036
大通りを挟んだ城館の向かいにある森は、森と言うにはこじんまりとしている。薬草、木の実、魔獣などが豊富なので経験が少ないものにとってはもってこいの冒険場所なのだが、領主が暮らすそばにあるために領民は滅多に出入りしない。シュテファンも子供の時分に父親に連れられて狩りに入ったぐらいだ。その時に使う道具の収納場所や汚れを落とす場所などとしてフッテがある。道が整えられているわけでもなく、鬱蒼と生い茂る木々の中を歩くには不便ではないだろうか?特に女性にとっては。少々暗くなってしまった森の様子に警戒しながらシュテファンは闇の聖女を思い浮かべていた。
可愛がっている妹が懐いている女性。マーラだけでなく、他人と距離を置きがちなシアナもどうやらそれなりに心を開いているようだ。とても優しくて見たことや聞いたことがない知識を持っているとはマーラからの情報。とても美しく怖いとはシアナからの情報。キーランドからはどこかつかみどころのない言動をすると聞いている。一体どのような女性なのか。闇の聖女と言うからには黒瞳黒髪であろう。美しいとはどれくらいだ?優しいとはどのくらいだ?王都へ来ないのはどう言った理由からだろうか?オストシエドルングで過ごしたい理由とは?アッカーベルグ家に害をなさなければいいのだが。
「あ、見えた!」
シュテファンと並んで馬を走らせていたマーラの弾んだ声が、目的地へ着いたことを知らせる。シュテファンはぼんやりと考えていた思考を中断した。どんなに想像しても意味がないのだ、答えはすぐに分かる。目に入ってきたフッテは記憶にあるより少し古びているような気もしたが、本当にこんなところで闇の聖女が暮らしているのだろうか。しかも彼女が望んで。疑問を抱えたままフッテへ近づいていき、馬を停止しようかという時に玄関が開いた。中から現れたのは女性で、黒髪だからおそらく聖女なのだろう。しかし、どういうわけか平民と同じ服を着ている。フッテに住まわせていることと言い、平民と同じ服装と言い、聖女をこんな扱いにしていいのだろうか。父上は一体何を考えているのだ?新たな疑問が頭に浮かんだシュテファンだったが、すぐに全てが吹き飛んでしまう。俯いていた顔がこちらを見た瞬間に目を奪われた。少女から女性への過渡期に醸し出される独特の危うさ、美しいと表現するだけでは足りない神秘的な雰囲気。この女性に会った全員が口を揃えて言う『美しい』は偽りでも誇張でもなかった。無意識のうちに惹きつけられてしまう。
「カレン様!」
「マーラ様。もうすぐ日が暮れるのに、どうしてここへ?」
馬の轡をミラに預けたマーラがカレンへ小走りに寄った。よほど懐いていると見える。
「…マーラは聖女様と随分仲が良さそうだな。」
「はい。聖獣に襲われそうになったヒョーク様を庇ったのがマーラ様であり、そのマーラ様を守ったのがヒョーク様だと聞いております。」
「ああ、そんな話もあったな。詳しく聞く必要がありそうだが、まずは聖女様へ挨拶と礼をするか。」
そばに控えていたミリに馬を預け、シュテファンは立ち話をしているカレン達へ近づく。それに気づいた二人はシュテファンへ視線を向けた。カレンの瞳が瞠目する。美形が揃っているアッカーベルグ家にまだこれほどの美青年がいたとは。トゥバルトを若くした…と言ったら若々しい見た目だらけのこの国ではおかしいかもしれないが、まだ実をつけたばかりの固い果実のような青さと若さゆえの根拠のない自信からくる硬質な色気を感じ、カレンの脳が沸き上がった。何というイケメン!これは世のお嬢様方が放っておかないでしょ!!うわ…と間抜けな声がポカンと開けた口から零れ、それが耳に届いたマーラは嬉しそうにシュテファンの腕に抱き着いた。
「カレン様!シュテフ兄様だよ!かっこいいでしょ!?」
「…っ、ええ、とっても…びっくりした…」
「シュテフ兄様は近衛騎士様なんだよ!」
「マーラ、少しどいてくれ。聖女様へ挨拶したい。…はじめまして、シュテファン・グラフ・ヴォン・アッカーベルグと申します。美しい方だとは聞いていましたが、これほどとは思わず…俺の方こそ驚いています。名を伺っても?」
