3 分からない日常
私は数日たっても歩けるようにはならなかった。
蔦の模様は過去の傷跡のように皮膚に残り、それを隠すため、裾の長い衣を纏うようになった。
そして記憶も同じだ。何も思い出していない。
シャロンは変わらず側にいてくれる。知らない空間の中で、その事が心細さを宥めてくれた。
「アイリス様、椅子に移動されますか?」
「⋯⋯ええ、手を貸してくれるかしら」
もちろんです、という明るい笑顔にほっとして、私は何とか椅子に移った。
乱れた裾もシャロンがそっと直してくれる。
「妻がこんな身体になってがっかりするでしょうね」
この言葉は本心だが、確認したいこともあった。
「アイリス様の魅力はそんなことでは損なわれません! 旦那様も⋯⋯分かってくださる筈です⋯⋯」
やっぱり。
「どうしたの?」
「っいいえ!」
慌てた様子のシャロン。
きっと、私と彼の間には何か事情があるのだろう。
一日一回顔を会わせるかどうかといった夫。記憶が無いからという訳では無いらしい。
愛があったとはとても思えない。
前までの私はこの屋敷でどう過ごしていたんだろう。あの人とどう接していたんだろう。
ぼんやりとしていると、控え目に扉を叩く音が聞こえた。
「アイリス様、先生がいらっしゃいました。入っていただいても良いでしょうか?」
「ええ、お通しして」
一礼して部屋に入ってきたのはウォーズリー伯爵家専属の医者だ。老齢の男は小さな声で許可をとると、私に手を触れ、恒例になった診断をし始めた。脈を計り頷いてから、今度は足の傷を診る。
足は魔女の魔法によるものだろうと、エドウィンが言っていた。東の森には魔女が居て、彼女が施した魔法は蔦の模様がつくらしい。
なぜ私に魔法をかけたのか、私が自分で東の森に行った理由も分からないけれど、淡々と説明したエドウィンの目の前で私は取り乱すことができなかった。記憶が無いことも魔女の魔法なのだろう。
もう治ることはないと言われても驚かないようにここ数日で覚悟はできた。
けれどまだ医者に診てもらうのは、彼は自分が諦められないからだ、と医者は必要ないと言った私を諭した。
「⋯⋯昨日と変わりませんね。儂の方からは何もできませんが、伯爵様が魔法を解く方法を探しておいでです。希望を棄てるにはまだ早いかと。どうか諦められませんように」
「そうなの」
彼のことが良く分からなかった。私のことを疎ましく思っているのではないのだろうか。
実は、気にかけてくれているのだろうか。
仮にも妻なのだ。声をかけるくらいは、しても良いだろうか。
医者の手が身体に触れている間も考え事をしていたら、いつの間にか診察が終わっていた。
「ねえ、今は⋯⋯あの人は、どこにいるのかしら?」
エドウィンの名前を言葉にするのが慣れなかった。なんとなく言葉を濁したがシャロンには伝わったようだ。
「旦那様でしたら、執務室か訓練場だと思いますよ」
会いに行けば仕事の邪魔になってしまいそうだ。目を臥せて悩んでいると、シャロンが気遣わしげに微笑みかけた。
「何か用事でしたら、夜なら時間が空いていると思います」
特に用事があるわけでもないのだけれど。
私は心の中だけで呟くと、寝る前の時間に彼に声をかけることにした。
私の私室だと宛がわれた部屋と彼の部屋は続き扉で繋がっていたらしい。ウォーズリー伯爵家の代々の夫婦の部屋だそうだが、その構造を聞いてからは気恥ずかしさばかり感じられる。
エドウィンが私室に来るのは就寝時だけだと聞いて少しだけほっとしたのはつい先程のことだ。
