001
ここはどこ、私は誰?…とならなかった自分を褒めたい。花恋は切実にそう思った。だって確実に家の中にいた。さらに言うなら、夕飯を食べ、お風呂に入り、部屋着のままベッドに潜り込んだ。絶対に、間違いなく、そうした。確信をもって言い切れる。それなのに、なぜここにいるのだろう。
「何で…森の中…?」
正確に言うならば『ここはどこ?』となってしまうのは許してほしい。自分を見失わなかっただけでも褒められたい。閉じた瞼でも眩しく感じた光に目を開けてみれば視界いっぱいに雑草が入ってきたので、花恋はパチパチと瞬きをしてしまった。鼻から感じるのは自然の青臭い匂い。『は?』と言う思いが頭を占めながらも上半身を起こしてみれば、木々に周りを囲まれていた。キョロキョロと目を動かしてみても、木、木、木。グリングリンと頭を動かしてみても、木、木、木。パンと両手で頬を挟むように叩いてみても…。
「いった…っ!」
夢の中では感覚がない。よく聞く言葉だ。と言うことは、どうやら夢ではないらしい。ヒリヒリと痛む頬をさすりながら花恋は呆然と辺りを見回した。
「やば…夢遊病にでもなっちゃった?」
いや、それにしてもおかしいだろう。室内から外へ、しかも見当もつかない場所。こんなところへフラフラと来てしまったとして、誰一人にも見つからずになんてできるものなのか?しかも夜から日中にかけての移動で。花恋の生活圏はそれなりに発展している都市部だ。部屋着姿の女が何も持たずに外出できるような場所ではない。よしんば外出したとして、すぐに不審者通報されてしまうだろう。電車でも乗らない限り、こんな鬱蒼と木々が繁る森になど来られないのだから。…いやいや、考えることは後だ。とにかく人がいるところに出なければ。花恋は混乱したまま立ち上がった。しかし、花恋がいる場所はどう見ても森の中だ。下手に動いていいものだろうか。さらに迷ってしまう可能性が高くなってしまうのではないか。
「…詰んでる…」
重い息を吐き出し、天を仰いだ。生繁る葉の間から見える狭い空は突き抜けるような青さが広がっているが、太陽は真上にはない。これから昼になるのだろうか、それとも昼は超えているのだろうか?いずれにしてもいつかは夜になる。そして意外と野生動物はあちこちにいる。動くことを躊躇いはしたが、ここに居続けたところで現状はほぼ打開できないだろう。夜になれば確実に暗くなるのだから動けなくなる。それならば今、視界を取れているうちに移動した方がマシだ。花恋は気持ちを入れ直して前を見据えた。
「どうか人に出会えますように。」
むん、と両手を握り締めて歩き出す。裸足であることに目眩を覚えたが、寝起きなのだからそれも致し方ない。できるだけ傷つかなさそうな場所に足を置きながらゆっくりと進む。しばらく歩いてから気が付いたのだが、不思議なことに何となくだが『この方向へ行けば人と会える』のではないかと直感らしきものが働いていた。今はそれに希望を持つしかない。歩いて、歩いて、歩いて…。視線の先に人工物を見つけた時、花恋は自分の幸運を神様に感謝した。普段は無宗教を貫いているのに現金なものである。逸る気持ちのままその人工物に近づいてみると、家ではないか!ぱあっと明るくなった顔で玄関まで駆け寄る。だが、喜びはすぐに叩きのめされた。柵に囲まれた内側は雑草が伸びているし、窓には板が打ち付けられている。人が住んでいないことは一目瞭然だった。
「うそでしょ…ここまで来たのに…」
がくりと気持ちが折れる。柵を両手で持ちしゃがみ込んだ花恋は長い溜息を吐いた。だがしかし、ここで立ち止まるわけにはいかない。あげた視線の先には均された道が見えた。森の中とは違って。と言うことは、この先には人がいると思われる。花恋は体内にあるマイナスのものを浄化するように深呼吸をし、足に力を入れて立ち上がった。念のために閉ざされた家をノックしたが応答はなく、後ろ髪を引かれる心持ちのまま再度歩き出す。この道の先に集落があることを願って。そこに人がいることを祈って。
地面むき出しとはいえ格段に向上した足元に導かれるようにしてまた歩き続けていると、木々だらけだった視界が開けた。どこまでも広く高い空、遠くまで見通せる地、そして先に見える建物の数々。町、がある。
「…助かった…」
