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042

 貴族男性も支度に時間がかかるとは言え、女性ほどではない。入浴して身を清め、夜会用の服をキーランドに用意させる。シャツの上に薄緑色の胴衣、黒にも見えるような暗緑色の上衣とズボン、白シルクの靴下と黒革のブーツを着用して、髪をきっちりと一つに束ねた。根元に黒ベルベットのリボンを結ぶ。黒を身に着ける意味にシュテファンはひっそりと口端を上げた。残すは首布を巻くだけ、という状態で一息つけようと茶の用意をさせる。騎士団の制服も堅苦しいが、貴族の盛装と言われるこの恰好も好まない。何が悲しくてこんなに飾り立てなくてはいけないのだ。見苦しくない程度にきちんとしていればそれでいいではないか。シャツの釦を二つほど緩め、ソファに寄りかかるようにして腰かけ、シュテファンは小さく溜息をついた。


「…カレン嬢の美しい姿を目にできるのは嬉しいが、夜会は嫌いだ。」

「貴族にお生まれになった以上、避けられないことかと。」

「挨拶だけ済ませたらさっさと引き上げるか…」

「若旦那様が去られた後、ヒョーク様が他の男の間で好きなように転がされてもよろしいなら。」

「カレン嬢も共に引き上げるに決まっているだろ。」

「それは旦那様がお許しにならないとお分かりでは?」

「…キーランド。」


 言うだけ無駄なのは分かっている愚痴に正論で返してくるキーランドを、シュテファンは嫌そうにじろりと睨む。


「そんなことを言うならお前も夜会に出ろ。フィスチェレイ家にも招待状は届いているはずだろう?」

「両親と兄が招待に預かっているはずでございます。私はアッカーベルグ家の家令見習いとして務めます。」

「本音は?」

「そんなビラビラした服を着たくない。」


 胴衣にも上衣にも金糸、銀糸、多色の絹糸を使った緻細な刺繍が縫い取られ、上衣は膝程までの長さ、シャツの胸元と袖口には手の甲を覆ってしまうほどのレース装飾、これからつけなければならない首布も動きに合わせて揺れるようなヒラヒラしたもの。貴族の権威の象徴だと競うように贅を凝らして仕立てられるそれらを身に纏って腹の探り合いなど、したい奴だけがすればいい。男爵家の三男であるキーランドは早々に放棄して正解だとばかりに、ニヤリと笑った。


「現伯爵、次期辺境伯も大変だな。」

「そう思うなら付き合え。」

「こういう時は末端貴族の三男って立場が心底ありがたい。」

「いつでも変わってやるぞ。」

「冗談。美しいぞ、シュテファン。」

「お前に言われても嬉しくない。」


 どかりと背を凭れたシュテファンの態度にキーランドがにやにや笑う。そこへ待っていた知らせが届いた。


「若旦那様、ヒョーク様の支度が整ったようでございます。」

「…やっとか。女性は大変だな。」

「ミラとミリに引きずられてこられたのは前土時だったのですが…。慣れていないヒョーク様はもうお疲れかもしれませんね。」

「では存分に頼ってもらうことにしよう。」

「あまり飛ばしすぎませんように。」


 寛げていた首元を整えて赤味のある薔薇色の布で飾り、全身鏡でおかしなところがないか確認をし、シュテファンはカレンが使用している来賓室へ足を進める。招待客はだいぶ集まってきているとのこと、シアナとシギワルドも少し前に夜会会場となる大広間へ向かった。シュテファンもカレンを伴ってトゥバルト夫妻より前に大広間へ入っていないといけない。来賓室の扉を叩き、返事を待つ。『どうぞ』の声に一拍遅れて開いた扉の向こうにはカレンが棒立ちになっていた。


「…きれいだ。」

「…かっこいい。」


 語彙力のない感想が二人の口から同時に出る。それが互いの耳に届き、視線を交え、ぱっと顔を逸らし合った。


「…失礼。黒葵の化身がこれほど淑やかで美しいとは…。薔薇に囲まれて咲く黒葵はとても艶やかで目が離せない。まるで女王のようだ。一番に拝謁できた栄誉を神に感謝しよう。」

「…褒めすぎです。シュテファン様こそ格好良くて見惚れてしまいました。隣に立ちたくないです…」

「何故だ!?そんな悲しいことは言わないでほしいのだが。」

「だって、隣にいたら比べられてしまいます!シュテファン様はご自分のイケメンさをご存じないのですか?」

「イケメン…?」

「…あ、あぁ…失礼しました。見目麗しさを自覚なさってないのですか?せっかくミリとミラが綺麗にしてくれたのに申し訳ないですが、シュテファン様の隣に立つのはかなりの美人さんでないと務まらないと思います。」


