004
「…ヤーパンへ行きたいのか?」
静かな声でコウが聞く。オストシエドルング辺境伯の返答にぴたりと止まってしまった花恋の手を、続きを促すように前足でつつきながらコウは再度同じことを問うた。
「ヤーパンへ行きたいのか?」
「…あるの?」
「知らぬ。ヤーパンは何百年と語り継がれてきた話だ。この国の者は老若男女関係なく、みな知っている。だが、ヤーパンを見たという者を我は聞いたことはない。」
「なんだ…、期待させないでよ。」
「ただ、我とてこの世界の全てを見たわけではあらぬ。カレンの言うようにこの世界のどこかにあってもおかしくはないと思うぞ。」
「…」
「探しに行くなら、我も共に。」
「…あの森にいなくていいの?」
「我はどこで過ごそうと不都合はない。たまたまあの森にいただけだ。光の聖獣たる我が共にいればカレンも少しは動きやすいだろう。そなたを粗末に扱う者はおるまい。」
「ふうん…コウは偉いんだ?」
「自然の摂理よ。光と闇の属性は極端に数が少ない。その聖獣が加護するものがそなただ、カレン。」
「…ありがとう。」
もふもふとコウの腹部を撫でながら花恋は微笑む。嬉しかったのだ。自分の常識が何一つ通じない状況の中で、味方になってくれる存在がいることに。たとえそれが初めて見る生き物だとしても、だ。気持ちよさげに目を細めるコウを堪能していると、正面に座っていた辺境伯夫人が遠慮がちに花恋へ声をかけた。
「…ヒョーク様、聖獣の言っていることを理解できるのですか?」
「え?ええ。…どうしてそんなことを?」
不思議そうに首を傾げる花恋を辺境伯一家は驚きの眼差しで見つめた。聖獣を連れてきたというだけでも驚きなのだが、それ以上に聖獣が花恋に懐き、花恋も聖獣を少しも怖がらないことに瞠目する。聖獣は本来、畏怖の対象だ。人間とは異なる種族で、意思疎通を図ることはできない。聖獣がいる国は栄え、怒らせれば国が亡びる、とも言われている。人間が自然の恩恵を受けられるのは聖獣が穏やかに見守っているからで、だからこそ敬うと同時に恐れられる。その聖獣と意思疎通できる人間を『聖人』あるいは『聖女』と呼び、人々は尊敬を持って接した。
辺境伯一家から見れば、コウはただ鳴き声をあげているだけだ。それに対して花恋が一つ一つ反応を示す。まるで会話をしているように見えた。人間の何倍も大きいはずの聖獣をぬいぐるみのようにし、戯れ、意思疎通できる。花恋自身は否定しているが、聖女に間違いない。オストシエドルング辺境伯と夫人は顔を見合わせると、信じられないとばかりに小さく首を振り合った。自領地に光の聖獣がいたことも、聖女が現れたことも、神に感謝してもしきれないことだ。
「…聖女様。これからのご予定はあるのでしょうか?」
「え?ああ、急にお邪魔して申し訳ありませんでした。すぐに出ますので。」
「出る?」
「ええ。この子が一緒にいてくれると言うので、ヤー…旅しようかと。」
「お待ちください!聖獣があの森を捨てると言ったのですか!?」
「いいえ、捨てるなど一言も言っていません。どこで過ごしても同じだから、と言っていました。だから私についてきてくれるらしいです。あの、何かまずいことでもあるのでしょうか?」
「…聖獣が棲む地は豊かに育まれている地。聖獣に捨てられたとなると、この地は衰退してしまうことでしょう…。代々この地を守る者としてそれは避けたい。」
表情を曇らせながら思いを述べたオストシエドルング辺境伯に、コウが一つ鳴いた。まるで抗議をするかのようなタイミングに、サロンにある全ての目が聖獣へ向く。花恋も視線を落として…嫌そうな顔をした。キュイキュイと何かを訴えている聖獣に『ええ…』だの『自分で言ってよ』だの、消極的な反応を示す。いくどかそれを繰り返し、最後には聖獣からポコポコと幼子のような攻撃を受けた。
「いたた、分かった!分かったから!」
コウを抱きかかえて攻撃を止めさせると、花恋は躊躇いがちにオストシエドルング辺境伯へ向き直った。
「…あの、この子が言っていることですが。」
「私には聖獣の言葉は理解できません。どうか教えてください。」
