006
実に優雅な時間が流れている。シギワルドと花恋は向かい合って座り、両者の間には一皿ずつ出されては下げられを繰り返していた。よくあるディナーコースの形式だ。場所が高級レストランでなく辺境伯所持家屋内の食堂なだけ。うん、緊張する。花恋の背中には冷や汗が浮かんでいた。富裕層の行儀作法やマナーなど身についていない。貴族様と食べるなんてできないと首を横に振った花恋を、シギワルドは『気楽に食べましょう。僕も家の中でまで堅苦しいのは勘弁です。』とにこやかに席へ着くよう誘った。腰を下ろした花恋の後ろにはミラとミリが控え、花恋が困惑しそうになるとどうすればいいのか小声で教えた。ありがたいが食べ辛さに拍車がかかる。シギワルドはと言うと、さすが辺境伯のご令息。ほとんど音を立てずに食事を進めていた。
「では、シギワルド様は7年生でいらっしゃるのですね?」
「はい。学園生活もあと3年です。」
食事の合間、シギワルドはいろいろな話題を提供した。その中で『学園』の話に花恋が興味を示す。花恋は社会に出て数年、それは学生時代を懐かしみ始める頃だろう。エストマルク王国では各領に学園がある。そこに住む15歳から25歳までが通うのだ。ほとんどが貴族の息嬢だが、裕福な商人だったり豪農であったりなどの平民の子女も通う。学校と言う機関は概ね、勉学と社会生活を身につける場所としての役割を持っている。学生の間に形成された人間関係は一生ものだと言うのもあながち間違いではない。少しだけ遠くを見るようにシギワルドから視線を外した花恋は小さく笑った。
「…特別勉強が好きだったわけではないですけれど、シギワルド様が少し羨ましいです。社会へ出てしまうと、なかなか勉強だけに集中できるわけでもないですからね。大人になってから純粋に友人関係を築こうとしても難しいことですし。私が言うのもおかしな話ですが、どうぞ学園生活を楽しまれてください。」
「ありがとうございます。…不躾をお許しください、ヒョーク様はおいくつになられるのですか?僕とあまり変わらないように思うのですが。」
「25です。ここで生まれていたらまだぎりぎり学生を楽しめたのですけどね。」
「…ああ、やはり僕とそう変わらないのですね。それなのに落ち着かれていて、さすが聖女様でいらっしゃる。」
花恋の返答に目を大きくしたシギワルドだったが、すぐに彼女の所作を褒める。貴族なら当然のことだ。慣れていない花恋は苦笑いをして否定したが、それもまた淑やかだと褒められる材料にしかならなかった。
食事も終わり、花恋は部屋へ戻る。食後の一服も誘われたが、目まぐるしい一日に心身が疲れてしまっていた。翌朝食の誘いは嬉しく受け、一足先に失礼させてもらう。花恋に宛がわれた部屋は主寝室だった。アッカーベルグ家の人間を差し置いてとしきりに遠慮する花恋だったが、『聖女様を大切にしたいのです』とシギワルドの微笑みに押し切られてしまった。高級ホテルのスイートルームも真っ青になる立派な部屋にぽつんといる庶民。客観的に見た自分に乾いた笑いしか出ない花恋だが、実は憧れていた天蓋付きベッドに頬が緩んだ。寝支度を整え、ミラとミリが部屋から下がった後、カーテンでベッドを覆う。ふかふかの枕をクッション代わりに背中に当て、ヘッドボードに寄りかかった。夕食中に知った時から看過できない問題がずっと花恋の頭を占めている。
「…魔法って何?」
「この世界に生きる者が神から与えられた力を作動させることだ。」
「もう、そうじゃなくてっ!」
魔法の概念を聞いているわけではない。カーテンに囲まれた空間でパタパタと浮いているコウを花恋はねめつけた。
「電気じゃなくて魔力がエネルギー源って何よ…。魔法を使うって、ここはファンタジー世界ってこと?」
「我は電気の方が知らぬな。」
「電気は雷とか静電気とか、バチッとするもので…ああっ、うまく説明できない。あって当たり前だったからなぁ。」
