005
辺境伯は侯爵に匹敵するほどの立場だ。言葉通り王国の辺境を管理する貴族。辺境は隣国に接していたり、自然がそのまま残っていたりすることが多い。ありていに言えば、有事が起こりやすい環境である。不安定になりがちな地を治めるには力がなくてはならない。辺境伯には私兵が許されていたり、徴税権を持っていたり、と特別な権限が与えられていた。エストマルク王国に辺境伯はただ一人。オストシエドルング辺境伯のみだ。爵位とは時の国王が個人に叙すもので、それは高位貴族でも変わらない。その中で、オストシエドルング辺境伯は代々アッカーベルグ家に叙爵されてきた。それだけ王室からの信頼が厚いのである。その武官家系で華美よりも堅実に重きを置く一族でも、辺境伯と言う高位ゆえ必然的に身の回りのものは豪華になってしまう。
花恋が森を抜け切る前に見つけた建物がルヘゾネだった。石で造られた3階建ての重厚な家。中に入って花恋は唖然とした。これが休憩所なのか?こんな立派な『家』が休憩にしか使われないのか?本物の貴族は恐ろしい…そう思いながら高い天井を見上げれば、複雑な形をした大きなシャンデリアが吊り下げられていた。玄関でこれと言うことは、メインルームなんかはどうなっているのだろう。ゴクリと喉が上下する。無駄にドキドキしている鼓動を感じながら、花恋はもう一度視線を周囲に巡らせた。
「聖女様、どうなさいましたか?」
「…立派なのに驚いているところです。」
「そんなことないですよ、ここは休憩所ですから。曽祖父が建てたので、新しくありませんし。それより、まずは紹介します。」
花恋の前で振り返ったのは、シギワルド・マルクグラフ・ヴォン・アッカーベルグス=ソフン。オストシエドルング辺境伯の次男だと挨拶されたのは、諸々のことが大まかに決まった後だった。
「これはとても美しい方ですね。学園でも聖獣のことで大騒ぎでしたよ。聖女様まで現れたと、それはもう上から下まで。安全が確認されるまで家に帰ることもできず、みんなそわそわしていました。まさか我が家においでいただいているとは。お会いできて光栄です。」
と、当たり前のように手を取られ唇を寄せられた時は息が止まった。シギワルドは緑瞳緑髪の、眼鏡をかけた穏やかな見た目の青年だ。急遽決まった今回の一件、花恋一人では心細いこともあるだろうと結論が出るまでシギワルドもルヘゾネで暮らすことになった。もちろん、辺境伯の思惑は他にある。それを薄々察知しながら花恋は了承した。と言うか断れるはずがない。ルヘゾネの所有者はオストシエドルング辺境伯なのだから。
「キーランドです。普段は城館で家令見習いをしているので、ここでの差配を任せてみようかと。」
両側に立ち並ぶ家事使用人達の間を慣れたように進んでいたシギワルドは、一番奥で背筋を伸ばしていた黄瞳黄髪の男性を花恋に紹介した。それに合わせて滑らかに辞儀をしたキーランドが続けて隣にいる二人の女性を引き合わせる。
「こちらはミラとミリと申します。聖女様のお世話をさせていただきます。」
「あ、あの…!」
「何でございましょう?」
「…私、自分のことは自分でできます。」
透瞳白髪と黄瞳黄髪の女性達がこれまた滑らかに膝を折る。花恋は慌てて断ろうと口を開いた。そんな待遇を受けるような人間ではない。
「それに、私は仕事を探しています。もしよろしければ、こちらで女中として過ごさせていただけませんか?」
「聖女様にそのような…」
「聖女ではありません。ただの人間です。そんなに畏まられても困ります。」
「…聖女様。父から『聖女様には快適に過ごしていただけ』と言いつかっています。申し訳ありませんが、僕の一存では何とも…。すぐに父へ相談しますので保留とさせてください。さて、聖女様。このまま屋内を案内したいのですが、よろしいですか?」
「…『聖女』呼びは勘弁してください、アッカーベルグ様。」
「参りましょう、ヒョーク様。僕のことはシギワルドと呼んでください。ここにいるのは全員アッカーベルグの関係者です、ややこしくなってしまいますから。」
異性の名前呼びは慣れていないが、ここではそれが一般的なのだろう。日本以外でもファーストネーム呼びの方が多いようだし。よし、ここは海外。花恋はそう思うことにして『シギワルド様』と確認するように呟いた。
