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古書店の奇蹟

作者: 十一橋P助

 こんなところに古本屋が出来ていた。チェーン店ではなく、個人経営の店だ。どうやら別の町で営業していた店が移転してきたようだ。

 この町に越してくる前は、古書店も含めていろいろな本屋へ連れまわされたものだが、最近は全く立ち寄らなくなっていたことに気づく。

 無意識にそちらに足が向いた。扉を開くと古い紙の匂いが鼻をくすぐる。

 彼女は大の本好きだった。僕の部屋に遊びに来るときも必ず携えていた。

 端から順に本棚を眺めていく。専門書から始まって新書や文庫本が続く。やがて一冊の本が目に留まった。

『夏への扉』だ。彼女が一番好きだったもので、僕の部屋にも持参したことがある。飲みかけのコーヒーカップをうっかりその上に置いたことで、茶色い丸い染みを作ってしまったことを思い出した。

 あの時はこっぴどく怒られたっけ……と思いながらカバーをはずし、裏表紙を見る。

「うそ……」

 思わず口からついて出た。そこに見覚えのある染みがあったのだ。まさか彼女の本か?ぱらぱらとめくって確認するも、それだけでは分かりようがない。たまたま同じ汚れがついただけなのかもしれない。

「染み……ですか?」

 その声に振り返ると、店主と思しき老人が立っていた。彼は僕の手の中の本にチラリと目を向ける。

「それくらいの汚れだと、大手の古本屋では買い取ってもらえないみたいだけど、うちは違うんです。汚れや書き込みといったものも、その本の味だと思っていてね。前の持ち主がどんな人柄だったのか……なんて想像も膨らむでしょ?」

「なるほど」と店主に応じてから、

「じゃあ、この本の持ち主は、どんな人柄だったんでしょうね?」

「そりゃ、そんな大きな染みをつけるんだから、うっかりもので、大雑把な方でしょうな」

 いやいや、それをつけたのは僕なのだ。彼女はむしろ繊細でしっかり者……と思ったけど、これは彼女の本と決まったわけでない。彼の言った通りうっかり者かもしれないのだ。裸足でノラネコを追いかける主婦のような。

「ちなみに、憶えていませんか?この本を売った人」

 その問いに老人は「うーん」と眉根を寄せた。

「さすがにこの歳になると物覚えが悪くてね」

 思いのほかがっかりしている自分に気づく。僕は何を期待していたのだ。

「そうですか」とため息混じりにカバーを元に戻す。予想以上に安い値札が目に付いた。せっかくだから読んでみるのもいいかもしれない。三散々勧められたにも係わらず、開きもしなかったこの本を。

 


 あの人はコーヒーが大好きだった。部屋には専門店顔負けの機材もそろっていた。豆はもちろんのこと、焙煎や挽き方、淹れ方にもこだわっていた。正直なところ私はコーヒーには疎かったが、彼が淹れたコーヒーだけは特別だった。ほかのどれとも違う独特の香りに思えたのだ。彼はいつもその香りを身に纏っていた。

 って……、どうして今頃そんなことを思い出したのだろう。店の扉を開けた瞬間、あの人の記憶が甦るなんて。

 ナビを頼りに電車を乗りついでこの店までやって来た。目当ての店が知らぬ間に移転していたからだ。本を買い戻したかった。引越しを機に手放したもののなかのひとつだ。見れば思い出すからと何もかも処分したのに。でもあれだけは手元に残しておくべきだったと最近になって後悔するようになった。

 扉を開けたまま呆然とする。懐かしい香りが鼻腔をくすぐるように感じるのは気のせいだろうか。もしやそのためにあの人のことを……。

 ふと気がつけば、脳裏に甦ったあの人が目の前にいた。幻かと思い目を瞬いても消えることはない。その表情は驚きと喜びが入り混じった笑顔へと見る見る変わる。

 彼の手の中には『夏への扉』があった。







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