序章
死神が立ち込めている。眉に迫る死は、積み重ねた業の報いなのだろうか。
水に濡れ、溜まりを作った畳の感触を背中に感じ、男はさむけを催した。
仰ぎ見ている天上を黒煙が這う。出口を求めてのたうちまわって、救いを求めるように、格子の隙間を縫って窓から吐き出されていった。
焼尽した空気が轟々と駆け巡る音。
間断なく続く、何かが破裂するような音。
業火を伴奏にして、狂ったような絶叫が幾重にも重なって耳朶を打つ。
男は、両手で耳を塞いだ。生きながら焼かれていく人間の織りなす奇想曲は、最期を悟った男にさえも、聞くに堪えなかった。
代わりに、脈を打つ音が頭に響いた。目を瞑ると、世界は静寂になった。
取り戻した孤独の中で、男は頭を回らせた。
彼等は果たして、かような断罪を受けるほどの業を負っているか。
そうとは思えなかった。
たしかに、女性に暴行をしたり、盗みを働いていたやつは居た。だが火炙りにされる程の罪なのかと言われれば、日本国における法はそこまでの罰を課したわけではない。
せいぜい、数年にわたって身体の自由が奪われるだけの罪だ。
自らにしても、たかだか生い先短い家主の爺を縛り上げて、金目の物を一つ二つ頂いただけだった。
家主の反攻にあったせいで少しばかり手を上げたが、それだけだ。
その時は息があったから、どのようにして死んだのかは、男も与り知らぬところだった。
報いにしては、あまりにも重い。
鼻から吸い込んだ空気で、男はむせ返った。目を開けると、たちまち沁みるような痛みが目を襲った。
天井を覆った黒鉛の中に、煌々と揺らめく焔が見えた。
男は、仰向けの身体をひっくり返して、独房の出入り口まで這った。
畳を舐めるようにして、地面すれすれの空気を吸う。喉が焼けるように痛み、また咳き込んだ。
固く閉じられた扉の僅かな隙間に、男は手を伸ばした。
——かつん、かつん。
男は、叫び声を上げようと吸い込んだ息で、むせた。床に張ったままの姿勢で、廊下の何者かに届くように、扉に拳を打ち付けた。
鈍い音が、房内に響いた。
「誰か……」
掠れた声が男の口から洩れる。熱気は既に、頭のすぐそばに感じ取れるほど迫っていた。
男の耳に、唄うような声が聞こえた。房内のテレビが、音を立てて弾けた。
「助けてくれ……」
必死で、声を絞り出す。もはや猶予はなかった。今すぐに、この廊下を歩く何者かに救われない限り。
「……天と地を……」
低くずっしりとしたバリトンの声が、途切れ途切れに聞こえた。
男は、扉に頭を打ち付けた。視界に火花が爆ぜ、温かいものが小鼻を伝ったが、意に介さなかった。
なぜ、燃え盛る廊下を暢気に歩いている人間がいるのか……などという疑問が、頭の片隅を過ぎることもない。
ただ助かりたいという一心が、男を突き動かしていた。
「地は形なく……やみが淵の……」
扉の覗き窓が、音を立てて割れた。天井を伝っていた焔が、扉の真上を舐めていた。
「助けてくれえ!」
叫んだ途端、激しく咳込んだ。酷い風邪をこじらせたように、焼けつく痛みが喉を襲った。
途切れがちに聞こえた声は、窓が割れたおかげか、不思議なほど明瞭に聞こえてきた。
「神は」
もう一度、額を扉に打ち付ける。今度は廊下にも聞こえたと思った。
声が止んだのだ。
助けてくれと、男は叫んだ。
だが、言葉は、音にならなかった。
祈る思いで、うつぶせの状態から顔を上に向ける。
普段は見たくもない看守の仏頂面が垣間見える覗き窓に、今は救世主が現れるのを待った。
黒煙の向こうに、何者かの人影が現れたのが分かった。
胸に込み上げた熱いものが、男の頬を伝って、畳に落ちた。
神。
男は極限の精神状態の中で、尊く壮麗な存在を感じ取った。
これまでの人生で、今この瞬間ほど、その存在を感得したことは無かった。
歓喜が溢れてくるのが分かる。
真に人の罪を赦し、救済するのは人ではないのだ。
自らの罪は、この地獄の際を以て償われたことを、男は悟った。
割れた窓から廊下に吐き出された煙が、何者かの顔を露わにする。
目を見開いて、その姿を目に焼き付けようとした。
男の意識は、慈愛に満ちた神の微笑を捉えて、闇に溶けていった。