第十一話:神宮司乃那
「あら、あなたは……」
女性は、眉を上げ、僅かに驚いたような顔をする。高く澄んだ声がした。
「ほう。この野卑な男とお知り合いですか。ミズ・ダイナ」
「野卑ってなあ……」
「事実だろう。口より先に身体が動くタイプだ」
「それが必要な時だってあるんだよ」
久奧とやり合っているうちに、ダイナと呼ばれた女性は、こちらに歩み寄ってきていた。
「そうですわ。私も、そう思います」
加治木は、女性を振り返る。身長は百六十半ば、あるいは百七十センチに近い。
女性にしては高身長の部類に入るだろう。
その顔貌に既視感はあるが、記憶は霞がかかったように、鮮明としなかった。
「あの、失礼ですが、どこかでお会いしていましたか」
どうしても思い出せず、加治木は訊いた。
「ええ。リーガルパレス東京で」
女性はそう言って、微笑を浮かべた。加治木は、はっとした。その名前は、テオスゲノスの民の大例会が開催された会場だった。
「もしかして……コウサカさんですか」
女性は、自身のスーツの胸元に手を伸ばしてから、名刺を差し出してきた。
全面英語で書かれた名刺から、辛うじて、JINGUJI DAINAというローマ字を読み取った。
よくよく見るとその下に、おまけのように、漢字で書かれた氏名があった。
「コウサカは、教団での真名です。私、神宮司乃那と言います。大例会では司会と、会場設営の指揮などをやらせて頂きました」
乃那は頬をほころばせる。
真名というのは、教団から与えられる信徒の氏名なのだと、教えてくれた。
加治木は、司会の演壇近くで座り込んでいたコウサカの姿を思い出そうとした。
会場で見た時は、とてもまじまじと見られる状況ではなかったし、オールバックのようなビジネスチックな髪形を今は大きく変えているので、気がつくのに時間がかかってしまった。
加治木は、申し訳なさそうな顔をした。
「すみません、手元に名刺が無く。私は」
そう言ってから、久奧の方を振り向く。久奧に向け、二度瞬きをして合図する。
「こちらの久奧准教授の子供の頃からの友人で、古田と言います」
幸いなことに、久奧は眉一つ動かすこともなかった。こちらの発言の意を汲んでくれたようだった。
「そうだったのですね。その節は、ありがとうございました」
「いえ。大したことでは。しかし、神宮司さんも昨日は大変だったんじゃないですか。警察にいろいろと聞かれたでしょう」
奇貨居くべしである。テンドウの近くに居た乃那であれば、何か、犯行の一部を目撃しているかもしれない。
「ええ。警察は初めてだったもので、少し疲れてしまいました。
でも、私の方からは、テンドウさんが倒れる様子以外、何も見えなくって……大した貢献はできませんでした」
乃那は困ったように、細い眉を寄せた。
「神宮司さんは、テオスゲノスの民の信徒の方でしたか」
久奧が口を挟んで、話題を変える。
「信徒というと、本当の信徒の方を前にしては烏滸がましいかもしれません。実を言うと……フィールドワークの一環なのです」
なるほど、と言って、久奧は得心した顔をした。乃那は、こちらをテオスゲノスの民の信徒だと勘違いしているらしい。
「フィールドワーク?」
「神宮司さんは、米国カリフォルニア大バークレー校で、心理学の教授をなさってるんだ。宗教学や認知科学、コンピューターサイエンスにも造詣が深い」
「教授。それは、なんとまあ」
加治木は、唖然として言葉を失った。どう見ても二十代の学生にしか見えない。かなりの若作りということか。
「まだまだ新参者ですけど」
「とはいえ、異例の若さです。誇られていいものだと思いますよ」
久奧が頬を緩め、敬語でほめそやすのを聞いて、加治木は、背筋にさむけが走った。
普段、口の悪い話し方しかしないこの男から、こんな礼儀正しい言葉が聞かれるとは思わなかった。
