八月の別れ
八月に入り、外はうだるような暑さだ。
もう夕方だと言うのに、レイナは汗をかいていた。
彼女が病院の玄関を通る。ひんやりとした冷気が、汗ばむ彼女を迎えた。
今日も彼女は兄の面会に来ていた。
最近では、彼女の兄も少しずつ、外の刺激に反応できるようになってきていた。先日彼女が声をかけた際に、久しぶりに彼の声を聴くことが出来た。
兄が回復してきたことや、アヤトの存在が良かったのだろうか、レイナは少しずつ、以前のように人の顔を描くことができるようになってきていた。
そんな彼女の前方から、女性が一人近づく。
「鶴見さん、ちょっと……」
レイナの兄の主治医であり、アヤトの義母である女医の桜木町医師だった。
「桜木町先生、兄のことでしょうか?」
桜木町医師に病棟以外で話し掛けられたは初めてだった。無表情な彼女の視線を受けたレイナを、言いようのない不安が襲う。
(何だろう……よくわからないけど怖い……)
「お兄様のこともあるわ。それと――」
少し間があった後に、女医はレイナに告げた。
「アヤトの義母としてあなたに話があるのよ」
※※※
アヤトの義母との話が終わった後、レイナは兄への面会をすませて病院の外へと出た。
気付けば、もう外は暗くなってきていた。
「レイナ、ぼんやりして歩いてたら転ぶよ」
前方から、見知った声が聞こえ、彼女ははっと顔を上げた。
歩道に立っていたのはアヤトだった。
彼はいつもこの病院の近くに現れる。おそらく、義母の桜木町が働いているからというわけではないだろう。
兄の面会に向かう中で気づいたことがある。
おそらく彼の実の母親は――。
レイナは同じような心の傷を抱えた彼に対して、今まで以上に近しい思いを感じていた。
(だけど――)
彼女は唇を噛みしめる。
少しだけ悲壮な決意を彼女はしていた。
※※※
アヤトは、レイナのアパートまで彼女を送った。
本来、彼女は母親と兄と三人で暮らしていたそうだ。だが、今は母も兄もおらず、一人でこのアパートに住んでいるという。
「じゃあ、ここで」
アヤトがそう伝えると、珍しく彼女が彼を引き留めた。
「待ってください、先輩」
彼女は、アヤトを見上げる。
そうして彼女が紡いだ言葉に、彼は驚かされる。
「部屋に寄って行ってくれませんか?」
「はあ?」
彼はいつもなら出さない間の抜けた声を出した。
レイナがアヤトの胸にすり寄る。
「ちょっ、どうした?」
アヤトは、慌ててレイナから距離を取ろうとしたが、彼女の方から距離を詰めて来る。
「俺はわりと、君のことは真面目に考えていて――」
「アヤト先輩、お願いします――」
戸惑うアヤトは、潤んだ瞳のレイナから視線を外せなくなった。
そっと顔を近づけて来るレイナに、アヤトも顔を近づける。
月明かりの元、二人の影が重なった。
その時彼女へ感じた違和感をそのまま放ってしまったことを、アヤトは後悔することになる――。
※※※
翌日は、二人とも何事もなく過ごした。
「アヤト先輩、ありがとうございました」
アヤトがレイナのアパートから去る際に、彼女が告げて来た言葉だ。
「レイナ、また明日、補講が終わったら迎えに行くから。そして、今度の日曜にでも、向日葵を見に行こう」
彼の提案に、レイナは寂しそうに微笑んでいた。
アヤトの中で違和感は拭いきれなかったけれど、また明日以降に聞けば良いかとそのままにしてしまった。
また彼女に会った時にでも、と。
だけど、その次の日以降、彼が彼女に会うことは出来なかった。
おかしいと感じて、彼女のアパートに向かったけれど、もうそこには彼女の姿はなかった。
彼の兄が入院していた病院に行った。母親の見舞いのついでに、彼女の兄がいた病室をのぞいたけれど、もうそこに彼の姿はなかった。
知っている後輩に尋ねたが、レイナはどこかに転校したと告げられた。
そうしてアヤトは考えるようになった。
これまでの彼女との幸せな日々は、『虚構』だったのだろうかと――。