部屋の中がランプで照らされている。すっかり夜になった今は、私は寝間着の上に羽織を被っただけの格好だった。
私の寝支度を整えたシャロンは部屋から出る最後まで私のことを心配していたが、大丈夫だと言って帰らせた。
「⋯⋯うん、やっぱり一回出て尋ねようかしら」
続きの扉を見て首を振る。何より恥ずかしいし、ここ数日の私と彼の距離を察すると、この扉を使うような仲では無さそうだ。
私はゆっくり身体の向きを変えると、部屋を出て、隣の部屋へ向かって歩き出した。
思うように動かない足も誰かの支えや、伝いがあれば短い距離なら移動できる。
不格好な上、亀よりも遅い歩みな気がするが。
やっとの思いで短い距離を歩ききって、扉をノックした。緊張もあるけれど、ノックしてしまったのだ、もう後戻りはできない、と自分に言い聞かせる。
「何の用だ?」
低い、硬質な声が聞こえた。
声をかけようなど思わない方が良かっただろうか。すぐに後悔が首をもたげる。
「ぁ、あの私です⋯⋯。お邪魔でしたら引き返します」
がたがたと物の落ちる音が聞こえて急に扉が開けられた。
「アイリス!?」
「こ、こんばんは」
「何かあったのか。っ!? 一人で歩いて来たのか」
「ぇ? ちょっ⋯⋯」
軽々と横抱きにされてはくはくと声にならない息が漏れた。いきなりのことに驚いて身体は固まったままだ。
椅子に下ろされて、彼が離れてからようやく周りを見ることができた。
私の部屋と似た作りだがこちらの方が少し広いだろう。代々の伯爵は男で継がれてきたためか私の部屋よりも装飾はシンプルで男性用の意匠だった。
私を椅子に下ろしたエドウィンは、私から視線を外して息を吐いた後、焦げ茶の前髪を手で乱しながら向かいの椅子に座った。
机の上には書類が散乱している。どうやらまだ仕事中だったらしい。
「⋯⋯仕事中にごめんなさい」
「何かあったのか?」
淡々と聞かれて私は言葉につまる。
「ぁ、違うの、だけれど⋯⋯」
「何の用だったんだ?」
「え、と」
ただ貴方と話をしてみたくて、とはとても言えなかった。
何を言おう、とぐるぐる無駄な言葉が頭の中を巡る。彼の顔もまともに見ることができない。
「⋯⋯⋯⋯」
しばらく私の顔を見つめていたエドウィンは、額に手を当てて深い息を吐くと立ち上がった。
「用が無いなら部屋に戻れ」
「⋯⋯ごめんなさい」
想像していたよりもずっと冷たい態度に後悔ばかりが身体を支配する。だから、彼が私の身体に触れてびくりと肩を震わせたのも仕方がないことだと思う。
エドウィンはその反応に一瞬傷ついたような表情を浮かべたが、すぐに瞳に浮かんだ感情を消した。
「少しだけ、じっとしていろ」
訪れる浮遊感。ぎゅっと目を閉じていると続きの扉から私の部屋に入り、ベッドに下ろされた。
私は何をしようとしたんだろう。
彼と一生を共に過ごそうと、少しでも仲良くなろうと? 数日の距離感を見れば分かる。珍しくもない政略結婚だ。
私ったら随分結婚に夢を見ていたのね。
心の中で自分自身を嗤った。
彼が身体を離す直前、空気に溶けそうなくらい小さな声が私の耳に届いた。
「もう夜も遅い。今日は休め」
何か用ならまた聞こう、と。
私の頭に武骨な手が乗せられてふわ、と撫でられる。
「え⋯⋯?」
聞き返した私の言葉には何も言わず、彼の身体が離れていった。
一人になった部屋で私は自分の髪に触れる。
「夢、じゃないわよね?」
壊れ物に触れるような優しい手つきは私に好意を抱いていると勘違いしそうな程だった。
──冷たい言葉と、優しい手つき。
「⋯⋯やっぱり、分からないわ」
呟いた言葉は夜の空気に消えていった。




