第2話 富士には、月見草がよく似合ふ
※参照 このお話は、大野錦氏チャレンジ企画に乗っかったモノです
峠の頂上から、牛車で30分程、揺られる。
そのふもと、河口湖畔の、河口村という寒村。
村の郵便局前に、御坂峠の頂から下った最初の停留所がある。
観光客であろうか?
1組の男女・・・騒がしいカップルが牛車に乗り込んできた。
おそらく観光客へのサービスであったのであろう。
彼らが席に腰かけるやいなや、車掌が思い出したように、「今日は、富士がよく見えますね。」などと説明ともつかない、自分ひとりの咏嘆ともつかない言葉を突然言い出した。
リュックサックを背負ったカップルは、体をねじ曲げ、そろって車窓から首を出すと、変哲もない三角の山を眺めては、「やあ」とか「まあ」とか間抜けた嘆声を発しては、ひとしきりざわめいた。
けれども、私の「隣人」の様子は、違った。
横に座る老婆は、胸に深い憂悶でもあるのか、富士には一瞥も与えず、かえって富士と反対側の山路に沿った切り立つ断崖をじっと見つめる。
その有り様・・・私には、体がしびれるほど快く感じられた。
私もまた「富士・・・?あんな俗な山、見たくもない」という、高尚な虚無の精神を老婆に見せてやりたく思って「あなたのお苦しみ、わびしさ、よく分かる」と頼まれもせぬのに、共鳴の素振りを見せてあげたく、老婆に甘えかかるようにすり寄り、同じ姿勢で崖の方を眺めて見せる。
いくばくかの時間が過ぎ、老婆は、ぼんやりひとりつぶやいた。
「あら、美しい。」
細い指でもって、路傍の一箇所を指さす。
サッと牛車はその場を過ぎ、私の目には、ちらりとひとめ見た黄金色の花が、花弁もあざやかに消えず残った。
3778メートルの富士の山と、立派に相対峙し、みじん揺るがず、なんと言ってよいのか・・・金剛力草とでも言いたいくらいに、けなげにすくっと立っていたあの草花は、良かった。
これでこそ、富士である。
私は、あのカップルにも、老婆の高尚な精神を知らしめてやりたくなった。
「富士には、月見草がよく似あう。」
座席は、少し離れていたものの、私の声は、それなりの音量が出ていたと思うから、きっと男女の耳まで届いたであろう。
ご主人に褒めてもらおうとする犬がごとく、私は、「いかがですか?」というように声は出さず、老婆の方を見やった。
「これだから、都会者は・・・」
しかし、聞こえたのは、憎々しげな老婆の声。
彼女は、私に目をくれることさえしなかった。
それだけではない。
今まで気配さえ感じさせなかった地元の乗客さえ、車内に声を響かせ始めたのだ。
「分かっているのかしら?今回の作品テーマは『秋の帰り道』よ。」
「ほぼ夏の草花である『月見草』が出てくるわけないじゃないの。」
「1度、大野さんの所に行って ※参照 に怒られて来ればいいわ。」
『月見草』の花期は、7月から9月はじめ。
かの花は、気温が高い時期に咲く。
ということは、甲斐路の肌寒いと感じるような標高が高い地点で、初秋というこの時期に、この花が開くことは、まずない。
そうなのだ。
これは、作品テーマに沿うためにも、初秋の草花でなければならない。
8月~9月の夜や涼しい場所で黄色い美しい花を開く草花。
甲州富士の路傍に咲いたあの花こそは、『大待宵草』であった。
「ホント・・・あの人、季節感ってものがないわよね。」
「だいたい、都会の人間は、偏狭なのよ。」
「確かにっ。素直に富士の美しさに感動できないのかしら。」
「自然の調和を感じる力が乏しいんでしょうね。」
「真正面から、富士と向き合うことができない貧しい心の中を鏡のように映し出している行動に違いないわ。」
容赦のない乗客の声に、あの2人のカップルさえ、気の毒そうに私を見つめた後、私と視線を合わさぬよう目をそらした。
あぁ、ここで車を降りてしまえば、次の牛車・・・定期便が来るのは、明日の朝。
ということは、私は、井伏氏の滞在する天下一品茶店までの距離を自分の足で歩いて登らねばならぬ。
しかし、そうではあっても、乗客全員が敵に回ったようなこの雰囲気の中にとどまる「勇気」は、私にはない。
御者よ。
早く牛車を停めてくれっ。
次の停留所までは、あと百メートルほど。
けれども、その百メートルのわずかばかりの時間が、茶店の前で師と対峙し、悪臭と戦う羽目となったあの時間より長く感じられた。
甲州なんか、嫌いだ!
富士なんか、見たくもないっ!!
月見草も、月見そばも嫌いだ!!!
後ろからつられたようにカップルが牛車を降りる気配を感じたが、それを確認する余裕は、私にはなかった。
私は、一目散にかけだして、脱兎のごとく牛車から離れた。
☆ ☆ ☆
初秋の空に浮かぶソフトクリームの形をした雲が、車窓のさらに奥・・・向こう側でなにやら文字のように形を変えていく。
「長嶋は太陽、ワシは月見草。富士には、月見草がよく似合ふ。」
それは、白く点滅したあと、やがて風に飛ばされて、見事に掻き消えた。
車中から、おかしな都会者やカップルが居なくなり、老婆も何かしら安心したところがあったのであろう。
細い指で雲のあった場所を指さしながら、ぼんやりつぶやいた。
「私、一茂より石原良純のほうが、好きなのよね。」
車の中は、静かで、老婆を気にする乗客は誰もおらず、定期便は、元のようにガタゴトと揺れ、ただただ前へと進んで行った。
以上、【歴史】蛇足編でした