008
もう一つ大事な話がある、とオストシエドルング辺境伯は言った。そのまま話し始めるかと思いきや、花恋はなぜか馬車で連れ出され…。
「ここは…?」
馬車の窓から見えた景色は昨日と同じ。森から領都の入口へ、そしてオストシエドルング辺境伯の屋敷へ向かう途中で止まった。距離的に辺境伯の屋敷とルヘゾネの中間点。領都の中心でどっしりと構えた、尖塔アーチが四隅にそびえ立つ壮麗な建物に花恋は息をのむ。圧倒する高さ、歴史を映し出す重み、この町を象徴するであろう存在感に飲み込まれてしまいそうだ。先に降りたオストシエドルング辺境伯のエスコートを受ける手に力がこもる。花恋の動作が鈍くなったことに気が付いた辺境伯は、彼女の視線の先を追って目を細めた。
「神殿だよ。もう何百年とこの地を守ってくれている。」
「とても立派ですね…美しい…」
「はは、そうだろう?中から見た神殿も一味違う美しさがある。さあ、行こう。」
延々と続く外壁に囲まれた神殿は近寄りがたく、けれど邪悪や恐怖から守ってくれそうな神々しさがあり、花恋はドキドキしながらオストシエドルング辺境伯の後についていった。誇らしげに言われた通り、内部もまた圧巻だった。特に四方八方で陽光に輝くステンドグラスの絢爛さに花恋が目を奪われていると、奥からコツコツと足音が聞こえてくる。耳で認識していても顔を動かそうという気持ちがわかない。花恋の瞳はステンドグラスに魅入られていた。
「ご領主様。」
「おお、大神官様。急に申し訳ない。」
「いえいえ、お会いできるのを楽しみにしていました。」
「ヒョーク様、こちらへ。」
呼ばれた花恋がようやく視線を向けると、オストシエドルング辺境伯のそばに青年がいた。花恋の世界ではゲームや漫画に出てきそうな特徴的な服装の青年に、この神殿の関係者だとすぐに理解する。花恋は体を青年に向け直して挨拶をした。
「初めまして、カレン・ヒオクと申します。」
「…これは、これは。昨日、遠目でお見かけした際も美しい方と思いましたが、なんと美しい…。聖女様にお会いできて光栄でございます。」
驚きに目を丸くしていた大神官が花恋に深々と頭を下げる。そして微笑みながらオストシエドルング辺境伯と花恋を交互に見た。
「ご領主様より聖女様の魔力を測定するよう伺っております。聖獣の力を受け止められたのです、いかほどか私も楽しみでございます。」
「え?私、魔力はありませんけど…」
「はい?」
「ですから、魔力を持っていません。」
「…え?」
ぽかんとした大神官がたっぷりと時間をあけて、ゆっくりと首を傾げた。この人は何を言っているのだ?と言う疑問を花恋に視線でぶつけた後、意味が分からないとオストシエドルング辺境伯へ助けを無言で求める。この神殿の長であり、オストシエドルング領のみならずエストマルク王国内の神官の中でも上に位置する大神官の混乱ぶりを見て、オストシエドルング辺境伯は豪快に肩を揺らした。
「わはは、私も同じ反応をしたぞ!」
「…それはそうでございましょう。聖女様が魔力を持っていないなど…」
「ですが、魔法を使ったこともないですし…」
「と、ヒョーク様はこう言われる。だから大神官様に測っていただこうとお連れしたのだ。」
「…どうぞこちらへ。」
失った微笑みを取り戻した大神官は、どれほどの人数が座れるのか分からないほど整然と並べられたベンチの間を祭壇に向かって歩き出す。その後ろをオストシエドルング辺境伯と続きながら、花恋は辺境伯に話しかけた。
「大神官様は優秀な方なのですか?大神官になる方はもっと年齢や経験を重ねてからでないとなれないと思っていたので、あんな若い方が大神官様と聞いて驚きました。」
「うん?優秀なのは違いないだろうが、大神官様は確か90歳を過ぎていたはずだが?」
「…え?」
「ご引退まであと数年のはずだぞ?」
横を向いていた花恋の顔がぐりんと勢いよく前へ向いた。見える背中越しに大神官の顔を思い出し、またオストシエドルング辺境伯を見る。それをもう一度繰り返し、花恋は恐る恐る口を開いた。
