039
ハイヒールを履くのは久し振りだ。すでに踵と指の付け根がジンジンしているのだが…。なんなら脹脛も攣りそうになっている。おかしいな、オストシエドルングに来てからの方が動いているはずなのに。使う筋肉が違うのだろうか。顔には一切出さないようにしているものの、カレンの内心は半泣きの状態になっていた。
「ヒョーク様、下を向いてはいけません。」
「…」
「お相手の顔を見てください。」
「…」
「体の力を抜いて、シュテファン様にお任せするのです。」
「…」
「マーラ様はもう少し落ち着きましょうか。ワルゼルは弾むものではありません。」
「シグ兄様と踊るの楽しくて!」
「ダンス中にお話してよろしいのはお相手の方のみです。」
「はーい!」
楽しそうに返事をするマーラとは正反対で、カレンはダンス教師の注意を聞くことはおろか返事すらできない。顔を上げろと再三言われているのだが目線は常に下、練習相手を務めているシュテファンの足を踏まないように必死に足運びに集中している。習っているのはワルゼル、三拍子の優雅な円舞曲だ。残念ながらカレンの踊りは優雅からほど遠く、きっかりと拍子をとっているためにかなりぎこちない。
「カレン嬢、どうぞ顔を上げて。」
「…」
「俺の足を踏んでも大丈夫ですから。」
「…」
「体に力が入りすぎです。もう少し気楽に、ダンスを楽しみましょう。」
「…」
シュテファンが気を遣って声をかけているのだが、カレンの返事はすべて『無理』だ。ただし、言葉にならずに心の中で叫ぶしかできないのだが。男性に胸裏を支えられているのも、それが美形のシュテファンであることも、本来なら心臓が無駄に高鳴るはずなのに一切ない。カレンの頭の中は『右左揃える、左右揃える』の呪文がひたすら渦巻いている。呪文は最後まで唱えて完成するのだ、邪魔しないでほしい。
「はい、少し休みましょう。」
ダンス教師が掛けた区切りの声で思わず深く息を吐き出したカレンに、シュテファンは苦笑を漏らす。いつもは中央に配されている応接セットは練習のために隅に寄せられていて、ソファに座って見学していたマリーとシアナも苦笑いでカレンを迎え入れた。できなさ具合を自覚しているカレンは両手で顔を覆って項垂れる。
「本当に踊ったことがないのね。面白いぐらい硬かったわよ。」
「…どうしても踊らなければいけないでしょうか?」
「ええ。シュテフ一人で我慢するか、初めて会う方々と延々踊るか、好きな方をお選びになって?」
「ひっそりと壁の花になっていますので…」
「あら!こんなに美しい黒葵が放っておかれるわけないわよ。覚悟なさいな。」
「黒葵…?」
「手のひらほどの大きさに咲く花よ。『聖なる癒し』とも呼ばれているわ。黒くて艶やかで優しい香りが微かに漂うの。通りすがれば思わず足を止めてしまうような花。お母様、確かにカレン様みたいね。」
「ふふ、そうでしょう?」
見たことがないので想像できないが、随分と持ち上げられているような気がしてカレンは身じろいだ。おそらく自分には不似合いだろう。黒い花でカレンが知っているのは薔薇と百合ぐらいだ。薔薇と言えば、マリーが紅薔薇の印象だ。シアナは白百合。マーラは向日葵がよく似合う。花に詳しくないカレンがとりとめもなく思い浮かべていると、『だからね』とマリーがにっこりと笑ってカレンを諭した。
「うちの愚息で我慢なさって?」
辺境伯夫人に逆らえる存在をカレンは知らない。思わずコクリと頷いたカレンに、マリーも満足そうに頷いた。
「…むしろシュテファン様に我慢を強いている現況なのですが。」
「それは見当違いよ。ねえ、シュテフ?」
「母上の言われる通り。カレン嬢、あなたの相伴に選ばれて光栄ですよ。」
「シュテフお兄様の今の言葉遣い、聞き慣れないせいかしら気味が悪いわね…」
「私に対しては不愛想なのに。」
「…母上もシアナも黙っていてくれ。」
「あら、嫌だ。シュテフ、女性の前でそんな顔をするものではないわ。」
「…母上。」
「私、今度はシュテフ兄様と踊りたい!」
「だめよ、マーラ。シュテフお兄様はカレン様と踊れるようにならなくてはいけないのだから。」
「…シアナ。」
