10 無事を祈る
また、数日が経った。
私の部屋には皇太子との食事の次の日から毎日花が飾られている。花は季節の花が混じることもあるが、きまってルコーレも共に生けられる。
私はこの花をかなり気に入っていた。
「そう言えば、私も他の侍女から聞いた程度なのですが、ウォーズリー伯爵領の辺境で盗賊が現れたと」
「盗賊?」
「はい。規模が少し大きいみたいで、もしかしたら伯爵家の騎士が討伐に向かうかもしれません。少し屋敷が騒がしくなるかもしれないと言っていました」
「そうだったのね。ありがとう」
シャロンとそんな言葉を交わした後の夜。
いつもなら誰も訪ねてくることの無い扉がこつ、こつと叩かれた。
寝るにはまだ早い時間でシャロンが用意してくれた本を読みながらベッドに腰かけていた私は返事だけを返す。
扉を開けに行けないのを申し訳なく思いながら、誰だろうと考えを巡らせた。
「俺だ。入るぞ」
エドウィンだ。
扉の開く気配に私は慌てて姿勢を正した。こんな時間に会うことはほとんど無い。部屋に訪ねて来たのは皇太子が来たとき以来だ。
何の用なのか、表情を窺っても私には何も感じとることができなかった。
「こんばんは。こんな体勢でごめんなさい」
「いや、いい。俺もすぐに出る」
「こんな時間にどうか、されたの⋯⋯?」
グレーの瞳をまっすぐに見つめると、頭の隅が痛んだ。
どうしてだろう。最近は時々起こる頭痛の感覚が狭まっている気がする。
私は一度ぎゅっと目を閉じてそれを振り払う。
「領地の東の方で盗賊が出たらしい。対応に手こずっているようだから伯爵家の騎士から人を出すことにした。俺も少し屋敷を空ける」
「あ⋯⋯一緒に、行かれるのね」
「屋敷にも騎士は残るから守りに心配は要らない。明日の朝に出発するがおそらく、数日で帰ってくるだろう」
「分かりました」
エドウィン自身もこの国では有名な騎士だ。自ら戦うこともあるだろう。私の父もそうだったが、騎士は敵の前に出て戦うのだ。
理解しているつもりだったが、今更ながらに怖くなって気づけば懇願するような声が出ていた。
「どうか⋯⋯無事にお戻りください」
「⋯⋯大したことの無い仕事だ。無事に戻るに決まっている」
そう言って部屋を出ていくエドウィンをベッドの上から見送る。
一人になった後、もう一度本を開こうとするがどうにも落ち着かない。
どうしてこんなに不安に駆られるんだろう。
しばらく考え込んだ私は、図書室で読んだウォーズリー伯爵家の歴史の中で、妻が夫に刺繍を入れたお守りを渡す風習を思い出した。
実家のオーウェン伯爵家には無い風習だ。刺繍で無事を祈れば気も紛れるだろうか。
シャロンが私の足が不自由だからとベッドから届く距離に様々な物を置いてくれている。その中に刺繍用具があったのは幸運だった。やることの無い私が一人でできることは読書か刺繍くらいだったからだ。
作りかけの刺繍から針だけを抜いて新たな糸を選ぶ。
迷うことなく柄を決めた。窓辺に置いた花瓶には月明かりに照らされたルコーレがある。
「本当は、護身用の魔法をかけた宝石を縫い付けるらしいけど⋯⋯」
魔法士でもない私は魔法を込めることもできない。
白い花弁を一針一針丁寧に縫っていく。
私は伯爵令嬢らしく刺繍の腕はまずまずだった。
全く眠気が起こらず、周りに目を向けたのはランプの明かりが必要無い、日の光が出た頃だった。
「失礼いたします。おはようございます⋯⋯アイリス様!?」
見れば寝てないのは分かるだろう。
ショールをかけたままで完成した刺繍を手に持ちベッドに座る私を見て、シャロンが慌てて駆け寄ってきた。
「シャロン、おはよう。これを見て」
「わ! 綺麗な刺繍、ではなく! どうされたんですか? まさか一晩中これを?」
「ええ。人に渡しても大丈夫な出来かしら」
「もちろんです。こんなに綺麗な刺繍、中々できません⋯⋯!」
シャロンは言いながら私の額や、首に手を当て体調を見る。
「一晩中だなんて⋯⋯お疲れでしょう」
「疲れているけど、眠たくは無いの。朝までに完成させないといけなかったから」
私から手の内の刺繍を見ても良くできたと思う。人生で一番の出来と言っても良いくらいだ。縫い目を撫でて緩く微笑む。
「あ、旦那様へお渡しする刺繍ですか? なら急がないと! もうすぐ出発すると聞きました」
「もう?」
私が思っていたよりも早い出発だ。
朝日と共に向かうらしい。間に合うだろうか。
刺繍を握りしめ、シャロンに頼もうと口を開く。
「あの、悪いのだけれどシャロン、これをあの人に──」
「何を言っているんです! アイリス様がお渡しするんですよ!」
いつもよりも強い口調で言われて、素早い動きで椅子に乗せられた。刺繍は私の手の中にあるままだ。
「シャロン、ごめんなさい。やっぱり疲れるんじゃ」
「せっかく作られたんですから、アイリス様が直接お渡ししないといけません」
額の汗を拭ってシャロンが微笑んだ。
「⋯⋯ありがとう」
門に辿り着いたのは出発する直前だったようだ。
馬に乗った騎士たちが門の外に出ようとしていた。
「エドウィン様!」
私は彼の名前を声に出して隊を引き留めた。
グレーの瞳が見開かれて、驚いた様子の彼が馬から降りて私の元まで来てくれる。
「よろしければ、これを⋯⋯」
刺繍を差し出す私の腕は情けなくも震えていた。
「⋯⋯⋯⋯ああ。ありがとう」
そっと受け取った彼の手が少しだけ私の手に触れる。
一瞬の温もりの交換だったのに、私は張っていた心がほどけるように安心できた。
受け取るときのエドウィンの表情は見えなかった。
でも、声がいつもより柔らかかった気がする。
じわりと達成感のようなものが身体を巡る。
「引き留めてしまってごめんなさい。皆様、お気をつけて」
この先の道のりも晴れていると良い。
私は、屋敷を出ていった騎士たちの姿が見えなくなるまで門で見送っていた。




