003
「…申し訳ありません。聞き取れなかったので、もう一度お名前を窺ってもよろしいでしょうか?」
寿限無的な名前を口頭で一度、など聞き取れなかった。どう聞いてもカタカナ表記名のそれは、外国人と知り合う機会のなかった花恋にとっては理解不能な呪文そのもの。言いづらそうに聞き返した花恋を見上げながら、マーラと呼ばれた子供は笑顔で父親を紹介した。
「お父様は辺境伯だよ!『オストシエドルング辺境伯様』って呼ばれているよ!」
「…おすと、しえど、るんぐ…へんきょーはく…さま…」
確実に言い慣れていないと分かる発音に、辺境伯は苦笑しながらも頷く。同時に花恋の観察を始めた。黒瞳黒髪はどちらも濃く艶めいていて、聖女と呼ばれるにふさわしい彩りを放っている。筋の通った鼻、赤い唇。顔面の最適な場所に配置された一つ一つが整ったパーツ。どこか儚げな印象を受ける、これまでに類を見ない極上の美しい女性だ。自身の領地では見たことのない服装なのに、携行品が何もなさそうな佇まい。足元は裸足ではないか。聖女云々より身元を確認する方が先だとオストシエドルング辺境伯は判断した。
「…珍しい服装だが、君はこの町の人間か?」
「…いいえ。気付いたらあの森の中にいて…すみませんが、ここがどこだか教えていただけませんか?」
「どこ、と言うと?」
「地名を知りたいです。」
「エストマルク王国のオストシエドルング領だが?」
「…そう、ですか…」
ああ、脳がシャットアウトした。流れていく思考を遠い目で見送った花恋は、腕に抱きしめているコウを見つめながら頭の中で漠然と情報を並べる。聞いたことのない国名、その中にある領地名なんてもっと知るはずなく、目の前にいるのは辺境伯と名乗る人物、童話や物語に出てきそうな街並みに服装、腕の中には聖獣と分類される生き物。そしてここは夢の中ではなく現実…受け入れ難いが。
「…うそでしょ…」
ポツリと零れた言葉にコウが花恋を見上げた。きらめく瞳に情けない自分の顔が小さく映り込んでいる。花恋は自嘲するように口端を上げると、オストシエドルング辺境伯に頭を下げた。
「…教えていただきありがとうございます。それでは失礼します。」
「…ずいぶんと顔色が悪いようだが?」
「ちょっと…現実に打ちのめされて…でも、大丈夫です。」
「…『大丈夫』で納得できる顔色ではありません。お父様、我が家で休んでもらったら?お礼もできていないのだから。」
「聖女様、私の家に来て!」
「そうだな。着ているものも汚れてしまっているし、裸足で辛そうだ。娘達と領都を助けてくれた礼もしたいし、我が家で休んでいくといい。」
「いえ、迷惑になりますので…」
「聖女様!私、聖女様とお話したい!」
どうしていいか見当もつかずに途方に暮れる花恋にシアナが声をかける。マーラを助けられはしたが、状況から見て花恋はシアナ達にとって正体不明者だ。このまま放免して万が一のことがあろうものなら、領主として釈明できないほどの失態だ。暴けるものなら暴きたい。辺境伯令嬢として花恋の身柄を確保した方がいいと冷静に判断した。シアナは優秀な頭脳の持ち主だと周りから高く評価されている。オストシエドルング辺境伯もシアナに同意見で、すでに屋敷へ伝令を走らせていた。この青年も若いうちから辺境伯の爵位を得ているだけあって頭が切れる。娘の判断に唇を吊り上げた。マーラは単純に興味があるのだろう、コウを抱く花恋の腕を掴んで離さない。あれよあれよという間に辺境伯の家へ連れていかれてしまった。
我が家。そう言われて花恋が想像したのは街に並んでいる建物を大きくしたものだった。しかし、これは…。
「家って…お城じゃないですか…」
馬車の窓から見えた立派な建物に開いた口が塞がらない。そう言えば辺境伯って言っていたな。今更ながら思い出した青年の身分に花恋は乾いた笑いを漏らした。まずもって敷地が広い。玄関まで馬車で乗り付けるなど、一般家庭に生まれ育った花恋とは住む世界が違う。恐る恐る踏み入れた玄関ホールだけで花恋の育った家がすっぽり入っても余るだろう広さで、『お金持ちってすごい』と小学生並みな感想しか出てこなかった。
