序章、前の3月
一度だけ時間を戻れるとしたら一体どこへ戻りたいと言うのだろうか。
或る人は「もう一回あの楽しかった日々を過ごしたい」と言うだろう。
また或る人は「あの大失敗をしてしまった瞬間をやり直したい」と言うだろう。
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「晴海くん、君さ、単位ぜんぜん足りてないよ。」
俺は無事、大学生活1年目を全うした。
「1年生で留年するってけっこう珍しいんだよ。」
高校卒業後、苦労に満ちた1年間の受験浪人生活を経て、ウキウキで大学へ入学した去年の春のことなんて今となってはもう1ミリも覚えていない。
「前期はそれなりに単位を取っていたみたいだけど、後期に入ってかなり失速していない?」
最初の頃は人並みに授業に出て、人並みに知り合いを増やし、人並みにバイトをしていた。
ただひとつ間違いがあったとしたら、初めての一人暮らし生活に追われていたことと、かねてからの怠惰さと、自分は人と違うのだという妙なプライドに邪魔されていたせいで、部活とかサークルとかそういったものの新入生歓迎会に足を運ばなかったことだ。
春にできた同じ学科の友人たちは、夏になる頃には少しずつ所属するコミュニティを学科から部活やサークルにシフトしていき、自分とは疎遠になっていった。
同様にして、他大とはいえどもその辺にいた高校の友人たちも、彼らは彼らなりに打ち込むことがありそことも少しずつ疎遠になっていった。
そして同じ頃、バイト先で店長から周りに客がいるのに大声で怒鳴られた。その後、嫌気がさしてさっさと辞めた。
学科と高校の友人とバイト先以外に人との関わりを持っていなかった俺は、孤独になった。
そのあたりから、家に居る時間が長くなった。
何をしているわけでもなかった。現代は多くの娯楽に囲まれている。一度画面を開けばすぐに日は暮れ日付も変わる。
高校生の時ならネットの海を泳ぎ親友のひとりやふたり簡単に作っていたと思う。しかしなぜか今はもうそんな気も起きず、向こう側からしたら「ゲーム友達13番目」くらいの希薄な友人関係をネット上で細々と保ちつつ何の目的もないままなんとなく毎日を過ごしていた。
そうしていくうち徐々に大学へ行かなくなった。
「ねえ、聞いてる?私たち学務は君の先生じゃないんだからさ。そうだけど君の今後がとても心配だよ。」
「ああ、はい......」
その結果、今さっき、大学1年生が終わるはずの3月、まだ大学に足を運ぶためにコートを着ている晩冬。実家では考えられなかったような青空が広がった冬の終わりの気配が漂う日、大学の学務なるところに呼ばれ、留年を宣告された。
留年を宣告された。
特別な事情を除いて、普通の大学生が1年生で留年するなんてまず聞かない。
ここまで怠惰な1年生がいないからなのか、世の中の他の大学は1年生を留年をさせるほど厳しくないからなのか、それはよくはわからない。ただ少なくとも自分は怠惰な1年生であり、自分の大学は1年生ですらも留年させるような厳しい大学だった。
何度でも言う。
部活とかサークルとかそういったものに入っていれば人並の大学生活を今でも続けられていたと思う。
そのときは多分、成績はそこまで良くないと思う。
それでも親友のひとりやふたり、仲の良い異性のひとりやふたり、いたはずだ。
留年しそうな気配がしたら、家までやってくる変なやつがいたはずだ。
落ち込んでいたら酒を飲みに行ってくれるようなフットワークの軽いやつがいたはずだ。
せめて留年したとしても慰めてくれる優しいやつが、いたはずだ。
いろいろと後悔しかなかった。
「あの......どうすれば良いっすか?」
恐る恐る、自分を形式上は心配してくれているであろう学務の女の職員さんに聞いた。
たぶんこの人、今は心配していても、今日の夜には俺のことなんて存在すらも忘れているだろう。
でも、そんな人にさえも縋らざるを得ないくらいに、追い込まれていた。
「......大学1年生の留年でよくいるのは、交友関係を広げなかった子なんだよ。もう1回を大学生活を最初からやるチャンスなんだから折角だしサークルかなにか入りなさいよ。」
「それ、良いんすか?」
「新しい1年生なんだから当たり前でしょ。最初に『留年して実は2年なんです〜』みたいな余計なこと言わなければ大丈夫だよ。」
ハッとした。
たしかにその通りなのだ。1年生のフリをすれば良いのだ。そして実際に自分は1年生なのだ。
入学してから今日に至るまでの1年間、大学生らしいものなんてなにがあっただろうか。
せいぜい、あってないような幾つかの単位と、いていないような今となっては先輩となる学科の数人の知人たちと、うろおぼえのキャンパスの土地勘程度だ。
唯一自分を邪魔をしているとしたら、もう既に大学に1年在籍していて1年分は先輩であるという、プライドにも似た「新入生であってはいけない」という謎の申し訳なさのような壁があるだけだ。
それでも、この大学に自分のことを上学年として受け入れてくれるようなものはなにもない。この大学に自分のことを「1年間一緒に過ごした友人」として気にかけてくれるような人は誰もいない。
失うものなんて親からの失望と1年分の学費だけだった。
そうだとしても、今のまま2年、3年、4年と進んだ方が恐らくもっと親を失望させもっと無駄な金を遣ってしまうだけだという確信があった。
それなら、やろう。
はじめから、やり直そう。
ずっと後悔し続けてきた、部活かサークルに入部する、ここからはじめよう。
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一度だけ時間を戻れるとしたら一体どこへ戻りたいと言うのだろうか。
或る人は「もう一回あの楽しかった日々を過ごしたい」と言うだろう。
また或る人は「あの大失敗をしてしまった瞬間をやり直したい」と言うだろう。
俺は「大学1年生の春に戻りたい」と言うだろう。いや、憶測ではなく事実だ。言い続けてきた。
幸か不幸か、その望みが叶ってしまった。