「しかし、フィールドワークですか。テオスゲノスの民は、先生の目から見ても、興味深いですか」
名前を呼ぶのも畏れ多い気がして、思わず先生と口走った。
言ってから、教授を先生と呼ぶのが正しいのか分からなくなって、何やら高校時代を思い出して面映ゆくなった。
だが乃那の方は、特段気にした様子はなかった。
「興味が惹かれる部分はありますね。アメリカにも教団の支部ができていて、思想が広がりつつあるのです。
教義にキリスト教の信仰と通ずるものがあることも、一つの要因かも知れません。
財を教団が背負う、というのは、キリストの死が人々の罪を背負うという、刑罰代償論のニュアンスを含んでいたり、他にもいくつかの類似点も見られますからね。
もっとも、思想が浸透しつつある理由には、不安定な社会情勢が多大に影響しているのでしょうけれど」
「困ったときの神頼み、ということ?」
有り体に言えば、と乃那は苦笑した。
「特に、人々の日常生活がかなり追い詰められていることが大きいでしょう。先の見えない終戦に、世界中で緊張が張り詰めています。
このところ、渡航もかなり制限されてきていますし……。
全能かつ善なる神が、なにゆえ人に苦を強いるのか、という予てからの神義論が、再燃している印象を受けます。
その点、教団の掲げるテオスが善かつ悪であるという、現実に即した思想は、個別宗教の信者でありながらも、自然科学教信者とも言える昨今の人類にとっては、旧態依然の神観よりも納得できるものなのかもしれない」
乃那は、滔々と語った。
話を聞いているうちに、加治木の胸に、名状し難い不安が膨らんできた。
久奧の言葉を借りるなら、テオスゲノスの民は俗物的な新興宗教だという。
とはいえ、久奧や乃那といった専門家の立場から見ても、その教義の立て付けは、旧来宗教を踏襲しつつ現代思想を盛り込んだ、一定の合理性を有すると肯ずる要素も有しているようだ。
人類誕生から現在までを貫く心理。
もしそんなものがあるとすれば、やはり、テオスゲノスの教義のような形をしているのかもしれないと、加治木は思った。
「すみません。古田さんの前で、偉そうな品評をしてしまって……」
乃那の声で、加治木は我に返った。加治木が黙っているのを見て、気分を害したと思ったらしい。
加治木は慌てて取り繕った。
「いえ。興味深いと思って、考え込んでしまっただけです。ところで、今日は、どういった用事で久奧のところへ?」
「神宮司さんが来日されると聞いて、一つ、学生たちに講義でもお願いできないかと相談したら、快く引き受けてもらえたのだ。
認知科学と心理学的なアプローチから、宗教学の神秘主義に迫るというものでね。今日はその打ち合わせだ」
久奧が引き取って語る。それに合わせて、乃那が頷いた。
久奧の目が、きらりと光る。
「つまり、古田君。君はお邪魔という訳でね。そろそろ帰ってもらえると有難い」
「あら。私は、打ち合わせを聞いて頂いても結構ですよ。信徒の方の心理側面を捕捉しつつ、現代宗教の思想を取り入れた講義ができるかもしれません」
「神宮司さん。古田をサンプルに使ってはいけません。もっと信仰心の篤い人間に手伝ってもらうべきです」
「その俗っぽい言い方は気に入らないが……自分はお暇するとします。随分と、長居してしまったから」
時計を見る素振りをする。
久奧の部屋を訪れてから、まだ三十分と経っていない。
予定が重複しそうなら先に言っておいてくれと、加治木は悪態を吐きたくなった。
もっとも、自分が公安に所属していることを久奧に告げていないので、久奥としても、そこまでの気を利かせなかったのかもしれない。
久奧と乃那に別れを告げて、加治木は部屋を出た。
扉を閉めてから、よくよく考えれば、昔から久奧というやつは無神経だったと思い出した。頭の後ろで、部屋の中から久奧の笑い声が聞こえてきた。