023
マーラのお相手と言う仕事の初日。カレンは半時間ほど早く城館を訪れていた。本日はその時間に来るようにと前日に連絡が届いたからだ。町の人と同じ格好をしたカレンは門衛に訝しがられてしまったが、外套のフードを外した途端に『失礼しました』と直角に腰を折って通された。城館内では玄関でキーランドが出迎えて二階へ案内される。カレンがルヘゾネを出たので誰も使わなくなり、キーランドは城館で家令見習いに戻ったらしい。『これは秘密にしてほしいのですが、とても厳しくて夜な夜な枕を濡らしています』と真面目な声で言うものだから、カレンは何と返していいか分からずに彼を凝視してしまう。けれどばっちり合った目が笑っているものだから、『ルヘゾネでどれだけお世話になったか力説しておきます』と両手で握り拳を作りエールを送った。貴族の屋敷や邸宅は、一階は他人が出入りをする社交の場、二階以上が家族などの住居空間、屋根裏や地下が使用人の空間となっていることが多い。階段を上がって二階、一番手前の扉の前でキーランドは立ち止まる。『お越しになりました』と中に向かって告げればすぐに入室の許可が下りた。
「ごきげんよう、カレン嬢。」
中にいたのはマリーだった。『いらっしゃい』とカレンを招き入れたマリーは、部屋の中央に置いてあるソファに座るよう手のひらを向けて指す。マリー自身はカレンの正面に座ると、ぐるりと部屋に視線を流した。
「今日からどうぞよろしくね。それで、この部屋はカレン嬢が好きに使ってちょうだい。」
「…え?」
「マーラの相手をして疲れてしまった時だとか、少し早めに来て落ち着きたい時だとか。部屋付きの女中は置いていないけれど、城館内にいる女中も遠慮なく使いなさいな。」
「え、いえ…あの…?」
「それからこちら。」
そう言って部屋の隅に控えていた女中に持ってこさせたものは滑らかな触り心地のすらっとした羽ペンと切り込み模様をつけたガラスのインク壺だった。
「これは私からの、マーラの相手をしてくれるお礼よ。」
「いえ、それは契約を交わしていますので…」
「だから『私から』よ。」
…これは受け取るまでマリーは引かないだろう。カレンはそう判断して笑顔でいただくことにした。いずれ、何らかの形で少しでも返せれば。カレンが心の中の借用書を一枚増やしていると、満足そうに微笑みを浮かべたマリーが『あちらも持ってきて』と女中に新たな指示を出す。今度は何かと内心で冷や汗をかくカレンの前に並べられたのは色とりどりのドレスだった。
「こちらは待たせてしまったわね。」
「…あの、一枚のお約束だったはずですが?」
「ええ、私が頼んだのは外出着が1着。でもフラウ・ウルズラから『コットン地を使ったドレス製作の練習をさせてくれ』と頼まれてね。断れなかったわ。」
嘘だ。絶対に嘘だ。にっこりと唇で美しい弧を描くマリーにカレンの頬が引き攣る。『カレン嬢の寸法で仕立ててあるから他の人は着れないのよねえ』と手を頬に添えてさも残念そうに溜息をつくマリーに、溜息をつきたいのはこちらだとカレンは半眼になりそうになるのをぐっと堪えた。コットン地のものは来館の際に着用しろと言うことだろう。町の人の格好をした人間が頻繁に城館へ出入りするのは外聞が良くないとの判断だなとカレンは予想した。…やっぱりこれも断れない案件ではないか。
もともと予定していた1着は装飾があまりないシルク地のものだが、当たり前のように添えられた付属品を見るに一人では着られないと思われる。仮に着ることになるとすればアッカーベルグ家も関連するだろうと想定してこの部屋に置かせてもらうことにした。残りの数着はワンピース型で、ちょっとしたお洒落着や外出着として平民が着るような、もしくは柔軟な思考の貴族が部屋着として着用するようなデザインになっている。さっそく着てみてくれとマリーにせっつかれ、カレンは部屋にいた女中に着ているものを剝かれた。ワンピースはコルセットとパニエの上から着る仕様で、頭からかぶり上半身の前身頃を下側はホック、上側はループ釦で留める。前身頃が二重になるので上半身は普段よりもぴったりとした、下半身はパニエでふんわりした見た目だ。『よく似合っているわよ』の誉め言葉を複雑な気持ちで受け取っていると、扉がノックされトゥバルトが顔をのぞかせた。
