1 目覚め
──あなたは必ず後悔する。
フードから零れた銀髪が揺れた。目の前の女は嗤うでもなく哀しむでもなく、ただ淡々と、確認するために口を開く。
──本当にそれを望むの?
対する私はゆっくりと頷いた。
どうか私の記憶を、あの人への恋心を消してください。
────
薄目を開けると、天井が見えた。品のある淡い色の天井だ。ぱち、ぱちと瞬きをすると酷く目が乾いているのが分かった。
違和感があるのは目だけではない。身体中が固まって石像にでもなった気分だった。
石のような身体を無理やり動かそうとすると、ぐっと手に力が入る。ゆっくりと手を開いて、閉じてを繰り返すと、こわばりがとけていくようだ。
「う⋯⋯ん⋯⋯?」
寝ぼけたような若い女の声が聞こえる。足元から聞こえたそれは、私の様子に気がつくとすぐに驚きに変わった。
「⋯⋯っ! 奥様! 目を覚まされたのですね! 私がっ、私が分かりますか!?」
大きな瞳にいっぱいの涙を浮かべて必死に問いかけてくる。きっちりと着た侍女のお仕着せに、赤毛を纏めたこの少女は私もよく知っている。
「⋯⋯シャロン」
「はい! シャロンでございます⋯⋯! 奥様⋯⋯本当に良かった」
私がどうかしたのだろうか。シャロンがここまで取り乱すのを見るのは、小さい頃、二人で野犬に追いかけられた時以来だと思う。
シャロンに握られた手の温もりに安心しながらも、戸惑いの方が大きかった。
それに、シャロンからの呼ばれ方。
私は今までそんな呼ばれ方をしていただろうか。
「奥様? どこかお加減が悪いですか?」
ぼんやりとした私に気づいて、シャロンが顔を覗き込んでくる。
可愛らしい顔立ちが曇るのをこれ以上見たくないのだけれど。それでも私は聞かずにはいられなかった。
「シャロン⋯⋯私を奥様と呼ぶのはどうして⋯⋯? ここは、どこなのかしら。見慣れた感覚もするのだけれど、どうしても思い出せないの」
シャロンは途端に瞳を真ん丸にして、何を言えば良いのか、と唇を震わせた。
「⋯⋯え、と」
廊下から、足音が近づいてきて勢いのまま扉が開けられた。
「アイリス!」
息を乱して駆け込んできたのは精悍な顔立ちをした男だ。男の姿を目に写した瞬間、頭にちり、と不快な痛みが走った。
しかし、それも一瞬。男はシャロンを押し退けて私の肩を掴んだ。
乱暴な動作とあまりの近さに目を白黒させてしまう。
「やっと起きたか! 体調はどうなんだ?」
「え? ええ、ええと」
「どこか悪いのか?」
眉をしかめて顔を覗き込む男の灰色の瞳に、戸惑った顔をした私が映っている。見つめ返すと男ははっとした様子で距離をとった。
「⋯⋯もう一度聞くが、どこか悪いところがあるのか」
「い、いえ、大丈夫だと思います。お気遣いありがとうございます」
私は辿々しい動作で頭を下げて、それ以上何と言えばいいのか分からず、男の言葉を待った。
「⋯⋯名目上でも俺の妻なんだ。倒れて目を覚まさないと聞けば、気にもかかる」
酷く苦々しく口に出された言葉は咀嚼して理解するまで時間がかかった。
「妻⋯⋯」
「アイリス?」
今度は男が、私の様子を不審に思ったようで、小さく名前を呼ぶ。
その名前を呼ぶ声も、耳に届く度、違和感に襲われる。聞き馴染みがあるようで、記憶にないことが気持ち悪いのだ。
「あの⋯⋯奥様」
恐る恐るシャロンが声をかけた。
「ご自分の名前を覚えていらっしゃいますでしょうか」
もちろん、と声を出そうとして、息が詰まる。
「⋯⋯アイリス。アイ、リス・オーウェン⋯⋯」
「⋯⋯冗談はやめてくれ」
君はアイリス・ウォーズリー。ウォーズリー家に嫁いできただろう。
