近づく七月
「アヤト」
アヤトが病院の廊下を歩いていると、後ろから女性に呼び止められた。
彼が振り向くと、そこに立っていたのは、白衣を着た義母だった。
彼女はこの病院に勤務している精神科医だ。この場にいてもおかしくはないが、正直言え以外でまで彼女と顔を合わせたいと思わない。前下がりのボブに妖艶な顔立ちをした彼女は、四十は過ぎているはずだが、もっと若く見えなくもない。
「お母様の面会かしら?」
彼女に問われ、アヤトは内心答えたくはなかったが、結果は変わらないことも分かっている。彼はゆっくりと首を縦に振った。
彼の反応を見た後、義母は彼に尋ねた。
「貴方、鶴見さんのところの妹さんと会っているって本当? 一緒に歩いているのを見たって看護師が噂してたんだけど」
アヤトは彼女の問いに、不快感を覚える。少しだけ、苛々した調子で返す。
「それで、義母さんに何の関係が?」
「貴方、医師になるんだったら、交際する相手はちゃんと選んでおきなさいね。以前よりましになったとはいえ、未だに、相手の女性で価値を判断してくる医師達は多いんだから」
そう言って、彼女は去って行った。
彼女の背を見送りながら、アヤトは血が出るほどに強く拳を握った。
※※※
一学期が終わり、夏休みに入った。とは言え、レイナは高校三年生であり、夏の間も受験勉強に向けて補講が入る。最近は、夕方アヤトが彼女を迎えに来た後、高校の近くにある図書館で勉強を教えてもらっている。彼はさすが現役で国立大学の医学部に合格しただけあって、教え方が非常にうまい。医学部は理系ということもあって、国語を苦手としてた医学部生達は彼の周囲にはわりと多いらしい。だけど、アヤトは文系科目も得意だった。
この夏、彼はアルバイトで家庭教師をすることにしたらしい。医学部生だと、他の学部生に比べるといくらか時給が高くなるらしい。そんな彼に無料で勉強を教えてもらえているのは、交際相手の特権とも言えるかもしれない。
図書館の終了時刻を告げる音が鳴り、レイナとアヤトは二人で図書館から出た。
いつものように、彼が彼女を家まで送り届けてくれた。
「先輩は、もっとちゃらちゃらしている人だと思っていました」
帰り道、レイナはアヤトにそう声を掛けた。
「ああ、実際、去年の今頃まではそうだったかも」
彼がはにかむと、レイナの胸が少しだけどきりと鳴った。
色素の薄い髪に、蒼い瞳をした彼は、いわゆるモデルのように綺麗な男性だ。噂では、周囲の女性達と遊んでいるとレイナは聞いている。
とは言え、交際が始まって、もう四カ月ほど経つが、彼がレイナに手を出してくることは一切ない。
出会ってすぐに、レイナが彼の接近を拒んだのも一因かもしれないが、先日やっと手を繋いだ位だ。
彼は、レイナのペースに合わせてくれていると思う。
(自分でも、この人に心を開いてきているのが分かる……)
彼女は、隣を歩くアヤトの袖を引っ張る。
そうして彼の蒼い瞳をのぞいて声をかけた。
「わりと、誠実なんですね、アヤト先輩は」
そう言ったレイナは、彼に今まで見せたことのない微笑みを向ける。
「え、レイナ、今名前。それより笑っ……」
珍しく、アヤトが戸惑っていた。
そんな彼を見て、レイナはふふふと笑う。
気付けば、彼女のアパートの近くまで到達していた。
アヤトがレイナの手をとった。彼女は、彼の長い指が嫌いではない。そうして彼が、彼女を見ながら、優しい声音で告げた。
「八月になったら、大輪の向日葵を一緒に見に行こう。あの、『向日葵の虚構』に描かれていたような場所に――」
彼の提案に、レイナは微笑み返した。
「ぜひ」
手を繋ぐ二人の間に、穏やかな時間が流れる。
けれども、その年の八月、その約束が果たされることはなかった――。