「おお、よく似合っている。」
開口一番、にこやかに妻と同じことを口にしたトゥバルトにカレンは苦笑う。
「…ありがとうございます。」
「そろそろ時間だが用意はいいかい?」
「はい、よろしくお願いします。」
「では行こう。」
「カレン嬢、残りのドレスと着てきたものは持って帰れるように用意させておくわ。」
「ありがとうございます。お願いします。」
マリーから貰ったペンとインクを手に部屋を出る。マーラの部屋は3階だった。正確には『マーラと勉強をするためだけの部屋』だ。貴族様の邸宅はそれが標準なのだろう、もう何も言うまい。
「イリーネ・フライヘッル・ヴォン・フューゲルス=トチテル嬢だ。」
部屋でマーラと待っていた女性は黄髪を一つに纏めていて、カレンは彼女にきりっとした印象を抱く。頭を下げたイリーネへ、二人の距離を縮めるようにカレンの手を引いたマーラがニコニコと紹介した。
「イリーネ先生、こちらがカレン様っ!」
「噂には聞いておりましたが、本当にお美しい方でございますね。まさに神話にでてくる女神様のような…。聖女様にお会いできて光栄に存じます。」
「…カレン・ヒョークと申します。どうぞよろしくお願いいたします。」
この世界の人達は初対面の相手に美辞麗句を向けるものらしい。このごろのカレンは否定も肯定もせずに微笑み俯き加減になることで、賛辞を最短で終わらせることを覚えた。『聖女』に至ってはもはや完全スルー一択だ。高尚な渾名に違いない。さっさと話題を変えるに限る。
「マーラ様、今日からどうぞよろしくね。」
「うん!分からないことは私に何でも聞いて!」
「ふふっ、頼もしいわ。」
「カレン嬢に教えるには自身もしっかり理解できてなければならないんだぞ、マーラ。」
「心配ないよ、お父様!」
「ははは、そうか。それならカレン嬢も安心だ。」
ああ、マーラ様…。トゥバルト様の思惑通りになっちゃって。カレンがそっと盗み見れば、トゥバルトは悪だくみが成功したような輝かしい笑顔を浮かべている。『しっかりな』と励ましたトゥバルトが部屋を去り、カレンはマーラに連れられて椅子に座った。
「さて、では始めましょう。」
「よろしくお願いします。」
「本日は手紙の書き方を覚えましょうか。ヒョーク様は文字がお読みできないと伺っておりますが。」
「はい。」
「では、ヒョーク様は文字の読み書きから始めましょう。」
お手紙というものは…、と始まった講義に自然と背中が伸びた。緊張感のあるしゃきっとした声がどこか懐かしくて、きちんとした形で誰かから教えてもらうのもとても久し振りで、カレンの口角が持ち上がる。いくつか用意された便箋からマーラが選んだのは緑から赤に色づきながらひらひらと落ちていく葉が描かれたものだった。窓の外を見れば正に葉が色づき始め、緑の中に黄や赤が混じっている木々が目に入ってくる。
「シュテフ兄様に送るの!葉っぱが全部落ちる頃になったら王都へ行くんだよ。そしたらシュテフ兄様に会えるの!」
そう言ってニコニコと書き始めたマーラの様子をしばらく見た後で、イリーネはカレンの前に一枚の表を置いた。
「お待たせ致しました。エストマルク王国で使われている文字の一覧表です。一つの音に対して一つの文字が当てはまります。」
つまり、エストマルク王国で使われているのは表音文字ということだ。この一覧表はエストマルク版五十音表と言っていいだろう。そしてこれが唯一の文字だそうで。そうだとしたら意外と早く覚えられるかもしれない。だてに日本人を何十年もやってきたわけではない、ひらがな、カタカナ、漢字、アルファベット…表意文字、表音文字を複数組み合わせた日本語表記よりよほど楽だ。カレンはそっと安堵の溜息をついた。カレンの本日の課題は音と文字を一致させることだとイリーネが目標を立てる。表とは別に渡された数枚の紙にひたすら練習を重ねた。20年前に戻ったような気がして嬉しいような情けないような…。最終的には楽しそうに取り組むカレンの姿は、さっそくマーラに刺激を与えたらしい。『本日のマーラ様は大変すばらしい姿勢で取り組まれました』と、大変満足した表情でイリーネから礼を受けた。




