第十七話:拘束 ~天穂捜査官~
椅子に座らされたうえで、大柄の男に肩を押さえられた天穂は、身動きが封じられていた。
手錠を掛けられた腕も、椅子の背もたれの後ろに回しているせいで動かせないし、立ち上がることもできない。
天穂の目の前の長い机に、三人の男女が座っていた。
天穂の真正面に、髭の男、ヒグチが対面している。その左右には女性が座り、ノートパソコンを開いている。
記録でも取るつもりなのだろうか。
ヒグチは面接官のように、手元の紙を眺めながら、口を開いた。
「雛田さん。あなたは、都内の有名私立大学の法学部を卒業して、警視庁に入られた」
「何のつもり?」
天穂は吐き捨てる。
「言ったでしょう? 面談ですよ」
ヒグチは、髭だらけの口元を歪めた。
「まあ、分かってることをわざわざ聞く必要はないですね。それは、時間の無駄だ。私としたことが……」
手元の紙を両手で揃え、テーブルに置いた。
その余裕ぶった落ち着いた仕草に、天穂は無性に腹が立った。
「本題に移りましょう。私たちの組織に加わるつもりはありませんか。我々は、優秀な人間を欲しているんです」
天穂は、笑い飛ばした。
「そんなこと、聞かなくたって分かるわ。監禁、暴行、公務執行妨害。警察相手にこれほど堂々と犯罪を犯すなんて、愚の骨頂ね。人材不足を察して余りあるところだわ」
ヒグチは、目を細めて黙っている。
苛立ちを隠さず、天穂はヒグチを睨みつけた。
「私がするつもりのある行動はね。あなたたちを、逮捕することだけ」
「あなたに、よしんば選択肢があるとすれば。生きるか、死ぬかですよ」
ヒグチは言下に言って微笑んだ。手の平を押し出すようにして、こちらに差し出す。
「おっと、耳が痛くなるので、叫ぶのはやめてほしい。
僕らが居なくなって叫ぶ分には一向に構いません。ここは、防音室になってますから」
天穂は、唇を噛んだ。
「私を、殺すつもり?」
「賛同していただけないなら、面倒ですが、そうせざるを得ない」
「そんなことしても、貴方たちはすぐ捕まるわ」
「死んだ人間は捕まえられません」
さも愉快そうに、ヒグチは言い放った。
意味を図りかねて、天穂は押し黙る。
「分かりませんか。あなた一人と引き換えに、私が犠牲になるということです」
「意味が、わからないわ。わたしとあなたが……死ぬということ?」
ヒグチは、鷹揚として頷いた。
「ええ。私という細胞が、組織から離れ、自死を迎えるのですよ。それで組織は、健全に保たれる。免疫学ではアポトーシスと言います」
天穂は、心臓の脈が早まったのが分かった。
「……あなた、何を言ってるのか分かってるの」
「もちろんです。この組織は、そうして癌細胞を切り捨てることで健全を保ち、拡大を続けてきたのですからね。
おっと、貴方の判断の自由を優先するために、委細漏らさずしっかりとお話しなければならない。
我々組織のことを。偉大なる、エリシャのことを」
ヒグチは、滔々と語り始めた。
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二十世紀。
怖気を震う狂気が、とある少年ら民族そのものを獰猛に襲っていた。
きっかけは、ある男の偏執であるか、あるいは、その男の自尊心が傷つけられた青年期の出来事に端を発するのかもしれない。
いずれにせよ、何ら謂れのない忌むべき殺戮がどす黒い悪意をもって執行されたことは、疑う余地はない。
だが、こうした悪意蔓延る中にあっても、自らの身を犠牲にして人を救わんとする善なる意志は確かに存在した。
リトアニアという国で、少年は一人の日本領事館員に救われることになった。
迫害を受ける少年たちを危険な地から逃がすために、領事館員は寸暇を惜しみ、夜の目も寝ずにビザを発行し続けた。
本国からの訓命を無視した独断行為はであったが、人道危機を前に、領事館員は手を休めることはなかった。
しかし、ついに領事館が閉じられることになった。
強制帰還命令によりベルリンへ旅立とうとする領事館員が、出発する汽車の窓から手渡した、一枚のビザ。
それが、少年を救うことになった。
――いつか必ず、会いに行く。
離れていく汽車に向けて少年は誓い、叫んだ。
少年の苦難はそこで終わったわけでは無かった。
家族と共に異国へ飛び、遠くアメリカの地に至って、少年は懸命に生きた。
差別、労働、戦争、様々な障害が立ちはだかる中で、少年は青年へと成長し、やがて、戦争が終わった。
青年は、約束の通り日本へ渡った。
彼は、誓いを果たすために、自分や家族の命を救ってくれた元領事館員を訪ね歩いたが、見つからなかった。
それから、数十年が過ぎた。
青年は日本人と結婚し、父親となった。
それでも、命の恩人であった領事館員を探すことは、続けていた。