 カレンの言葉に、シュテファンは軽く目を瞠った後で嬉しそうに細めた。シュテファンは自分自身の容姿を理解している。黙っていても女性の方から近寄ってくるし、遠目から黄色い声を浴びることなど日常のことだし、女が切れたことはない。女性からの賛辞など茶飯事だ。だが、自分が狙っている相手から褒められるのとその他大勢の誉め言葉では雲泥の差がある。普段から言われていることだとしても、言葉の色付きは比べ物にならない。だらしなく緩みそうになる頬をきゅっと引き締め、出来るだけ端雅に微笑み、シュテファンはカレンへそっと手を差し出した。


「では、カレン嬢の言葉に従おう。そうすると、俺の隣はカレン嬢しかいられないな。いや、俺は黒葵を支える茎だ。どうぞお手を、大広間へ行こう。」

「は、い…?え、いえ、あの…よろしくお願いします。」


 シュテファンの口から飛び出してくる甘やかな羅列に目を白黒させて狼狽えつつも、カレンはシュテファンに自分の手を委ねた。随分抵抗なく手を乗せるようになったな、とシュテファンはカレンの白い手の柔らかさを感じながら思う。いつもより力の入っている指先を支えて廊下を進めば、階段が見えた。大広間は階段を下りた一階にある。着慣れないスカートの広がり具合と裾の長さにゆっくりと慎重に歩くカレンに合わせ、シュテファンも長い足をちまちまと前へ出した。普段なら苛立つであろう速度も今は心が浮き立っている。


「腕へ。」


 無事に一階へ降りたカレンへ促せば、一瞬だけきょとんとした顔を見せた後で細い腕が開けられた肘脇を潜ってシュテファンの腕に置かれた。より近くなった距離にシュテファンは満足げに頷く。使用人が扉を開くと、華やかなざわめきと煌めいた雰囲気が二人に押し寄せた。反射的に体を硬くしたカレンの手をシュテファンが落ち着かせるように一撫でし、『入るぞ』と黒い瞳を見つめ歩き出したシュテファンに続いてカレンも足を動かす。二人が会場入りしたことに気づいた参加者達は喋るのをやめ、一様にシュテファンとカレンを注視した。


「あら、シュテフお兄様。やっと来たのね。勿体つけたご参加ですこと。」

「父上と母上がまだ見えてないんだ。文句をつけられる覚えはない。」

「シアナ様、私がお待たせしてしまったの。遅くなってしまってごめんなさい。」

「カレン様が気にすることではないわ。そのドレス、よくお似合いよ。とっても素敵。」

「ありがとう。シアナ様こそとても綺麗…と、その髪飾り!使ってくれたの?」

「当然でしょう?似合っているかしら?」

「ええ、もちろん!着けてもらえて嬉しいわ。」

「カレン様、こんばんは。今日はまた一段とお美しい。」

「こんばんは、シギワルド様。シギワルド様こそとても決まっていますね。アッカーベルグ家の皆様は本当に美形揃いでいらっしゃるので、トゥバルト様とマリー様にお会いするのも楽しみです。」

「ありがとうございます。便乗するようで申し訳ないのですが、僕もお礼を言わせてください。」

「お礼、ですか…?」

「この蔓飾りです。洗練された華やかさがある上に聖魔石もこれほど使っているものをいただけるとは。しゃんと背筋が伸びる思いがします。とてもいいものをありがとうございます。」


 くい、と眼鏡を動かしながらシギワルドが微笑む。テンプルの部分をカレンの伝統細工が飾っているのだ。


「シギワルド様にはとても親切にしていただきましたから。それがお礼になっているのなら私も嬉しいです。」

「カレン様の首飾りは新作かしら?それも聖魔石よね?小さな花は見たこともないけれど、気品があって凛としていてどこか儚げで、その花もカレン様みたいだわ。」

「っ…、この花、私の国を象徴する花で…。シアナ様の言葉、すごく嬉しい…」

「…そう。よく似合っているわ。」

「ありがとう…」


 首元にそっと手を添えてはにかんだ表情を見せるカレンが心許なく、シュテファンは引き寄せるようにカレンの肩に手を置く。見上げてくるカレンはいつもと変わりなく、シュテファンの意図を掴めないようだ。小首を傾げて視線で尋ねるも、答えを待たずに違う質問をした。


「マーラ様はいないのですか?」

「夜会に出席できるのは15歳からだから、マーラはまだ無理なんだ。」

「そうなのですか?お一人だけ出られないと言うのも寂しいですね。」

「明日はマーラ姫の日だな。」

「まあ、ふふっ。」


 通りがかった給仕から飲み物を取り、4人でグラスを合わせる。他愛ない談笑をしていると、さして時間も経たないうちにトゥバルト夫妻が会場に姿を現し、大広間の中央で一曲踊ることで感謝宴の開始合図とした。

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