再会の春
今は三月中旬だ。ちょうど一学年上の三年生達の国公立大学前期試験の結果が発表されている頃だ。
美術室の窓から見える校庭には、いつも聞こえる野球部の声やブラスバンド部の演奏以外に、歓喜の声やすすり泣く声が入り交じっていた。
来年、レイナも合否に一喜一憂している可能性は否定できない。
あの冬の約束以来、アヤトが美術室に出入りすることはなくなった。
しばらくの間、絵に集中出来ているようで出来ない元の日々がレイナの元に帰ってきたと言える。
心は昔と変わらず、凪の海に漂う船のようで、何を得ることも失くすこともない。
だけど、どれだけ平常な思いを持ってしても、以前のように人物画を描くことは出来ないでいた。
部屋の中は、顔のないキャンバスで溢れていて、たまたま中を目にした生徒の中には、小さな悲鳴を上げるものさえ存在した。
(これが私にとっての平穏な日々……)
そうかもしれなかったが、だが人を表現することが出来ていたあの夏以前の自分を取り戻したいという思いも捨てきれない。
ふと脳裏に二つの顔が閃いた。
一人は、レイナの安息の地でもあるこの場所に毎日訪れてきたアヤトだ。彼に掛けられた言葉が、頭の中を木霊する。
「ねえ、君みたいな小さくて可愛い子が本当にあんな激しい絵を描くの?」
激しい?
激しいのだろうか?
炎のように熱い最中に描いた絵だった。
(私に激しい感情なんてあるの?)
荒れ狂う海のようなもの?
考えたくないだけで、確かに胸の内にはあったのかもしれない。
情熱とも高揚ともしれぬものが、確かに。
だけどそれは、あの日失われてしまった。
頭の中に浮かぶ二人目の表情。
あの蒼白い――。
ガタリと、建付けの悪い扉が鳴った。
レイナの思考は、現実の世界へと戻されてしまう。窮屈で苦々しいそれへと――。
そうして音の方へと視線を向け直すと、そこに立っていたのは――。
「やあ」
耳障りだけは良い声。
軽い口調の主は、しばらくの間悩みの種だったアヤトと言う名の先輩だった。
「久しぶりだね」
そう言って現れたアヤトは相変わらず派手な見た目をしていた。高い身長に、彫刻のような整った表情。
そして日本人離れした、海のように深く蒼い瞳。
「ご卒業おめでとうございます。今日はどうなさったのですか?」
一応は、同じ高校の先輩後輩という立場だ。礼は払っておく必要がある。形式的な挨拶を済ませたレイナは、近くに置いていたパレットを手にとる。
「君さ、俺との約束を覚えてるかな?」
アヤトに尋ねられ、正直なところ、忘れてしまったと話したい気持ちが芽生えてきた。だが、人とほとんど接する機会を持たないために、否が応でも彼との約束を想起させた。
「先輩が医学部に受かったら、交際するという話でしたよね?」
少し醒めた口調になった。
同年代の女性なら、もしかしたらはにかんだりするような場面なのかもしれないが、レイナにそう言う女性らしい仕草は出来ないし、やりたいとも思わない。
そして、チャラチャラしたアヤトと医学部、結び付かないにも程がある。おそらく彼の学力とは乖離している場所のはずだ。当然受かるはずがないし、そもそも怖じ気づいて受験にすら至っていないかもしれない。
もしくは、からかわれたか。
「そう、それ。さあ、この書類を見てごらん」
アヤトが、一枚の紙切れを取り出し、レイナに向かって差し出す。反射でそれを受け取ってしまった。
「なんですか、一体?」
そこにあった書類を目にした瞬間、息が止まりそうになる。
「嘘――」
書類から顔を上げると、目の前のアヤトが不適な笑みを浮かべていた。
彼は、全てが絵になるようだ。
ぞっとするほど美しい表情。
それは蜘蛛の巣に捕らえられた蝶のように、レイナの身動きをとれなくさせる。
紙に書いてあった内容、それは――。
「ちゃんと君の言う通り、地元の国公大の医学部に合格したよ。ねえ、約束は守ってくれるよね、レイナちゃん?」
愕然としている彼女は、凍ったようにその場から動けないでいる。
この日から、彼らの歪な交際が始まったのだった。