第一話:加治木誠司
無数の人間が行きかう深夜の新宿。
多くが若者で、日本人だけでなくアジア系や、白人の姿も多い。目が眩みそうになるネオンが、道行く人々の顔を照らしていている。
歩道に三々五々に固まって談笑する若者のそばを通り過ぎた。
居酒屋に入る金もなく、安酒で日々の鬱憤を晴らす者たち。
加治木誠司は、若者たちを一瞥してから、虚ろな目線を前方へと向けた。
黒いシャツを着た、男の背中があった。身長は百八十は越えない、中肉中背で、これといった特徴のない男だった。
男の行く先に、目線をやる。
前方に見える一塊になったような人ごみが目に入って、加治木は静かに息を吐いた。
ほとんど無意識と言っていいほど即座に、何事も起こらぬようにと平穏を祈る。
どっ、と人ごみから声が湧く。煽り立てるような嘆声が聞こえたかと思うと、苛立った喚き声が夜の街に響いた。
「なんだ? コラ」
呂律が怪しい声だった。相当な酩酊状態にあるらしいことは、すぐわかった。
道行く歩行者は怒気を含んだ声に驚いて、視線が自然と人ごみに集まる。
目に留めた状況を瞬時に把握したようで、みな一様に進行方向に向き直ると、逃げるようにして、足早に去っていく。
黒いシャツの男も同じだった。驚いたように肩を上げて、前方の人ごみを迂回しようと、歩道を外れた。
後ろ髪を引かれる思いを振り払って、加治木も黒シャツの後を追い、人ごみを回避しようとした。
しかし、普段から信心薄弱な加治木の祈りは、今日とて神に届くことは無かった。
目の前で人混みが割れたかと思うと、金髪の男が加治木の前に倒れこんできたのだ。咄嗟に、加治木は金髪男の身体を両手で支えた。
嘲るような指笛、嘲弄する声が、ひと際大きく飛び交った。
波紋が広がるようにして、歩行者たちが、人ごみを遠巻きに通り過ぎていった。すぐに警察が呼ばれるような気配はなかった。
加治木は、前方を行く黒シャツの男に、瞬時に目をやった。
だが、黒シャツの振り返る気配を感じて、すぐに視線を手元の金髪男に戻す。
金髪男は口元から血を流しながら、何やら訳の分からないことを喚き散らし、腕の中でもがいた。
想像しうる最悪の状況だった。よりによって注目を集めることになってしまった事態に、己の悲運を呪った。
「放せやぁ!」
金髪男が、ようやくまともな言葉で喚いた。
金髪男の視線の先には、ぴちぴちの半袖シャツを着たガタイのいい短髪が立っていた。顔を紅潮させ、にやにやと笑みを浮かべている。
加治木は、左腕を金髪男の腹に回し、自分の身体に引きつけるようにして抑え込んだ。
空いた右手を使って、ポケットの携帯電話を取り出すと、110をタップした。
プツっと、回線がつながる音を確認し、応答を待たずに即座に捲し立てた。
「事件です。男性同士の喧嘩で、片方の男性が殴られました。場所は……」
目線を上げる。劇場通り一番街、という看板が目に入り、見たままを告げた。
「おい」
短髪の男が、肩を怒らせてこちらに向かってきた。
取り巻きの男たちも、怯むどころか苛立った顔で身体を寄せてくる。
加治木は、腕に抱えていた金髪の男を、今度は取り巻きたちの方に押しやった。
金髪の敵なのか、味方なのか分からないが、取り巻きは面食らったように金髪男を受け止めた。
「急行願います」
加治木が告げた途端に、目前に迫っていた短髪の腕が電話に伸びた。
さっと身を引いて、腕をかわす。
短髪は、空振った手に握りこぶしを作って、目を血走らせた。
短髪の男に正対した加治木は、さっと短髪の男を睨みつけた。
「暴行の疑いで、逮捕……」
言いかけた言葉は、短髪が繰り出した殴打によって遮られた。
加治木は後ろに飛びのいたために、顔を狙った攻撃は空を切る。
短髪は、満面朱を注いださまで、いきり立った。
加治木は、はっとして、踵を返した。
短髪に背を向けて駆け出すと、背後から怒声と共に、聞きなれたパトカーのサイレンが近づいてくるのが分かった。