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運が悪かった。男はそう思っている。単に運がなかっただけだ、と。あの時金に困っていたのも、聖獣を狩り損ねたのも、逆に怪我を負ってしまったことも、呆気なく捕まったことも、こんなところにぶち込まれたことも。汚れた雑巾を嫌そうに抓みながら深く溜息をついた男は、本気で運が悪かっただけだと思っている。なぜ俺がこんな目に遭わなければならない、と。
「ぼうっとしてんな。メシ行くぞ。」
なぜ朝飯の前に掃除をしなきゃならない。なぜこいつと共に行動しなきゃならない。腹に黒いものを溜めながら男は雑巾を放り投げた。
真面目に生きてきたつもりだ。孤児と言う悪環境でも力と技をつけ、一端の冒険者を名乗った。エストマルク王国に生まれたわけですらなかったが、流れ流れてオストシエドルングに辿り着いたのは今から数年前。他の土地より高い治安に、ここを拠点地とした。オストシエドルングにはだだっ広い森がある。そこには魔獣や薬草が溢れているから何の心配もない…はずだった。治安がいいと言うこと、翻せば災厄が少ないと言うこと。冒険依頼は薬草採取が多く、すなわち対価が少ない。懐が軽くなってから焦っても後の祭りで、どうにもこうにも動けなくなってしまった。だから聖獣を狙った。穢獣のようにこちらを襲うことなく、穢獣より価値の高い稀石をその体に持っている。魔獣など比にすらならない。以前見かけたことのある美しい翼を持った緑の鹿。グレンズワルドに入ってから数日で見つけられたことを神に感謝した。気付かれないよう慎重に近づき、一撃で仕留めるつもりで剣を振り上げて。高く跳躍した鹿の強烈な一蹴りであっけなく吹っ飛ばされた。大木に嫌と言うほど体を叩きつけられ、ひどい打ち身に宿屋のベッドで沈んでいると、オストシエドルングの騎兵団にあっさりと捕らわれてしまった。
「聖獣を狩ろうとしたのはお前だな?」
聞かれた言葉は問い質しではなく確認だった。一人で森へ行ったのに、周りに誰もいなかったのに、なぜバレた?聖獣を狙うのが反則技だと言うのは理解していた。バレたらただでは済まないことも承知の上だった。だけど、なぜ騎兵団が…。
「お前は穢獣部隊の先鋒組に入団だ。ご領主様の許しを得るまで無給で勤めよ。」
呆然としたまま一方的に告げられた男は、傷が癒えないうちにオストシエドルング辺境伯騎兵団穢獣部隊に投げ込まれた。そこで待っていたのは峻烈な規則と厳しい訓練。体がついていかずに何度も嘔吐し、崩れ落ち、気絶した。それでも無理やり蘇生させられ続けるよう強要される。見逃してなどもらえなかった。
そうして2週間。今日も栄養を取るだけのうまくもない飯を食い、吐きそうになる訓練を何とか終わらせる。夕飯後には自由時間があるが、この男には慰みになるようなものはなかった。疲れ切った体をずるずると引き摺って自室に戻ると、相部屋のニクラウスがベッドに座ったまま酒瓶を持ち上げた。
「一杯やろうぜ、ヘッル。」
ヘッルとはいったい誰のことだ。舌打ちしたい気持ちをぐっと堪え、忌々しいままテーブルの上に置いてある木のコップを奪い取った。このニクラウスと言う男はヘッルの監視役のようなもので、ぶち込まれたその場で『逆らわない方がいいぜ』とそら恐ろしい笑顔をヘッルに向けた。ヘッルも冒険者として生きてきたのだ、一目見てその言葉が偽りでないことを悟った。
「…俺はヘッルじゃない。」
穢獣部隊にぶち込まれて初めて口をきいたヘッルに、ニクラウスは少しばかり目を見開く。もう何杯も酒を継ぎ足した今、もしかしたらヘッルの意識が怪しくなってきているのかもしれない。ニクラウスが持っている酒はそれなりに度数が高いものだから。
「ああ、そうだな。この国に『ヘッル』と言う名は存在しない。」
「…は?」
「誰でも知ってることだろ。」
「へ…」
「…お前、エストマルクの出身じゃないのか?」
「…違う。」
「だったら覚えとくんだな。『ヘッル』は架空の名で、自分の名を封じられた男につけられるんだ。ちなみに女は『ヘッラ』な。」
「…」
「で、お前なにしたんだ?」
ヘッルは言葉に詰まった。聖獣を狙うことに罪悪感を覚えたのもまた事実なのだ。そんなヘッルにニクラウスは嘆息する。場を繋げるように酒でコップを満たせば、一気に煽ったヘッルはそのままベッドに倒れた。
その日以降、少しずつだがヘッルはニクラウスと話すようになった。相変わらず規則も訓練も厳しくてヘッルは理不尽に思えたが、ニクラウスが分けてくれる酒だったり、どこからか手に入れた艶本だったり、先鋒組でカードをしたりと、部隊生活にゆとりが見えてきた。ポツポツと自分を見せるようになったヘッルを、ニクラウスは静かに相手した。
「おい、あれ!」
誰かが叫ぶ。注目を浴びたのは同じ訓練を受けていた先鋒組の一人だ。彼は空を指さしている。その指先を辿っていって、ヘッルは息をのんだ。
「…あ、…っ…」
傾き始めた太陽が照らしていたのは光の聖獣。薄橙黄に染まる天空を光の聖獣は随意に翔けていた。やがてぴたりと止まった光の聖獣に、わらわらと集まって空を見上げていた騎兵達の間に緊張が走る。
「あ…あ…」
ヘッルは驚愕に情けない声を漏らす。光の聖獣の周りに色が増えた。4色とも立派な翼をはばたかせていて…そのうちの緑は自分が狙った聖獣ではないか。夢ではないかと目を疑う。するとそれを否定するように光の聖獣が咆えた。はるか上空にいるのにしっかりと聞こえた鳴き声にヘッルの心臓がドクンと重くなった。
「あ…あ、あ…」
光の聖獣の一咆を合図に、5体は空を翔け出した。下降しながらスチロスワルドへ吸い込まれていくように消える。段々と大きくはっきりと見えるようになった光の聖獣の背には女が乗っていた。黒髪を風に靡かせた美しい女。直感で聖女だと理解する。まるで神の御使いが舞い降りたような出来事に、ヘッルは涙した。手を出してはいけなかった。あれほど崇高な存在を自分の勝手で殺そうなど、傲慢もいいところだ。
「ああ…俺は…なんて、ことを…」
地に膝をついてスチロスワルドの方向を凝視するヘッルにそっと近づく者がいる。ニクラウスだ。
「…大丈夫だ、ルディ。しっかり贖罪すればいい。」
ぐちゃぐちゃになっている思考の中へ、ヘッルの本名が落とされる。そっと囁かれた言葉にヘッルは咽び泣いた。




