」
栗原が言下に言うと、「そうか」と榎田は八の字を寄せて考え込んだ。
「……外事課のバックアップですか? 今、あちらは、てんてこ舞いらしいですし」
口元に手を当てて、思いつめた様子で天穂がつぶやく。
檜山警部は驚いたような感心したような顔で頬を緩めて、首を上下させた。
「ほう。面白い考えだね。天穂ちゃんは、放火は海外の破壊工作と睨んでる?」
「時世が時世ですから。そういう可能性も、除外していないというだけです」
公安部外事課。
同じ公安部に居ながらも、その内情を、加治木は子細に知らない。
ロシアや中国といった日本の主要敵国による工作活動の抑止や、国内機密情報の流出防止、兵器流用の懸念がある戦略物資の輸出監視を行っている、などを聞いている程度だ。
かつての平和な時代に比べれば、自国の戦時下と言っても過言ではないほど戦火が近しい現在では、件の外事課は多忙を極めているらしい。
だが天穂の推測は一理あるものの、加治木には腑に落ちないところがあった。
「……刑務所を目標にした工作活動? もっと、重要施設を狙ったっていいはずだろう。
日本を真に攻撃する意図があるなら、警察、自衛隊、国会、原子力発電所……それら施設の方が、損害は計り知れない」
「それは……! そうですけど」
天穂はこちらに顔を向けて、きっと睨んでから、そのまま言葉を濁して萎れる。随分と嫌われているようで、加治木は顔には出さないように心の中で苦笑した。
「どれも惜しい。とまれ、こいつを見てくれるかな。富山の事件現場で見つかったんだが」
檜山警部は、傍らのホワイトボードに何かを張り付けた。
近寄って覗き込むと、それは一枚の写真だった。
写真に映っていたのはブルーシートの上に置かれた黒い本のようである。
濡れて乾いた跡か、表紙は反る様に曲がっており、背表紙は焦げたような跡がある。
「何ですか、これ?」
すぐ後ろで声がして振り向くと、間近に天穂の真剣な顔があって、加治木はホワイトボードから身を引いた。
「聖書だ」
「受刑者の誰かの、持ち物ってことっすか?」
「誰の持ち物でもないんだよ」
「はあ」
何を言っているんだと言いたげに、栗原は呆れた顔をした。
檜山警部の言葉を反芻した直後、頭の中に火花が散って、加治木は、思いついた。
「もしかして、これは受刑者の牢から見つかった品では」
「ああ、ある受刑者の独居房で見つかった。本人は火事で亡くなってしまったんだがね。房内が濡れていたおかげで、焼け残ったらしい」
檜山警部は、頷く。
「なるほど。誰の持ち物でもないんですよね?」
得心が行った様子で、天穂は繰り返し頷く。
我が意を得たりとばかりに、檜山警部は大きく頷いた。
「そうなんだよ。この本は、受刑者に差し入れられた本ではない。どうあっても、房の中に入り得ないんだ。つまり、放火犯が外から持ち込まない限りは」
三件の放火事件で、唯一と言っていい手掛かりだという。檜山警部は、対外的には秘匿されている捜査情報を語ってくれた。
刑務所を放火するという、他に類を見ない犯行は、恐るべき大胆さで行われていた。
三件の放火事件の時間帯は、すべて夜間である。
まず狙われているのは、監視塔と電力供給設備だった。
無登録のドローンをそれら施設に突撃させ、混乱を呼び起こしたのち、正門から大型車両を突撃させている。
非常用発電装置まで狙う周到さで電力を奪ってからは、的確に受刑者の収容棟を狙って火災を引き起こしている。
一方で、所内の刑務官宿舎などは手付かずで残っているという。
「放火にはガソリンが使われているようだ。生存した者からは、複数の収容棟からほぼ同時に火の手が上がったという証言もある。徹底的に、受刑者が狙われているんだ」
胸が悪くなるような行為の数々に、加治木は言葉を失った。
他の面々も同様に、黙して眉をしかめている。檜山警部は、その温顔を固く強張らせた。
「刑事部の方では、一連の事件は周到に計画された組織犯罪だと見ている。それも、冷酷非道な思想犯によるものだとね。
犯行の現場に持ち込まれた聖書も、その証左として扱っている。
事件の背後には、宗教系の組織団体が関与しているのではないか……と」
「つまり、我々の役目は……団体の監視ですか」
加治木が声を絞り出すと、檜山警部は四人の顔を順に見回して、首肯した。
「心してかかってほしい。対象は人の命など意に介さない連中だ。
目的のためには手段を選ばない悪鬼だ。分かるね?
捜査に当たっては、絶対に、君たちの身元が知られてはいけない。君たちの生命のために」