4 疑念の芽
穏やかな日差しが降り注ぐ午後だ。
時間をもて余した私はシャロンに誘われて、屋敷の庭を歩いてみることにした。
普通の伯爵夫人なら、屋敷の管理や有力な家との茶会の企画などやることもあるだろう。
執事に私がやれることはないかと相談したが、何にも手をつけさせて貰えなかった。あまりの反対ぶりにこれ以上我儘を言っても迷惑になると思ってから、部屋で本を読むくらいしかすることがない。
一日一日がひどく長く感じられる。
「⋯⋯おはよう、ございます」
シャロンに車輪つきの椅子を押してもらい部屋から出ると、書類を片手に隣に部下をつれたエドウィンと鉢合わせた。
この前の夜に少しの会話をして以来で、私の声にも硬さが混じる。
「⋯⋯ああ」
「奥様、朝はもうとっくに過ぎてますよー」
向かいの騎士の砕けた口調に少し驚いた。
この屋敷の使用人たちは皆丁寧だけれど、私を避けているようにも感じていたから。
いつも口角が上がっているこの騎士は、記憶の片隅にある、ような気がする。
「⋯⋯フェラー、卿?」
「おお! 記憶を落として来たというのは嘘だったんですか?」
瞳を輝かせて近づいてくる彼は、確かにこんな人柄だったような気がする。
「フェラー卿、あまり近づかないでくださいませ」
「シリル、それ以上アイリスに近づくな」
エドウィンとシャロンが同時に口を開いた。
「二人して何ですか! 俺は別に何も⋯⋯ちょっ、エドウィン様! 首! 首!」
シリルの首根っこをつかんだエドウィンが思い切りその身体を引き離した。
大丈夫だろうか、とはらはらしながら見ているとシャロンは顔に笑顔を載せて私と目を合わせた。
「アイリス様、心配なんて必要ありませんよ。それでは行きましょうか」
「え、ええ」
曖昧に頷くと、シャロンが押す椅子が進み始める。
「どこに行くんだ?」
後ろからかけられた声に私は首だけで振り返った。
「えと、少し庭園へ」
「そうか」
それだけ聞いて彼は私に背を向けた。何だろうと思う間もなく遠ざかっていく。
シャロンはエドウィンの後ろ姿に一礼すると、また椅子を押し始めた。
さすがこの屋敷も伯爵家とあって、実家のオーウェン伯爵家に負けず劣らずの美しい庭園が広がっていた。
いや、財力だけで言ったらオーウェン伯爵家を超えているだろう。国に仕えてきた歴史はオーウェン伯爵家の方が長く、影響力も強いが、ここウォーズリー伯爵家は豊かな領土を持っている。
国への影響力もやがてはウォーズリー伯爵家の方が強くなるだろう。もちろん他の公・侯爵家には遠く及ばないが。
「この花は⋯⋯ウォーズリー伯爵家の花ね?」
一際目立つ位置に植えられているのはルコーレという花だ。ウォーズリー家の印章に用いられている。
大きさは小ぶりだが凛とした真白の花は1本でも十分に目を引く。花壇にはそのルコーレが無数に植えられていた。
「ええ、そうですね。誠実という意味を持つそうです。ウォーズリー伯爵家は代々騎士の家門ですから騎士の理念に則ってこの花を印章にしたのではないでしょうか」
よく手入れしてあるのだろう、余分な草は一本も生えておらず、風に揺れる様がとても美しかった。
その他にも季節の花、花、花。色とりどりの絨毯となっている。
「花壇がかなり広いのね」
「先代伯爵夫人は花がお好きだったみたいです」
「そうなの。そう言えば記憶を失くしてから先代伯爵夫妻にお会いしたことがないわ。早い内にあの人へ当主を交代されたみたいだけど」
「あ⋯⋯。先代夫妻は亡くなっているんです」
シャロンが言いにくそうに小声になる。
「え⋯⋯?」
まだ若いだろうに、何で。
考えたところでズキンと頭痛が襲った。
「アイリス様!?」
頭を抱える私にシャロンは背をさすって何度も声をかけた。
ガツン、ガツンと鈍器で殴られる痛みに私は悲鳴も上げられない。
「アイリス様、どうされましたか? 落ち着いてゆっくり呼吸してください」
「頭が、痛いの。思い出そうとすると」
シャロンははっとした様子で目を開くと、肩を小さくした。
「申し訳ありません。もうこの話はやめましょう⋯⋯? 大丈夫です。落ち着いて、ゆっくり息を」
吸って、吐いて、繰り返すと徐々に痛みは引いてきた。打ち付けられる痛みが遠くで起こるように離れていって、意識が清明になっていく。
どのくらいか時間がたった後、楽になったと小さく微笑めば、シャロンが泣きそうな顔をした。それでも次の瞬間には小さく私に微笑み返してくれる。
「日が陰る前に、そろそろお部屋に戻りましょうか」
「⋯⋯シャロン」
「はい」
「貴女には本当に感謝しているわ。ありがとう」
シャロンの手を握ると、彼女が私の手を握り返し、額に当てた。主に向ける最大の敬意を示す姿勢だ。
「とんでもないです。アイリス様はずっと前から私の唯一の主ですから」
変わらない言葉に私の胸もじんわりと温かくなる。昔から彼女が私の心の支えだった。
言い足りない感謝の言葉を心の中で唱えながら、私は私室へと戻る道を進んだ。
「⋯⋯ウェン⋯⋯は本当⋯⋯か?」
「⋯⋯それ⋯⋯怪し⋯⋯ふりしているか分からないだろ?」
段々と近づいてくる声が大きくなってくる。若い騎士二人が何事か話しているようだった。
「エドウィン様はずっと⋯⋯っ!」
私たちに気づいた騎士がはっとした表情をして隣の騎士を小突いた。そうして、気まずそうに口を閉じて早々と横を通りすぎていく。
「⋯⋯内緒話かしら。⋯⋯シャロン?」
シャロンの方を振り返ると、騎士たちの方を睨んでいた彼女が取り繕ったように微笑んだ。
「へ!? あ、アイリス様、気にしないでくださいね。騎士の会話なんて本当にくだらないんですから⋯⋯」
「そう⋯⋯」
何か私に都合の悪いことだったのだろう。思い返してみれば、特に騎士から私に対する態度はとても友好的とは言えない。
ちり、と頭の隅が痛んだ。
でも、もう今日は何も考えられない。
休んでも良い気がする。
椅子の上で目を閉じると、私はいつの間にか眠ってしまったようだった。