「はじめまして、アッカーベルグ伯爵様。カレン・ヒョーク…と申します。マーラ様やアッカーベルグ家の方々にはいつも大変よくしていただき、心より感謝しております。」
「どうぞシュテファンとお呼びください。」
「お気遣いありがとうございます。私のことはカレンと呼んでいただければ。」
握手を求めるように手を差し出されたシュテファンに反射的にカレンも手を差し出せば、流れるように引き寄せられてシュテファンの唇が触れる。息をのんだカレンはそれでも何とか声を喉の奥に押し込める。こちらではよくある挨拶、反応してはいけない。そっと手を外して挨拶を受けた部分を逆の手で隠したカレンを見て、シュテファンはくすりと微笑んだ。
「カレン嬢、外に出てこられたようだがどちらかへ行かれるところでしたか?」
「あ、いいえ。誰かが来るとフウ…風の聖獣が教えてくれたので、どなただろうと思って確かめに出ただけでございます。あの、それで…」
「カレン様!あのね、これ!お父様からの招待状!」
「招待状?」
「うん!開けてみて!」
「それなら中に…」
フッテへ案内しようとしてカレンは言い淀んだ。マーラとシュテファンを交互に見て、それから悩むように視線を流した。
「…ねえ、ミラ、ミリ。マーラ様とシュテファン様は入ってもらうの、やめた方がいいよね?」
「先に説明されてみてはいかがでしょうか。」
アッカーベルグ家の次期当主の前では使用人の態度を崩すつもりはないのか、畏まった態度でミラは助言した。隣に控えているミリも澄まし顔で小さく頷く。それでも辺境伯の息嬢に理解を求めていいものなのか中々切り出せないでいるカレンに、シュテファンは彼女が気負わないようやんわりと断った。
「俺達はこのままで構いませんよ。」
「あ、いいえっ!中に入っていただくのは何の問題もないのですが…その…」
「はい。」
「…私が育ったところは、屋内では靴を脱ぐ風習なのです。フッテでもそうしていて…この国でははしたないことだと聞いていますので、中へお誘いするのはシュテファン様達に失礼だと思いまして…」
「なるほど、我が国の風習を大切にしていただきありがとうございます。それから、俺はカレン嬢の国に敬意を表す機会に恵まれたと言うことですね。ぜひ体験させてください。」
「え、ええ…?」
「カレン様!私も!」
「…いいのかな?」
「おふたりが了承されているのですから。」
シュテファンの大げさな表現に困惑したカレンはミラへ助けを求める視線を送ったが、しれっと突き放されてしまったこともあり戸惑ったままフッテへ案内した。意外にもシュテファンとマーラは眉を顰めるでもなく、楽しむように靴を脱いで中へ入る。不敬だと機嫌を損ねられなくてよかったとカレンはほっとした。何度か来たことのあるミラとミリがお茶を用意すると言ったので任せ、カレンはシュテファンとマーラをリビングに案内してさっそくトゥバルトからの封書を開く。真剣に目を通すカレンをしばらく眺めてから、シュテファンはフッテ内へ視線を移した。
記憶にあるフッテは完全に物置小屋で、狩りの道具やら手入れの道具やらが雑多にしまわれていたはずだ。掃除はしていただろうがどこか埃っぽく、まかり間違っても人が住むようなところではなかった。ところが、だ。狭小ではあるものの落ち着いた明るい雰囲気に変わっていて、暮らすに不自由ない設備が整えられているではないか。これなら『押し込める』ではなく『住んでいる』。実家が聖女に無理を強いているのではないことを理解したシュテファンは静かに視線をカレンへ戻した。
見落とさないためなのか、文章をなぞっていく指は細い。陶器のように滑らかな肌は初めて見る色だ。白いが薄淡橙がかっていて、間近でじっくり確かめたい。顔に影を作る髪も瞼を縁取る長い睫毛も麗しい黒で神秘的だ。黒曜を想わせる大きな瞳、すっと通った鼻、艶やかな唇。これまでに出会ったことのない系統の美人が闇の聖女であることを、オストシエドルングに現れたことを、神に感謝しよう。確認しろと命を下した国王陛下にも。じっと見つめていたシュテファンの視線に気づいたのか、カレンがふっと顔を上げた。