ルヘゾネの外観は石造りで重厚な雰囲気だが、内部は貴族らしい優雅な空間だった。一つ間違えれば滑って転びそうなぐらいに磨かれた床にカツンカツンと足音が鳴る。その度にヒヤリとしたものを感じながら、花恋は慎重に歩いた。ちなみに裸足でいた花恋は、偶然にもサイズが同じだった辺境伯夫人の靴を履いている。先程の広い玄関から奥へ行くと広々としたサロンについた。大きな暖炉、太陽光を余すことなく取り入れられそうな窓、裏庭へ出られる開放的な作りだ。玄関から左へ行くと食堂があった。ここにも暖炉があり、何人座れるのだろうと目を細めたくなるようなテーブルが椅子と共に部屋の中央に配置されている。サロンとも廊下で繋がっていた。玄関から右側は厨房及び配膳室らしい。覗くことができずに花恋は残念に思った。横並びになって歩ける階段を上がって二階、玄関と同じ間取りの控室と寝室が三部屋あった。控室はここを訪ねた客人が部屋に招き入れられるまでの待機場所、寝室は城館にある各個人の私室をギュッと凝縮したプライベートルームとして使用する。どの寝室にも化粧部屋と呼ぶ別室があって、そこに持ってきた衣装や装飾品を置いておくらしい。特にサロンの上の寝室は主寝室と言うだけあって、天蓋付きのベッド、バルコニー、大きな窓が三枚、と花恋の目を惹いた。三階は使用人達用の階でアッカーベルグ一家はほとんど立ち入らない。
幸いなことにこの国の生活レベルは日本とほぼ変わらなかった。そのことに花恋は心の底からほっとする。特に衛生環境は日本で生まれ育ってしまった以上、潔癖症ではないにせよレベルを落とされるのはつらい。入浴するにもひと悶着あり、花恋の侍女になったミラとミリが当然のように浴室に入ろうとした。王侯貴族相手ならそれが当たり前なのだろうが、花恋は庶民だ。誰かに裸体を見られるなどたまったものではない。『自分でできるから』の一点張りを崩さず、何とか一人で入浴する権利をもぎ取った。裸足で外を歩いていたので足の裏は傷ができており、城館で手当てをしてもらったけれど念のため丁寧に洗い直す。たくさん歩いたので汗もかいていた。石鹸が使えることをありがたく思いながら全身の汚れを落とす。そうしてようやく湯がたっぷり張られた浴槽に体を沈めて花恋は深く深く息を吐き出した。
「失礼いたします、ヒョーク様。」
「は、はいっ!?」
「着替えをお持ちいたしました。籠に入れておきますのでお召しください。」
「あ…ありがとうございます。」
「ヒョーク様がお召しになっていたものは洗濯してよろしいでしょうか?」
「…お願いします。」
「畏まりました。どうぞごゆるりと。」
ドア越しに会話を終えた花恋の口からまた深い溜息が零れる。ゆっくりと言われても他人の家での入浴はゆっくりできるはずもなく、そう時間が経たないうちに花恋はパシャリと浴槽から出た。着慣れない形の下着を心許なく思いながら身につけ、襟ぐりが深いシュミーズを首からすっぽりと被るようにして着る。素材はシルクだ、間違いない。もっと言うなら下着もシルクだ。恐縮しきりで脱衣所のドアを開ければ、待機していたミラが『待ってました!』とばかりに素早く花恋にガウンを羽織らせた。
戻った部屋にセッティングされていたのはボディケア用品の一揃えだった。高価なソファに座らされた花恋の両脇にミラとミリが傅く。何ともむず痒いが既にてきぱきと動いている二人を前に断ることなどできなかった。それからはされるがまま、花恋は自宅エステをそれは丁寧に施された。貴族ってすごい。他人事のように貴族のセレブ振りを感じている花恋を鏡台の前に移動させると、美容関係を得意とするミリが髪を弄り始める。
「まあっ、ここまで真っ直ぐな御髪は初めてです!さらさらとしていて柔らかく、まるで絹糸のようですわ!こんなに美しい御髪ですもの、このまま下ろしましょう!」
うきうきと髪をセットするミリに、花恋は苦く笑う。何の変哲もない黒髪なのだ、褒めてもらったのは嬉しいが理解できない。顔にかからないようにと両サイドを捻じり上げて後頭部で纏めたところに、これまた高価であろうバレッタのようなものを留められる。間違って落としてしまったなんてことになったら恐ろしい、花恋はできるだけ動かないようにしようと秘かに決めた。
鏡に映っている自分をぼんやりと見ていた花恋の前に並べられたのは化粧品の数々。自分の顔がキャンバスになる前になんとか覚醒できた花恋は、ミリとの攻防を制して必要最低限の化粧だけで済ませてもらった。この国の化粧品の原材料が何かを知ってからでないと、化粧は楽しめそうにない。昔のヨーロッパの化粧品は鉛や水銀を使っていたと言う。中毒になってしまったら洒落にならない。ボディケア、頭、顔、ときたら残りの飾り立ては服だろう。どこからいつ調達したのか、ストッキングから始まって、コルセット、ペチコート…と着重ねていき、どこかで見たことのあるようなドレス姿に変身した花恋へ夕食の案内が告げられた。