007
旦那様がお越しです、と花恋に連絡が入ったのはベッドの上でぼんやりとしていた時だった。昨日と同じく、ミラとミリにドレスを着せられ、髪を弄られ、化粧をされ、シギワルドと朝食を取り、登校するシギワルドを見送って、使用人達はそれぞれの仕事があるが花恋は特にすることもなく、ダメもとで聞いてみたもののやはり何もさせてもらえず、うろうろしていても邪魔だろうからと部屋に引っ込み、一人で寂しく拗ねていた時。コウは朝食を終えたら森へ行った。
「おはよう、聖女様。」
「おはようございます、オストシエドルング辺境伯様。」
「お、用意したドレスを着てくれたのだな?よく似合っているよ。」
「ありがとうございます。」
「シグから聞いたのだが、私もヒョーク様と呼んでいいだろうか?」
「…『シグ』とはシギワルド様のことでしょうか?」
「ああ。それで、ヒョーク様とお呼びしても?」
「『様』もいらないです。お気遣い、ありがとうございます。」
領主が来ると知っているのに出迎えをしないのは心証が悪くなる。玄関ホールで到着を待っていた花恋に、オストシエドルング辺境伯はにこやかに挨拶をした。花恋も慣れないながらに膝を曲げ挨拶を返す。
「…聖獣は?」
「森へ行っています。いけませんでしたか?」
「いや。本来なら聖獣の行動を我々人間はどうこう言えないのだよ。今こうして留まってもらっているほうが特別なのだ。気にしなくていいぞ。」
「それならよかったです。」
「今日はヒョーク様と話をしたくて来たのだ。」
「話、ですか?」
「ああ。付き合ってくれるかな?」
「もちろんです。」
では行こう、と先頭を切るオストシエドルング辺境伯の後を花恋は続く。サロンではすでに準備が整えられていて、ソファに座った二人の前に湯気の立つお茶が置かれた。キーランド以外の使用人を下がらせると、オストシエドルング辺境伯は花恋を正視する。領主…この地の支配者の視線を受け、花恋は身じろいだ。口を結び、じっと見つめる様は、まるで『見極めてやる』と狙いを定められたようで。花恋の心臓がドクドクと動きを大きくする。上層の人間と話す機会があまりない花恋にとって、サロンは一瞬で落ち着くことのできない空間になってしまった。何と言ったって花恋は庶民だ。お貴族様など物語の登場人物でしか接点がない。図らずとも見つめ合うことになってしまった気まずさに心臓が痛みだしそうになった時、オストシエドルング辺境伯の瞳が穏やかに細まった。
「…本当によく似合っている。」
「ええと…」
「そのドレスは私の姪が着ていたものなのだ。」
「そんな大切なものをお借りしていたのですか?何だか申し訳ありません。」
「いいや。数年前のものだからデザインも流行遅れだし、着る人ももういないだろうからな。だから着てもらえて嬉しい。」
「…大事に着させていただきます。」
「ああ、そうしてくれ。」
オストシエドルング辺境伯が笑みを浮かべて一つ頷く。そして、『さて』と本題に入った。
「オストシエドルングを治める者として改めて礼を言わせてもらいたい。聖獣をこの地に留めてくれたこと、心より感謝する。」
「いいえ、そんな!こちらこそこんな立派なところに泊まらせてもらい、食事も衣服も用意していただいているのです。私の方が感謝しなくては…本当にありがとうございます。」
「寛げているのなら安心した。何か不足しているものはあるかな?」
「いいえ、贅沢させてもらっています。」
でも…。そう続けようとした花恋だったが、言葉にしなかった。口を開きかけたのに噤んでしまった聖女に、辺境伯はほんの少し眉を顰める。
「何かあるなら遠慮なくいってほしいのだが。」
「…部屋も食事も衣服も贅沢すぎて申し訳ないと思って。せっかく用意していただいたものにけちをつけたくないのですが…、部屋はもっと狭くていいですし、食事も…あの、量が多くて…。着るものだって町の人達が着ているようなもので本当に十分なのです。」
「ヒョーク様は謙虚な方なのだな。」
「そんなことないです。」
慌てて否定する花恋に微笑むと、オストシエドルング辺境伯は後ろに控え立つキーランドへ指示を出した。
「部屋はどこを使われている?」
「主寝室です。」
「そのままで。食事に関してはヒョーク様と相談するように。」
「畏まりました。」
「ドレスは…」
「さすがに町の者達のようなものも、使用人達のものも、聖女様に着せるのはいかがかと思いますが。」