「では、通訳しますけど…もともと我が姿を見せたのはこの町の者を仕置きするためだ。なぜ聖獣を狩ろうとする。我ら聖獣はあの森におらずともよいと受け止めるが?」
「狩る…?町の者が聖獣を狩ろうとしたのか?」
「この地の人間も堕ちたものだな。聖獣と魔獣の区別がつけられぬようになるとは。意図して狙ったというなら…」
「…早急に事実確認をする。それまで町の者には森への立ち入りを禁じる。」
初めて聞いた事実に眉を顰めながらも、オストシエドルング辺境伯は家令をすぐに呼んで指示を出していく。迅速な判断、短く明確な指示、冷静を保てる精神。有能な人物であることはこの一動作だけで分かった。そして辺境伯一家と関係のない花恋を出会った直後に助けようとした、心優しい人物。体を張って花恋を守ろうとした幼いマーラも、町の人に押さえつけられながらも危険へ飛び込んで来ようとしたシアナも、普段から辺境伯夫妻よりいろいろと教えられているのだろう。今のところ好印象の辺境伯一家が難しい顔をしていることに胸が痛んだ花恋は、応接テーブルの角を挟んで隣に座るマーラに話しかけた。
「聖獣と魔獣ってどう違うの?」
「元々はみんな魔獣だよ。その中で魔力が強いのを聖獣って呼んでいるの。聖獣はね、属性の力で助けてくれることもあるんだよ。」
「へえ。」
「聖女様の膝にいる聖獣は光の聖獣だね。光属性はあまりいないから初めて見た!…聖獣、怒っている?穢獣になっちゃう?」
「穢獣?」
「悪い魔獣。討伐しないと被害が出ちゃうんだ…。聖獣は良い魔獣!」
「良い魔獣の聖獣が悪い魔獣の穢獣に変わるの?」
「悪いものでいっぱいになっちゃったら、変わることもある。怒ったり、嫌な思いしたり…」
シュンとしてしまったマーラが眉を下げて聖獣を見る。花恋の膝の上に座っているコウは、マーラをちらりと見ると歯牙にもかけたくない様子で首を横に向けた。人間っぽい行動に苦笑を漏らした花恋は、機嫌を取るようにコウの体を撫でる。こうされるのを嫌わないということは、これまでの短い時間でも把握できていた。気持ちよさげに目を細めたコウを確認して、花恋はマーラへ笑いかける。
「この子は怒ってないよ。でも、もう間違えて聖獣を狩らないって約束してくれる?」
「お父様!」
「仔細を確認した後で対策を練る。聖獣が納得できるものを提示できるよう、数日の猶予が欲しい。」
「なぜ我が待たねばならぬ。我らは人間の愛玩動物ではない。…と。」
「重々承知している。私も聖獣が偽りを述べているとは微塵も考えていない。だが、調査もせずに領民を裁くことはできない。申し訳ないが、時間を要する。」
言葉や視線に揺れがない。コウ…畏怖している相手に堂々と渡り合い、自分の意見を正確に伝えられることなど、そうそうできるものでもない。やはりオストシエドルング辺境伯は立派な人だ。コウの言葉を通訳しながら感じた人間性に、花恋はさらに印象を良くした。助けてもらったお礼を少しでもできればと考える。…かなりの打算も含めているが。
「…オストシエドルング辺境伯様。」
「…何でしょう?」
「見ての通り、私は何も持っておりません。これから何をするにも、お金は必要ですよね?しばらくこの町で資金繰りをしたいと思うのですが、拠点となる宿泊施設等はありますか?紹介していただけると大変助かるのですが…」
「それならばこの城館に好きなだけ滞在ください。」
「ありがたいお話ですけど、それはさすがに…」
「では、森にあるルヘゾネはいかがですか?」
「ルヘゾネ?」
「休憩所として使用している家屋です。手狭で申し訳ないですが、一通りのものは揃っているので問題はないかと。もちろん、足りないものがあればすぐに用意します。領都の中心へ出るには少し不便かもしれませんが、馬車を常駐させますのでご容赦ください。」
オストシエドルング辺境伯と花恋の思惑は一致していたらしい。花恋は寝泊まりをする場所を…できれば無料で、オストシエドルング辺境伯は聖獣を外に出さないため、『聖女』がオストシエドルング領にとどまる算段を穏便に組み立てた。