足しげく通っていた日本の在日大使館で、彼はようやく元領事館員の足取りを追うことができた。
領事を辞めて外務省を退職したのち、民間の企業で海外勤務をしていたために、それまで見つけることができなかったのだ。
彼は、感謝を語った。
困窮する社会の中で、彼と一緒に助かった両親は敢え無く病で命を落としていた。
しかし、彼の命は善意によって、現代まで繋がれたのである。
彼は、日本を定住の地と定めた。彼の息子は、日本人と結婚し、そのまた子供も、日本人と結婚した。
そうして、救世主は誕生した。
二〇〇八年、この世に生を受けたのである。
それは、待望の生命であると同時に、哀しみの鎖を背負った存在だった。
父は死んだ。そして、母もまた、絶望の中で死を選んだ。
両親を亡くし、戦時を生き延びた祖父母に育てられる中で、救世主は自らのルーツを知る。
選ばれし民。
度重なる迫害と、あまたの苦難を乗り越え、全世界の中枢にまで至る民族。
だが、血族など些事であると、救世主は笑った。
血が、何だというのだろう。
それは簡単な算数ではたった八分の一に過ぎず、八分の七を占める日本人の血に比べれば、随分と薄い。
その胸の内には、血統的選民意識など、何一つとして無かった。
救世主が心打たれたのは、たった一つである。
かの領事館員が、身を挺して無償の救済を施したように――
善意志こそ、唯一尊ぶべきものである、と。
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ヒグチは、頬を紅潮させて、捲し立てる。
「善意こそ尊ぶべきものであると、エリシャはおっしゃいました」
静寂があった。
天穂は、何かを喋ってこの男を喜ばせることなどないと、思っていた。
それでも、ヒグチは、朗詠するように高らかに語り続けた。
語ることそのものに謁を感じ入っているようだった。
「生物は、環境に適応し、生存競争を勝ち抜くように進化していくのです。
その結果、人類はどうなったのか、お分かりですか。
狡猾に人を騙し、蔑み、陥れることに長けた者や、武力をためらいなく同族に向けられる狂人が、蔓延ることになった。
理性を外れた生存強者とも言うべき存在が、理性的な弱者を駆逐するのです。
これは大いなる矛盾だ。
これでは悪性が善性を滅殺してしまう。
人類の平和を真に願うのであれば、善意ある優秀な人間が世界を適切に管理することが、最良なのです。
優秀な種は、更に強靭で、知的で、慈愛に溢れた人間を生み出す……。
フランシス・ゴルトンという学者は、今から百年も前に積極的優生学の概念を掲げました」
ヒグチは、目を閉じ恍惚とした顔をした。
「そんな理由で、あなたたちは自分が優秀な人間と自称して、犯罪者を殺しているというの? 滑稽ね。
そんなもの、ホロコーストと何が違うって言うの?
加害者と被害者がすげ代わっただけで、やろうとしていることは何ら変わりがない。
ご都合のいい身勝手な価値基準を振りかざして、命を選別している下衆だわ!」
頭に血が上って、天穂は自分でも、何を言っているのか分からなかった。
それでも、この男の妄想を否定しなければ気が済まなかった。
ヒグチの顔から、笑みがすっと消えた。
「雛田日奈子さん。あなた、人を殺したいと思ったことはありますか?」
「あるわけないでしょう」
言下に言い捨てる。
「では、人を殺したことはありますか?」
「馬鹿なことを訊かないで!」
天穂が叫ぶと、ヒグチは満足そうな笑みを浮かべた。
「そうでしょう。普通の人間はそうです。思ったこともないし、行動したこともない。
あるいは、思ったことくらいはあるが、行動したことはない。
この、思うという『心理』と、殺すという『行動』の間には、通常、理性という高いハードルがある。
限りなく強い心理的衝動が理性を越えたり、限りなく低い理性を心理的衝動が越えた時、行動が実行されます。
この心理や理性は目に見えない曖昧なものですが、現実に起きた行動は、『事実』としてただ在るのです。
ナチスが道を違えたのは、ユダヤという血のみを重んじて、断種の基準に何ら劣等種としての事実を据え置かなかったことです。
人間一人一人を軽視したことです。
我々は違う。犯罪を犯した、という行動の事実に基づいて断種をおこなうのです」
天穂は、馬鹿馬鹿しくなって、笑いが込み上げてきた。
ひとしきり笑っている間、ヒグチはこちらをじっと見ていた。
「馬鹿馬鹿しい。大いなる矛盾は、あなたたちじゃないの。
優秀で善良な人間が、放火したり、人を拘束したりするのかしら」
天穂の耳に響いた、質問に対する答えは、予想したどのようなものとも、違っていた。
「いいえ。矛盾していません」