「だよなあ…申し訳ない、ヒョーク様。ドレスもこちらが用意したもので我慢してほしい。」
「…ですが私、働きたいのです。大切なドレスを汚すわけにもいきませんし…」
花恋が口を挿むひまなく、これまでとあまり変わらない扱いになってしまった。統治者だけあって、オストシエドルング辺境伯が出すてきぱきとした指示は否定できない何かを醸し出している。それでも何とか自分の意見を示した花恋に、オストシエドルング辺境伯はお茶に手を伸ばして一呼吸置いた。
「ヒョーク様は昨日から働きたいと言っているな。」
「はい。実は昨日、勢いに任せてここで女中仕事をさせてほしいと頼んでしまったのですが…考えてみれば辺境伯様のところで働くとなると、身元がしっかりしていないといけませんよね。大変失礼なことを申しました。」
花恋はオストシエドルング辺境伯が座るソファの後ろで控えているキーランドへ頭を下げる。どこで働くにしても身元が明らかでないと雇ってもらうことは難しい。上層になればなるほど厳しい審査が待っていることだろう。身元不明の花恋が領主の下で働くのは不可能に近い。働き口を求めて無茶を言ってしまった。花恋へ同じように頭を下げ返したキーランドに目礼をし、花恋はオストシエドルング辺境伯に視線を戻した。
「けれど、現実問題としてお金が欲しいのです。下世話な話ですが、生きていくためにはお金が必要ですよね?得るためには働かないと。」
「…ヒョーク様は25歳だと聞いたのだが?」
「はい。」
「25だと雇うところは少ないだろうな。」
「何故です?」
「何故?未成年ではないか。」
「未成年!?」
「ああ。」
「えっ!?25ですよ?大人になって何年も経っているではないですか!」
は?と互いの目が交錯する。何を言っているのだろうと真意を探る視線を、二人は前に座る相手に投げかけた。サロンに漂う微妙な空気を破ったのはオストシエドルング辺境伯。驚きに浮かせてしまった背をソファに寄りかかせ、平常心を取り戻すべくことさら鷹揚に問いかけた。
「…ヒョーク様の国では、いくつから成人となるのかな?」
「20歳からですけど…こちらは違うのですか?」
「エストマルク王国では30歳で成人だよ。だからヒョーク様は未成年だ。」
「30、ですか…30…それだと私、確かにここでは未成年ですね…」
呆然として花恋は呟く。困ったことになってしまった。未成年では思うように働くこともできないだろう。生活の基盤が作れなくなってしまう。視線を外して表情を硬くした花恋が何を考えているのか。オストシエドルング辺境伯はしばらく観察するように赤い瞳で見ていたが、自分へ意識を向けるようにほんの少しだけ声を張って花恋の名前を呼んだ。
「ヒョーク様、一つ頼みがあるのだが。」
「…はい。」
「この町には我が家が支援している孤児院があってな、定期的に開催されるチャリティーバザーに妻や娘達が手作りのものを寄付しているのだ。そのバザーが5日後に開催される。ぜひヒョーク様にも寄付をお願いしたい。」
「…それは構いませんが、私は寄付しようにも何も持っていないので…」
「必要なものはこちらで揃える。なに、数も少しで十分だぞ。」
「…例えば、どんなものを作ればよいのでしょうか?」
「そうだなあ…。キーランド、マリー達は何を用意していたか分かるか?」
「奥様はクッキーやパンなど、シアナ様はハンカチやリボンに刺繍されることが多いです。マーラ様はまだお小さいこともあって、奥様のお手伝いをされています。」
「だ、そうだ。」
にこやかなオストシエドルング辺境伯の言葉に、花恋はせっかく入れてもらったのだからとお茶を傾けながら考えた。おそらく『聖女が作った』ことに意味があるのだろう。花恋が作るものを並べることで、町の人々の関心をバザーへ集めるのだ。チャリティーバザーへの寄付ならば売り上げは孤児院の収益になるだろうし、その孤児院はアッカーベルグ家が支援しているとのこと。しばらくの間お世話になるのだから、オストシエドルング辺境伯の頼みを引き受けるのは当然だろう。少しでも協力できるのなら、至れり尽くせりで過ごす毎日の心苦しさも和らぐ。純粋な気持ちと不純な気持ちを綯交ぜにして、花恋はバザーへの寄付を承諾した。働くことはバザーを終えてから考えよう。現実逃避をした花恋の顔は自嘲に染まっていた。