「…時間をかけてしまっていて申し訳ありません。私、エストマルク王国の文字を勉強しているところで…」
「ああ、これは不躾でしたね。真剣に読まれている姿も美しいと見入ってしまいました。分からないところがあったら俺に聞いてください。」
「…ありがとうございます。もう少し時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
「ええ、もちろんです。」
ありがとうございます、と微笑んだカレンは視線を手紙に戻す。その伏せた顔も美しいとシュテファンはまた惹きつけられるのだった。
「父上。」
「なんだ?」
「今後、婚約の話は持ってこないでほしい。」
「…うん?」
「カレン嬢を妻にする。」
その日の夜遅く、トゥバルトの部屋を訪ねたシュテファンはソファに座るなり端的に宣言した。唐突な話にトゥバルトは目を丸くする。将来有望なアッカーベルグ家の長男に婚約を持ちかける貴族は多い。32歳の男性貴族が婚約者すらいない状況は大変珍しいが、アッカーベルグ家はできるだけ本人の意思を尊重すると言う家風であり辺境伯夫妻もシュテファンにそれほど強く言っていなかった。トゥバルトがシュテファンにこっそり聞いたところによると、『一人の女に縛られたくない』と、女性には不評であろう答えが返ってきた。まあ、若い健康な男の思考はそんなものだ。分からなくもない。そんなシュテファンが一人の女を見定めたとわざわざ申告してきたのだ。驚かない方がおかしい。
「…俺もマリーも反対はせんが、カレン嬢は平民だと言っているぞ?」
「聖女なら周りも納得するだろう。俺が納得させる。」
「…そもそもカレン嬢はエストマルク王国民ではない。」
「他国民を娶ってはいけないという決まりはないはずだ。」
「いや、そういうことではなく…俺達とあの子では常識が全く違うと言っているんだ。」
「現にオストシエドルングで生きている、歩み寄れると思うが?」
「…まあ、それはそうなんだろうが…いや、そうか…」
カレンを隣に置くことが当然だとでも言うような口ぶりのシュテファンに、トゥバルトはまじまじと息子を見た。何だろう、この気持ちは。息子の幸せを願う親として、身分も国さえも違う女性を迎え入れるのは流石のトゥバルトでも不安がある。しかし聖女を一族にできたらこの上ない強みにもなる。カレンが悪い人間でないことはトゥバルト自身も知っている。夫妻とも弟妹達ともいい関係を築いているし、あれだけの美人が義理の娘になるのなら誇らしい。息子が自ら伴侶を決めたのは頼もしくもあり、単に美しいだけではないカレンを見初めた『目』も褒められることだ。こうやってきちんと親へ宣告しに来たことも立派だと思う。自分達の子育ては間違っていなかったとマリーへ1分でも早く知らせて共に祝杯を挙げたい。だが同時に胸がしくしくと痛むのはなぜだろう。…いや、今は息子の成長を喜ぶべきだ。
「…手を掴みたい相手を見つけられたか。」
「ああ。」
「分かった。婚約の話は俺が抑えておこう。…いや、しかしカレン嬢か…あの子は手強いと思うぞ…」
「何かあったのか?」
「…言い負かされたことがある…考えを読み当てられたこともある、な…」
「父上が?」
「ああ…」
「…」
「…まあ、なんだ…最良の結果を祈っているぞ。明日の晩餐は仔牛の煮込みが主菜だな。」
「余計なことはしないでくれ…。母上にも内密に。」
「マリーには伝えておくべきだろう?」
「盛大に揶揄われる未来しか予想できない…」
苦いものを飲み込んだように顔を顰めるシュテファンに、トゥバルトは声を上げて笑う。父親の身長を抜かし、母親とは簡潔なやり取りしかせず、魔法も剣も国内最高峰の腕前、部下からも官僚からも寡黙な鷲のような男と評判高くても、やはり人の子。まだまだだな、と胸の痛みが軽くなった。