「…ご冗談ですよね?」
「いや、確かだと思うぞ?大神官様、お幾つになられた?」
「92でございます。まだまだ若い者には負けませんよ。」
振り返った顔は楽しそうに微笑みを浮かべていた。失礼と分かっていながら、花恋は穏やかに答える大神官を凝視してしまう。張りのある肌、コシのある髪、溢れ出る生命力。どう見ても『青年』だ。おじいちゃんでは絶対にない。その見た目からして自分と近い世代だと思っていた花恋は呆然として、それからはっとして隣にいる辺境伯を見た。
「…失礼ですが、ちなみにオストシエドルング辺境伯様は…?」
「私か?65になったぞ。」
うそだ…嘘だと言って。花恋の口から洩れた驚愕に、オストシエドルング辺境伯と大神官は歩みを止めた。その二人を見比べて、自分の頬に手を当てて…。花恋は絶望のあまり膝をつきそうになる。だってどう見たって若い。むしろ若すぎる。25歳の女にとって敵でしかない。いかにアンチエイジングで粘れるか日々努力している花恋は心をポッキリと折られた。
「…まさかご夫人様も…?」
「マリーか?あれも私と同じ年だな。」
「…羨ましいです。」
疲れた声で絞り出した感想が虚しく聞こえる。花恋が一人で落ち込んでいるのに対し、オストシエドルング辺境伯と大神官は揃って頭に疑問を浮かべた。羨ましいのは自分達の方である。聖獣と会話ができ、しかも花恋自身は否定しているが闇属性の魔力を持っているのだろうし、見た目のことを言うならば花恋は滅多に拝めることのできない美女ではないか。大きな瞳、筋の通った鼻、柔らかそうな紅唇、透明感のある肌。適所に配置された各パーツに、谷間を形成している胸、細くくびれた腰。その集合体である花恋に何を羨ましいと思われたのかさっぱり分からない。
「オストシエドルング辺境伯様にも驚きですが、大神官様にはびっくりです。何をしたらそんなに若々しくいられるのですか?」
「…若々しいでございますか?」
「だってそうではないですか。92と65って…30近くも違うのに見た目が変わらないって。私、25ですけど…私とも変わらないって…え、何歳差のなるの…」
ここで二人の疑問が解けた。花恋が羨ましがっていたのは年を取っていっても変わらない外見だったのだ。言われてみれば、25歳と65歳と92歳で外見の差分がほとんどないのはおかしなことかもしれない。今まで不思議にすら感じなかったことだが、初めてこの地に来た花恋にとっては心にくるものがあったのだろう。世の女性は老いも若きも美というものに執念を持っているものだから。あまり頓着のない男が突っ込んでいい領域ではない。返り討ちに遭うのは必至だ。きっと花恋の生まれ育ったところでもそれは変わらないのだろう、とオストシエドルング辺境伯と大神官は顔を見合わせて静かに頷いた。
「聖女様。私達にとっては何の疑問もないのですが、この世界では20歳前後から100歳前後まではあまり見た目が変わらないのですよ。」
「は…?」
「100歳を超えるとさすがに老いも見えてくるのですが。」
「…え?」
「聖女様がお育ちになったところは違うのですか?」
「え…ちょっと待ってください?…え?100歳から老いる…?え、何歳まで生きるの?」
思わず敬語が抜けてしまった。それに気づかない花恋が気に障るでもなく、逆につられるように大神官はおっとりとした口調で答える。
「そうですねえ、200歳近くまで生きることもありますね。」
「200…」
花恋は唖然とした。しかし、同時に納得もした。昨日からおかしいと思っていたのだ。見かける人のほとんどが『お兄さん』や『お姉さん』で、『お爺さん』や『お婆さん』はおろか『おじさん』や『おばさん』がいなかった。なるほど、100歳まで変わらないのなら若い人ばかりでもおかしくない。人を見た目で判断してはいけない、この格言がこれほど当てはまる世界があろうとは…。200歳まで生きたいとは思わないが、綺麗なまま死ねるのはいいと思う。花恋は半ば放心したまま『羨ましい』とまた呟いた。