9 騎士の心構え
昨夜はかなり酔っていたのかもしれない。途中から記憶が曖昧だが、エドウィンが運んでくれたことは何となく覚えている。
「お礼と謝罪をしないといけないわね⋯⋯」
起き上がって額に手を当ててみる。
頭痛も気落ち悪さも無い。お酒は身体から抜けたようだ。
「アイリス様、おはようございます」
「おはよう、シャロン」
「もう酔いは覚めましたか?」
カーテンを開けながら聞いてくるシャロンに私は苦笑で返す。
昨夜部屋に戻ってから寝ている私の化粧を落とし、服を脱がせたのは彼女なのだ。きっと私は何をしても起きなかったのだろう。
「迷惑かけたわね」
「構いませんが、体調は大丈夫ですか? あまりお酒を飲まれなかったので気付きませんでしたが、アイリス様はお酒に弱かったのですね」
「私も知らなかったわ。体調はもう大丈夫よ。ありがとう」
用意された温かい水とタオルで顔を拭く。水面に写った女の顔は健康そうだ。
「フェラー卿は一晩で何本瓶を開けても酔わないそうです。旦那様もお酒は強い方みたいですし、一緒には飲めませんね」
「そうなの」
同じ人間では無いみたいだ。
「朝食をお持ちしますね」
ひとしきり私の準備を終えて部屋を出ようとするシャロンを私は声を出して引き留めた。
「花を摘んできたいの。私も連れていってくれないかしら」
「私が花をお持ちしましょうか?」
「ううん、自分で行きたいのだけど」
シャロンにとっては余分な手間だ。けれど彼女は満面の笑顔を見せてくれた。
「分かりました。一緒に行きましょう」
髪を緩く編まれて部屋を出た。
庭園まで来ると暖かい日差しが気持ち良い。風も無いから皇太子たちにとっては絶好の出立日和だろう。
花壇の剪定をしている青年が目に入った。黙々と作業をする後ろ姿だ。私はシャロンに声をかけて椅子を近づけてもらった。
「おはようございます」
「おはよう、ございます⋯⋯?」
挨拶をしながら振り返った青年は私を見て飛び上がらんばかりに驚いた。慌てて帽子をとって礼を返してくる。緊張した面持ちを見ると、年は私とあまり変わらないように見えた。
「花を少しいただいても良いかしら」
「も、もちろん! お好きなだけ持っていってください。よろしければ俺、いや私が摘みましょうか」
「いいえ、私が摘みたいの。鋏だけ貸してくださる?」
私がそう言うと、彼は手に持っている鋏をごしごしと布でぬぐってそっと渡してきた。
そんなにしなくて良いのに、と心の中で思いながら微笑んで受け取る。
私は白色のルコーレを数本摘んで束にした。部屋の花瓶に生けるだけだと行ったが、青年は丁寧に花を包んでくれた。優しい人だ。
礼を告げて、庭園を背にする。後は朝食を貰って部屋に戻れば良い。
「アイリス様、少しだけお待ちいただけますか? 食事を貰ってすぐに戻ります」
「大丈夫よ。ありがとう」
厨房に近づいた所でシャロンは私に声をかけると、急いで部屋に入っていった。
一人になった私は手に抱えた花を撫でた。
この伯爵家を象徴する花として屋敷のあちこちに花の模様が彫られている。実物は模様より可愛らしい。
実家にいた頃は部屋に花が飾られていない時は無かった。これで私の部屋も少しは明るくなるだろう。
「⋯⋯少し遅いわね」
何か嫌な予感のようなものを感じて私は花を置くと、ゆっくり立ち上がった。
震える足を一歩一歩動かして厨房に続く扉に手をかける。すでに息が上がっているが躊躇わずに扉を開けた。
「──ただの召し使いの癖に騎士に楯突くんじゃねぇよ!」
赤毛の少女が若い男に突き飛ばされた。
その光景を見た瞬間、かっと頬に熱が溜まって、逆に頭が冷えていくのを感じた。
「何を、しているの」
低く、硬い声が出た。きっと私の瞳は恐ろしく冷たい色をしているだろう。
「あ⋯⋯アイリス様」
「仮にも伯爵家の騎士が女性に手を上げて良いと思っているの?」
実家のオーウェン伯爵家も代々騎士の家系だ。女は剣を振るわないが、騎士の心構えについては事細かに教えられる。立場の弱いシャロンに対して手を上げたことは到底許せそうに無かった。
「⋯⋯奥様⋯⋯どうしてここに」
「質問に答えなさい!」
声を張り上げた。若い騎士は私が声を荒げるとは思っていなかったのだろう。視線をさ迷わせる。
「⋯⋯⋯⋯大変失礼いたしました。⋯⋯騎士としてあるべきでない姿でした」
「理由があったにせよ二度と女性に対して暴力を振るわないと誓って」
「⋯⋯はい」
「下がりなさい」
騎士の姿が見えなくなると、私は壁に手をついて身体を支えた。今にも崩れ落ちてしまいそうだった。
この足になってからこんなに長く立っていたのは初めてだ。
「シャロン、怪我は?」
「ありません。アイリス様、申し訳ありません」
シャロンがすぐに近づいてきて私の背を支えた。
「何故謝るの? やっぱり何かあったのかしら」
「さっきの男と少し言い合いになってしまって⋯⋯」
「言い合い程度で手を上げるなんて騎士失格だわ。とにかく貴女に怪我が無くて良かった」
安心したのと同時に頬の火照りも収まってきた。
シャロンの手を借りて椅子に戻り、朝食と花を抱えてようやく部屋に戻る。
その場面を階段からエドウィンが見ていたことなど、私は全く気づかなかった。
────
エドウィンが階段を下ろうとした足を止めたのは、アイリスの声が聞こえたからだった。
普段のアイリスからは想像できない、冷たく芯のある声だ。
シリルが不思議そうにエドウィンの後ろから階下を覗き込んだ。
「⋯⋯奥様?」
視線の先は厨房に続く開いた扉と、微かに震えながら立っているアイリスの後ろ姿だ。
声を張り上げるアイリスは屹然とした態度で目の前を睨み付けているだろう。侍女を守っているらしいその姿に惹かれると共に、エドウィンの脳裏にアイリスとよく似た瞳を持つ男が映った。
後ろ姿は全く似ていないのに、騎士道を説く言葉が彼女の父親を彷彿させる。
「オーウェン騎士団長⋯⋯?」
同じことを思ったらしい、シリルがぽつりと呟いて、はっと手で口を押さえた。
沸々と吐き気が込み上げてくる。
視線の先にいるのは彼女なのに、頭に写るのは憎い男だ。今、アイリスの金色の瞳を見たら吐いてしまいそうでエドウィンは踵を返してその場を離れた。
ごとん、ごとん、と、質の良い馬車でも揺れは酷い。窓に向かって頬杖をついていた王子は自分の左手をじっと見つめた。
「⋯⋯後悔はするだろうなぁ」
常に身に付けている手袋を外すと、布に覆われていた左手は蔦が巻き付いているように傷が走っている。
「私も、夫人も、愚かだったということだ。せめて、彼と思いが通じる日が来るよう⋯⋯これからの君に幸せが訪れるよう願うよ」
誰に聞かれるでもない囁きは馬車の音に混じって消えた。