「お戻りなさいませ!トゥバルト様!シアナは!?マーラは!?」
「無事だよ。」
「ただいま帰りました。心配をかけてしまってごめんなさい。」
「お母様、ただいまー!!」
「シアナ!マーラ!ああ、無事でよかった…。トゥバルト様、ありがとうございます。魔獣の方はどうなりました?」
「聖獣だった。聖女様が二人を守ってくれ、聖獣も落ち着かせてくれた。」
玄関ホールにいた美女が駆け寄ってくる。娘達の無事をその目で確かめ安堵した女性は、気後れしている花恋の存在を認めると側まで来て優雅に膝を曲げた。
「マリー・マルクグラエフィン・ヴォン・アッカーベルグでございます。この度は娘を助けていただき、心より感謝申し上げます。」
「…ご丁寧にありがとうございます。ですが、どちらかと言うと私の方がお嬢様に助けていただきました。こちらこそお礼申し上げます。それから私は聖女ではないのですが…急にお邪魔することになってしまい、申し訳ありません。」
できるだけ丁重に、社会に出てから培ってきた応対力を発揮して花恋も深く頭を下げる。カーテシーなぞしたこともないが、見様見真似で腰を落とした。…バランスを崩さなくてよかった、と胸の内で秘かに安堵しながら。伝言と花恋の言葉の相違に、辺境伯夫人は首を傾げながら夫に確かめた。落ち着いてから話そう、とオストシエドルング辺境伯の提案を受けて全員でサロンへ移動する。通された場所はこれまた広く、豪華な刺繍が施されたソファセットに、煌びやかな家具、天井には絢爛なシャンデリア。もう童話の世界に迷い込んだとしか思えない内装に、花恋は呆然と立ち尽くした。そんな彼女に腰かけるように促したオストシエドルング辺境伯は対面に座ると、にこやかに口を開く。
「改めて紹介しよう。私はトゥバルト・マルクグラフ・ヴォン・オストシエドルング・アッカーベルグ、ここの領主を務めている。そして妻のマリー、娘のシアナとマーラだ。」
「マリー・マルクグラエフィン・ヴォン・アッカーベルグでございます。」
「シアナ・マルクグラフ・ヴォン・アッカーベルグス=トチテルです。」
「マーラ・マルクグラフ・ヴォン・アッカーベルグス=トチテルだよ!」
「…樋屋です。」
次々と押し寄せる名乗りに忙しない会釈をした後で花恋もようやく自分の名前を口にした。
「ヒョーク様って言うの?」
「ううん、樋屋。樋屋花恋…あー、カレン・ヒオクです。」
「カレン・ヒョーク様!」
どうやらうまく発音できないらしい。ニコニコと笑顔で繰り返される名前は絶妙に違うと思ったが、花恋はこのさい細かくは気にしないことにした。
「ところで、ヒョーク様。この辺りでは聞かないご家名ですけれど、どちらからオストシエドルングへいらっしゃったのかしら?」
「ええと…日本ってご存知ですか?」
「ニッポン?」
「あー…ジャパン?ジャパーン?ジャポン?ハポン?ハポネ?ジャッポーネ?ヤポーニヤ?ヤポン?ヤーパン…」
「あっ!ヤーパン、知ってる!!」
「本当!?」
知っている限りの『日本』の呼称を並べていたところ、マーラが反応した。花恋はホッとする。日本が存在していることを心底嬉しく思った。存在しているなら戻れる。自然と浮かんだ笑顔と喜色を含んだ声で聞き返した花恋に、マーラが大きく頷いた。
「みんな知ってるよ!お伽話に出てくるよね。」
「…え…お伽、ばなし?」
「うん、海に囲まれた雷の力を使う国。魔法がないなんて面白い世界だよね!」
きらきらと瞳を輝かせて話すマーラに、花恋は頭を殴られたような衝撃を受けた。彼女は何と言った?お伽話?架空の話?ヤーパンは…日本は、実在しないということなのか?花恋はマーラが言ったことにぎゅっと両手を握り締め、下がった視線を落ち着きなく動かす。様子を窺うように花恋の膝の上から見上げるコウと目が合い、手慰みに撫でた。希望が見えたと思ったはずが、真逆の絶望だったとは。ドクドクと騒がしく高笑う心臓が痛い。
「…お伽話…と言うことは、モチーフやモデルになった国があるのでしょうか?」
「いや、聞いたことはないな。」
花恋の質問にオストシエドルング辺境伯が一拍も置かずに答える。藁すらなかった。