「ほう、カレンはまことヤーパンから来たのか。」
「日本ね。ヤーパン…なのかな?どっちでもいいけど、戻りたい。」
花恋の口から深い溜息が吐き出される。ここは花恋の知っている世界ではない。魔法なんてもの、花恋が生まれ育った世界にはなかった。少なくとも、花恋の知っている範囲では魔法を見聞きした人間などいなかった。それなのに、この世界は魔力をエネルギー源としている。
「…辺境伯ともなるといたるところに宝石を使うんだ、なんて思ってたんだけどね。」
気になっていた。そこら中に宝石があることが。家具にも、道具にも、一つ一つにダイヤモンドらしきものが埋め込まれていた。『うわ…すっごい顕示欲』と若干引いていたが、それは花恋の勘違いだった。ダイヤモンドだと思っていたものは魔石で、そこに自分の魔力を通して物を作動させる。それこそ花恋にとって電気が身近であるのが当たり前のように、この世界では魔法が当たり前なのである。
「カレンは黒瞳黒髪だから闇属性の魔力を持っているはずだ。我の力を収められたと言うことは、光属性もあるのだろう。光と闇の力を持つ者はあまりいない。よかったな、カレン。珍重されるぞ。」
「いやいや!魔法なんて生まれてこのかた使えたことないし!魔力とかあるわけないし!」
「この世に生を受けた者は、ほぼ全てが持っておるはずだが?」
「それはこの世界での話でしょう?」
「では、カレンがここにいるのは何かの手違いだったと?」
飛んでいたコウがベッドの上に降りる。花恋が両手を差し出せば、小さい足でトコトコと体を上ってすくい手に座った。
「我と出会ったのは間違いだった…と、カレンは思っておるのか?」
「そんなことない、コウと仲良くなれたのは素直に嬉しいよ。まあ、真っ先に攻撃されたのは怖かったけど。」
意思疎通できる今だから軽く言える。花恋が揶揄うようにコウの頬をつつくと、気まずげに視線を逸らされた。まるで幼子のような行動にくすくすと笑いながら、花恋は真っ白でモフモフとした腹に指を沈めて梳く。
「ここで最初に話せたのはコウだもの。それまで何を言われていか全然分からなかったからすごくホッとした。」
「おそらく我の力をその体に取り込んだからであろうな。」
「コウと話せるようになったからこの町の人達から攻撃されずにすんでいるんでしょう?コウがそばにいてくれてすごく安心しているの。味方になってくれてありがとう。」
「そなたを加護すると決めたは我ぞ。『コウ』と言う名も気に入っている。」
「私の国の言葉で光って意味なんだよ。気に入ってくれたのならよかった。…ずっと側にいてくれる?」
「ああ。カレンが消えるその時まで、我はカレンと共に。」
「ありがとう。すっごく嬉しい。」
この世界で聖獣は畏怖される存在。その中でもあまりいないという光属性の聖獣に加護される。それがどれだけ心強いことか。日本へ戻れるか分からない以上、ここでどうにか暮らしていかなければならない。泣いていれば誰かが助けてくれるなんて、世の中がそんなに甘くないことぐらい花恋は理解している。さっさと生活基盤を作らなければ。背あてにしていた枕を均して体を横にする。どれだけ寝返りを打っても落ちる心配がなさそうな大きさのベッドもふかふかで、シーツの肌触りも気持ちがいい。辺境伯に拾われたのは本当に幸運だったと花恋は夜具に埋もれながら感謝した。
「さ、寝ましょう。コウ、明かりを消してくれる?」
小さな聖獣王が天蓋を見上げれば、カーテン内を照らしていた光がおもむろに消えた。コウが魔力を送ったのだ。花恋は魔力を持っていない。それがどれだけ不便なのか想像もつかないが、実際に暮らしてみないと分からないだろう。少しだけ抱いた不安を枕元に丸まったコウを一撫ですることで胸の奥に隠す。おやすみと呟いて、花恋は思考を停止するように瞼を閉じた。