惹かれたのは五月
「妹さん、ごめんなさいね、面会はそろそろ……」
白衣を着た若い男性看護師に、面会時間の終了を告げられた。
レイナは振り返り、彼に礼を述べた後、部屋の外に向かう。
「あ、はい、ごめんなさい。……それじゃあ、お兄ちゃん、また来るね」
レイナの兄は、少ししか開かない窓だけがついた部屋の中にあるベッドに横たわり、何の反応も示さない。彼に声を掛け、レイナは扉から外に出た。
以前は兄の部屋には鍵がかけられたりしていたが、今は鍵は必要ないらしい。妹であるレイナとの面会も許されているのだから、状態は以前よりも改善しているのだろう。
医師からも、一見すると何の反応もないように見える兄だが、外からの声掛けなどは分かっているという。
白い肌に硝子玉のような瞳に、ぼさぼさの頭をした兄の姿を見ると、胸が痛んだ。漠然と胸の中に穴が開いて、そこを風が通り抜ける様な、そんな感覚がある。
何度も咳払いを繰り返しては同じ場所をうろうろと歩く女性の隣を通り抜け、レイナは病棟を離れた。
病院の玄関を通り抜けると、太陽で温かくなった土とそこに生えている木の香りが、レイナの鼻孔をついた。そうして吹き抜ける五月の爽やかな風が、彼女の室内で汗ばんだ制服を少しだけ涼しくさせる。
今日は土曜日で、兄への面会も済んだ。まだ太陽は南中に差し掛かる頃だ。
少しだけ開放感を感じたレイナが背伸びをする。
兄に会った後は、自分でもすごく気が昂ぶっている。気分を落ち着かせたく思ったレイナは、いつもの場所に向かおうと思った。
病院の裏側には山が面しており、ちょうど建物と山の間で木陰になっている場所がある。そこにはベンチもあるが、薄暗い場所にあることもあり、ほとんど人が使っていない。今日のように土曜日などは特に人がいないところだから、レイナは兄の面会が終わるとそこに向かうのを日課にしていた。
建物の影を抜け、いつもの場所に向かったレイナは、先客が居ることに気づいた。
(土曜日なのに、誰か……)
少し離れた建物の陰で、彼女は立ち止まる。
こっそりと先客達の様子を見る――。
そこでは、年齢のはっきりしない黒髪に黒目のはっきりした女医と、若い白衣を着た男性が情事を交わしていた。
想像もしていなかった出来事に、レイナの心臓は何者かに鷲掴みにされたように感じた。
(離れなきゃ……)
だけども、その場に縫い付けられなくなったかのように彼女は動けなくなる。
レイナの頭を過去の何か、思い出してはない何かが脳裏に閃きかける――。
音を立てずに、その場を離れよう。
そう考えていたところ、突然後ろから何者かに口を塞がれた。
突然の出来事に、レイナの鼓動は早くなると同時に、身体が縮みあがる。
彼女の口をふさいでいるのはおそらく男の手――。
(この、指――)
パニックを起こし掛けた彼女の瞳に、男の指が目に入る。
「レイナ、俺だよ」
やはりと言うか、レイナの耳元で聞こえて来たのは、最近よく耳にする男の囁く様な声だった。
「離れようか」
レイナが振り返ると、そこに立っていたのはアヤトだった。
一瞬、声を荒げたかったが、先客二人に気づかれたくないこともあり、その場を離れることを優先した。
少し開けた場所まで歩いてきてから、レイナはアヤトに怒鳴りつけた。
「びっくりしたじゃないですか! やめてください!」
睨みつけるレイナに、決まりが悪そうにアヤトが答えた。
「あのままだと、レイナが悲鳴でも上げるんじゃないかと――」
「あげません!」
顔を真っ赤にしてレイナは声を荒げた。
「ごめん、ごめん」
軽い口調でアヤトが返してくる。そんな彼の態度が、レイナの苛立ちを加速させかける。
だが、次に彼の放った言葉が、打ち水のように彼女を冷静にさせた。
「あれ、俺の義理の母親なんだ。この病院で女医をやってる。実の母親じゃないから、まあどうでも良いけどさ」
そう言うアヤトの蒼い瞳は、深海のように暗い陰りを帯びているようだった。
レイナは言葉を失う。
この数月、彼と接していて分かったことがある。というよりもむしろ、周囲の女子生徒が勝手に情報を提供して来るといっても良い。
彼の両親は共に医師をしており、端的に言えば、特にお金に困るような環境では育っていないということが分かった。
それだけで、彼は自分とは不釣り合いな存在で、馴れ馴れしく接されるのが不快だった。
だけど、どうやら恵まれたお坊ちゃんというだけの男性ではないらしい。
レイナの中に、少しだけアヤトに対しての関心が沸いた。