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第1話 井伏さんは悪人です

【歴史】蛇足編です

甲州、山梨県の御坂峠にあるのその茶店は、いわば、山中の一軒家であった。


師とあおぐ井伏鮒三の逗留していたその茶店の名前は、天下一品茶店。


少々塩味は濃いが、「食事」は、美味い。


なるほど、天下一品を称するだけのことはある。


食事の話が出たところで、少し恐縮ではあるのだが、汚い話をさせていただくこととなる。


実は、宿の隣の部屋・・・「隣人」の放屁が、耐えがたいのだ。


あぁ、井伏さんは悪人だ。



 ☆ ☆ ☆



現在、私は、東京への「帰り道」。


牛車は、ガタゴトと揺れて進んで行く。


この牛車の定期便は、戦国時代に甲斐・武田信玄が開発したものだと言われいてる。


車体周りには、竹を割った半円状の飾りが取り付けられ、同じものを御者や牛の周りにも配置することで、デザインの一体化が図られており美しい。


定期便は、京都から甲斐へ至り、そこから甲州街道を通って東京へ向かい往復する。


武田家が産出したの岩塩を運んだこのルートは、俗に「ソルティロード」塩まみれの道と呼ばれている。



 ☆ ☆ ☆



賞レースというものは、難しい。


自身が「これだっ。」と思った自信作でさえ、「受賞該当者なし」の言葉に打ちのめされる。


選考委員の佐藤冬夫や川端健成がなんだっ!


佐藤の「今までの諸作のうちではむしろ失敗作」との選評は、作品の内容に触れているからまだしも、川端の「作者、生活に厭な雲あり。」などといったモノ・・・プライベートを選評に入れるのは、もはやただの悪口だ。


川端は、頭がオカシイとしか言いようがない。


賞の主催者であるセンテンススプリング社の菊地ヒロシは、カエルの絵を印刷したTシャツの乳部分を切り抜いた下品な装いで「チチカエル」などと、つまらぬジョークを飛ばしながら、さらに、つまらぬ理屈をこねくり回して作品を選評してきた。



「『夢の中』で書いているような文章で、地に足がついていない。大人になり切れていないのではないか?本当の自分を探すための旅なんてものは、存在しない。迷っている自分も、自分自身でしかなく、全てが本当の自分なのだから。」



つべこべ言うな。


私に賞をよこせっ。



****** ****** ****** ******



しかし、そんなことばかりを言っているわけにもいかない。


昭和十三年の初秋、思いを新たにする覚悟で、私は、常用している鎮痛剤ハッピーニナール静注薬を大量にカバンに詰め込んで旅に出た。


甲州。


ここの山々の特徴は、山々の起伏の線を妙に虚しく感じるなだらかさにある。


甲州の山々は、山のゲテモノなのかも知れない。


甲府市から牛車に揺られて一時間。


御坂峠へたどりつく。


海抜1300メートル。


この峠の頂上にあるのが、天下一品茶店。


井伏鮒三氏が初夏の頃から、ここの二階にこもって仕事をして居られる。


私は、それを知ってここへ来た。


井伏氏のお仕事の邪魔にならないようなら、隣室でも借りて、私も、しばらくそこで仙遊しようと思っていたのだ。


井伏氏は、仕事をして居られた。


私は、井伏氏の許しを得て、当分その茶屋に落ちつくことにしたのだが・・・


それから毎日、イヤでも富士と真正面から、向き合わなければならなくなった。


峠は、甲府から東海道に出る鎌倉往還の要衝に当たっていて、北面富士の代表観望台であると言われる。


ここから見た富士は、昔から富士三景の一つに数えられているそうなのだが、私は、これを軽蔑した。


あまりに、おあつらえむきの富士である。


真ん中に富士があり、下に河口湖が白く寒々と広がり、近景の山々がその両袖にひっそりうずくまって、湖を抱えるようにしている。


私は、ひとめ見て狼狽し、顔を赤らめた。


まるで銭湯のタイル画の富士だ。


芝居の書割だ。


注文通りの景色で、恥ずかしくてならない。



****** ****** ****** ******



おそらく、今の時間帯の牛車は、地元の者ばかりなのであろう。


よそ者ならば、きょろきょろと富士の遠景を見渡して声を上げるものであるが、御坂峠の頂から下る車の中では、あたりの風景を気にする素振りを見せる乗客は誰もおらず、牛車は、ガタゴトと揺れて進んで行く。



 私は、今、峠の茶屋から去り、東京へ帰ろうとしている。



わざわざ、思いを新たにする覚悟で、甲州までやって来ておいて、すぐに帰京とは、なんていくじのない男だと思われるかもしれない。


しかし、耐えられぬものは、どうしても耐えられぬ。


私が、井伏鮒三さんを師とあおぐ気持ちに全く変わりはない。


しかし、彼の寝屁・・・それは、隣室で寝起きしていても、音・匂いともに耐え難いものだったのだ。


あぁ、まさに井伏さんは、悪人だ。



 ☆ ☆ ☆



師に帰京を告げ、荷物をまとめ、宿としていた天下一品茶店を出ようとすると、井伏氏は、「あぁ、見送ろう」と、わざわざ店の表まで足を運んでくださった。


見渡せば、霧が濃い。


少しふもとに下れば、晴れるのであろうが、峠の頂にあるこの場所では、断崖の縁に立ってみても、一向に眺望がきかない。


井伏氏は、肌寒さを感じる霧の中、茶店の前にあった岩に腰をおろし、ゆっくり煙草を吸いながら、放屁なされた。


彼は、いかにも、つまらなそうであった。


鼻の曲がりそうな匂いに閉口するも、師の前である。


顔をしかめるわけにもいかない。


帰りの牛車の定期便が茶店前の停留所に到着するまでの間、私は、師の座る岩の前ですさまじい悪臭と戦う羽目となった。


井伏さんは、極悪人としか言いようがない。

次話は、17時投稿予定です

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