温度の無い声で言われてびくりと身体をすくませた。
ウォーズリー伯爵家のことは知っている。私の家と同じく、騎士を多く輩出している家だ。
アイリス・ウォーズリー。言われてみれば馴染みのある響きだとも思う。また、頭にちり、と痛みが走る。その痛みから逃れるように小さく頭を振った。
自分のことの筈なのに、はっきりと分からない。自分が自分で無いような心地がして、背筋がすっと冷えた。
右手で身体を抱き締めたのに気づいたシャロンが、私を男から庇うように、間に立った。
「旦那様。奥様はまだ目覚めたばかりで混乱しているのかもしれません。どうか、少しだけお時間をいただけませんか?」
シャロンが深く頭を下げる。
「あ⋯⋯シャロン⋯⋯」
口から零れた私の言葉に男は顔をしかめて、また様子を見に来る、とだけ言って部屋から出ていった。
「シャロン、あの方は?」
「⋯⋯奥様⋯⋯いえ、アイリス様の夫となられたウォーズリー伯爵家の当主様です」
「私、結婚していたのね」
「覚えていらっしゃらないのですか? 結婚されたのは一年と少し前です。そのときからこのお屋敷に来て⋯⋯」
ここは私の部屋だったのだ。
ぐるりと部屋を見渡してみる。細工の入った家具、古美術品の調度品。主人を象徴する物が無いからだろうか。落ち着いていると言えば聞こえは良いけれど、まるで客室のような、どこか物寂しい部屋だった。
「倒れる前のことを覚えていらっしゃいますか?」
私は首を横に振る。
「アイリス様は王都の東の森で倒れていたんです。私の知らない間に一人でお出掛けになられたようで⋯⋯供もつけずに屋敷を出たと後から聞いて、ウォーズリー家の騎士総出で探したんですよ。⋯⋯とにかく、無事で⋯⋯」
その時のことを思い出したのかシャロンの声に水っぽさが混じった。涙を拭おうと伸ばした私の手よりも先に、ジャロンが自分の袖でぐいと目元を拭う。
「お茶を淹れてきます! お茶を飲めば気分が落ち着きますから」
紅茶を淹れると同時に目元を冷やしてきたのだろう。可愛らしい真ん丸の目は腫れてはいないが、少しの赤みが差していた。
「ありがとう。今、起き上がるから」
「ゆっくりで大丈夫ですよ。では、テーブルにお茶をご用意しますね──っわ」
ジャロンがテーブルに茶器を置こうとした時だった。何に躓いたのかシャロンの身体が傾く。
危ない、と。到底届かない距離なのに私の身体はシャロンを掴もうと動いた。
動いた、筈だった。
「アイリス様!」
転んだのはシャロンではなく私の方だった。シャロンは流石、躓いたのは一瞬で、転ぶのには踏みとどまったようだ。
私は鈍い音とともに肩を床に打ち付けた。
ベッドから床まで大した距離ではないが、少し痛い。
「大丈夫ですか? どこを怪我されました?」
シャロンが慌てて駆け寄ってきて、息を呑んだ。視線が私の足を離れない。
足がどうなっているかと確認しようとして、私はようやく動かないことに気がついた。
蔦が足に取りついている。
寝間着からのぞく私の足は、鋭い爪で傷を作ったように皮膚の上に赤く、蔦の模様がついていた。
「これは⋯⋯何?」
私の知る日常じゃない。
日常は、部屋に瑞々しい花が生けてあって
よく日が入る窓があって
シャロンがいて、お姉様がいて──。
頭の中は分からないことだらけだった。一度目を閉じてみる。ゆっくりと開けても、ここが現実だ。
──これは、対価。
知らない筈の記憶の底がそう囁いた気がした。
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