何度目になるか分からない溜息は安堵からくるもので、花恋の足取りは軽快になった。ここがどこだか知りたい。家に帰るにはどうしたらいいか知りたい。花恋の頭はそのことで占められていたから、人工物の他に大きな何かがあったことに気が付けなかった。町に入ろうかというその場には白い巨大物がでんと鎮座していて、それと対峙した人々が喚いている場面に出くわした。武器を持ったカラフルな人々が。赤い髪、緑の髪、青い髪、黄の髪。昔の欧州で着られていたような服装。手に持っている武器。…どう見ても花恋が知っている日常ではない。フラと遠のきそうになる意識をどうにか繋ぎとめて花恋は人の方へ移動した。その場にいては猟銃らしきものの流れ弾で洒落にならない事態になりそうな気がしたからだ。凶器から十分に離れてから、花恋は遠巻きに事態を見守っている人に話しかけた。
「あの、すみません。」
相手が自分の方へ向くのを待ったが反応はない。遠慮がちに発せられた花恋の声は喧騒の中で書き消えてしまったらしい。花恋はもう一度、今度は先ほどより大きな声を出し肩を叩いて話しかけた。体への接触があったからか、相手が振り向く。その人が花恋を見た途端、ギョッとしたように目を剥いた。そんな反応が来るとは思わなかった花恋の肩が跳ねる。驚きに目を丸くしたまま花恋を凝視していた鮮やかな色の目が眇められた。値踏みをするような、軽蔑をするような、決して温かくはない視線。快くない反応に花恋は戸惑ったが、花恋は意を決して口を開く。
「…あの、お尋ねしたいのですが…」
相手を下手に刺激しないように丁寧に切り出した言葉は最後まで続けさせてもらえなかった。相手が遮るがごとく何かを捲し立てる。花恋には聞き覚えがなかった。少なくとも、花恋の母国語ではないし、世界共通語でもない。時々鼻で笑いながらベラベラと話している相手の態度に悪意を感じながらも、花恋はどうしていいか分からず立ち尽くす。言葉が通じない。ここがどこだか分からない。相手は自分を小馬鹿にしている。何も持っていない。
「…うそでしょ…」
詰んでる。どん詰まりだ。呆然と立ち尽くす花恋に相手はますます目を細めながら口を回す。そして突然、花恋の腕を掴んだ。何かを捲し立てながら花恋を引き摺りずんずんと歩き出す。つま先は白い巨大物へ向いている。え、何!?と混乱しているうちに、花恋は武器を持っている人々の間から投げ捨てられてしまった。
「…え、うそでしょ…」
目の前の白い巨大物は未知の生き物だった。見た目は犬なのに、絶対に犬ではない。ならば狼というものであろうか。その昔、幼い頃に動物園でしか見たことがないからはっきりとした記憶がないけれど。しかし未知の生き物なのだ。だって翼が生えている。あり得ない個体に恐怖が増したが、視線を縫い取られるほど美しい獣だった。白い獣は首をそらして見上げなければいけないほどの大きさで、当然ながら意思疎通などできない。カラフルな人々へ威圧するように咆えている様は恐ろしいが神々しくもあり、花恋はカラカラになった喉で唾を飲み込んだ。けれどその咆哮を自分に向けてほしくない。逃げなくてはと思うのに足が地面に吸い付いて離れず、むりに動かそうとしたらもつれて無様に尻もちをついてしまった。早く…白い獣に認識される前に逃げなくては。
「…うそ…でしょ…」
視線が交わった。白い獣と目がバチリと合ってしまった。頻発されていた雄叫びがぴたりと鳴り止む。標的を見つけた、と言わんばかりに獣の首が固定された。花恋から一瞬も目を離さず、狩る瞬間を読んでいる。歯の根が合わない花恋の口からカチカチと音が刻まれた。一対一で対峙した時、先に目を逸らした方が負けだと言う。勝てる気は全くしない花恋だが、白い獣から目を離せずにいた視界が何かで遮られた。獣に合わせていた焦点をずらして見ると、子供が両手を広げて目の前で立っている。惹きつけられるきらきらとした赤い髪が風に揺れる後ろ姿はまるで白い獣から守ってくれているように見え、花恋は息をのんだ。白い獣がいつ攻撃をしてくるか分からない状況下で、何で子供が自分の前にいるのだろうか。何で子供が大人を庇っているのだろうか。呼吸が浅く、速くなる。後ろから叫び声が聞こえ思わず振り向けば、こちらも煌めく黄色の髪の美少女が周りの大人に取り押さえながら必死に手を伸ばしていた。この子の知り合いだろうか。そう思ってから花恋はハッとした。白い獣から目を逸らしてしまっている。嫌な予感しかしない状況に、鼓動が馬鹿みたいに主張する。それを見透かしたようにひときわ鋭い咆哮が辺りにとどろく。照準を合わせるようにゆっくりと口が開かれた。白い獣は完全に狩るつもりだ。
「…ねえ、うそ…でしょ…」
大きく開いた口から光が放たれる。そこかしこから悲鳴が上がる。花恋は咄嗟に子供の前に出た。消えろ!なくなれ!!と祈りながら。