次期当主と言うのはもっと恭しくされるものだと思っていたカレンはポカンとアッカーベルグ家のやり取りを眺めてしまう。話に入ってないシギワルドを見れば楽しそうに微笑んでいるので、アッカーベルグ家ではこれが通常なのかもしれない。カレンの視線に気づいたシギワルドが肯定するように笑みを深めたので、カレンも微笑み返す。
「仲がよろしいのですね。」
「…兄上が久し振りにオストシエドルングへ帰ってきたので、母上もシアナもマーラも嬉しいのですよ。」
「トゥバルト様もご機嫌がよさそうでした。」
「そうですね。父上も喜んでいると思います。」
「…団欒のお邪魔にならないうちに今日はお暇しようかしら。」
「ではお帰りになってしまう前に僕とも踊っていただけませんか?」
「っ、シグ!」
シュテファンの気持ちは家族に知れ渡ってしまっているようだ。何とも言い難い気持ちだが、家族に反対者がいないと見て取れる様子に安堵する。こちらは本気なのだ、一番の味方でいてほしい家族に背を向けられてしまうなんてことで頭を悩ませたくない。憮然とした表情のシュテファンが幼い子のようで、カレンはくすくすと窃笑した。美丈夫の成人男性、次期当主にして既に伯爵位を持っている。それなのに、家族にいじられて辟易とした表情をしている様がちぐはぐで面白い。
「…カレン嬢、休めたのなら練習を再開しましょうか。」
「シュテファン様。お言葉遣い、どうぞ楽になさってください。」
「ではカレン嬢も。」
「私は元々男性や年上の方にはこういう話し方ですので。…一つお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「はい。」
「シュテファン様はお幾つなのですか?この国の方々は本当に年齢が読めなくて…」
「32です。失礼でなければカレン嬢にもお聞きしても?」
「私は25です。やっぱり年上でいらしたのですね。それなら余計楽にお話しください。」
「…では言葉に甘えて。カレン嬢もいつでも楽に話してくれると嬉しい。」
カレンがオストシエドルングで暮らしはじめてからもう一か月以上経つ。カレンも気を張ることが少なくなった。ジェイやミラ達と過ごす時や街で買い物をする時などだいぶ素が出るようになったとはいえ、アッカーベルグ家は貴族の家柄だ。それもエストマルク王国高位の。どんなに親密になろうと敬語を崩すなどカレンには考えられなかった。シアナやマーラは年下の同性と言うこともあって友達相手のような感覚で話してしまっているが、本来なら許されることではないだろうにアッカーベルグ家の寛容さで見逃されている。けれど次期当主のシュテファンに同じ態度はできない。カレンは微笑んで曖昧に流した。
「休憩も取れたし、練習を再開しようか。」
「…はい。お相手よろしくお願いします。」
「マーラはどうする?」
「踊るよ、シグ兄様と!カレン様、頑張って!」
「そうね…頑張る…」
シュテファンがカレンを、シギワルドがマーラを、それぞれエスコートしながら部屋の中央まで戻る。先程よりすっと組んだカレンだが、曲が始まれば視線はあっけなく下へ落ちてしまう。マリーとシアナはゆったりとカップを傾けながらその様子をソファで眺めた。
「…シュテフは本気だと思う?」
「さあ、どうなのかしら。でもせっかく気持ちが動いたのだから、シュテフお兄様にはカレン様を捕まえてもらわなきゃ困るわ。」
「そうね。ずっと口を出さずにいたのだもの、結果を出してもらわないと。」
「お母様はカレン様でいいの?あの方、聖女様とは言え平民だってご自分で言われているわ。」
「聖女様だから問題ないのでしょうに。王族でも平民の聖女様を妃に迎え入れた前例があるのだから。それに、カレン嬢なら貴族社会でもやっていけると思うわよ。二人の気持ちが通じ合っているのならそれでいい。もし本当に結婚するとなったら、私達が全力で補佐するつもりよ。」
「ええ、そうね。シュテフお兄様の妻となる方は大変でしょうから。」
「…カレン嬢はシュテフの気持ちに気づいているのかしら。」
「どうかしら。カレン様、怖い方だから。」
アッカーベルグ家はトゥバルトでさえ、いまだにどこまでカレンの本音を引き出しているのか見当をつけられていない。そこに次期当主の意思がこれから絡んでくるのだ。どうなることやら、と二人は寄り添って組んでいるシュテファンとカレンをどこか楽しそうに目で追った。




