序章 向日葵の虚構
うだるような夏。
あの日からずっと人を描くことが出来ない。
だけれど、もう一度、あの時のように出来たなら。
そうしたら。
また、戻れるのだろうか、私も、私達も。
季節は冬に差し掛かる頃。ちょうどその日も美術室で過ごしていた。私立新橋学園高等部にある美術部の部員は一人だけだったから、放課後になると、私は誰にも邪魔されずに絵を描くことに集中できた。
けれども、「あの日」からどうしても人物画が描けなくなっていた。
もう一度描けないものかと、何度も何度も描き直した。もう何日も何枚何十枚と試したが。
(どうしても、人の表情が……)
何度もやり直すが思い通りにはいかず、美術室の中は白いキャンバスで埋め尽くされていた。
(もう帰ろう)
気づけば外は暗くなっていた。
最近は十七時半を過ぎると暗くなる。高校の規則で、冬場は18時までには部活を終わるように決められている。
ため息をつきながら、二年生を表す青のリボンを結び直した。寮に帰るために、椅子に掛けていたコートに手をとろうとした時。
「『向日葵の虚構』の、鶴見零奈」
誰もいないはずの美術室で、低い男の声が聞こえ、びくりと身体が跳ねた。
振り替えるとそこには、色素がやや薄い髪色をした男が立っていた。目鼻立ちがしっかりしており、いわゆる女性達が好みそうな顔立ちをしている。体つきは締まっており、少しだけモデルにしたいと思ってしまった。タイの色を見れば緑で、一学年上だと分かる。
「は、はい。その、先輩はどなたですか? どうしてそんなところに?」
目の前の彼は瞳を丸くして、一拍置いてから、「ああ、ちょっとね」とだけ告げた。はにかむ。
「ねえ、君みたいな小さくて可愛い子が本当にあんな激しい絵を描くの?」
馴れた口調で声をかけてくる。
一気に距離をつめてくるような態度で、少しだけ警戒心がわく。
「絵を描くのに、身体の大きさは関係ないかなとは思います」
その返答がおかしかったのか、目の前の先輩はくっくっと笑いだした。
それよりも、気付いたら、腕を伸ばしたら届くぐらいまで距離が短くなっており驚いてしまう。
ひとしきり笑われた後、本当に俺のこと知らないの?と問われたため、こくこくとうなづいた。目の前の男性は、「さくらぎまちあやと」と名乗り、近くにあった筆を取り、キャンバスに桜木町奇仁と描いた。
「これでも俺、この学園ではわりかし有名人なんだけどな」
筆を置く節だった指の長さに目がいく。
「絵や題材にしか本当に興味がなさそうだね」
アヤトのいわゆる素材の良さにばかり気をとられてしまっていたことに、はっとする。少しばかり羞恥を覚えながら、謝罪のために頭を下げた。
頬がひんやりして、気づけば上を向いていた。
理解に時間がかかったが、アヤトが私の顔を両手で包んでいた。ますます自分が紅潮していくのが分かった。離してくださいと頼んだが、彼の手の力が緩むことはなかった。
アヤトは、私の左耳に顔を近付け、その低くて柔らかい声で、「頼み事があるんだ」とささやいてこられる。
「君に」
頭がくらくらしてきた。
声があまりにも耳障りが良く、恥ずかしさが増す。
早く離れてほしかったから、「わかりましたから、早く教えてください」とアヤトに懇願した。
彼にくすりと笑われる。
アヤトが頼み事を言うよりも、自分の心臓の音が大きくて、1回では分からず尋ねかえした。
そうして返ってきた答えは、
「君に俺の絵を描いてほしい」
ふと、瞳が出会った。
一瞬、息が止まる。
彼の瞳は、深い、蒼い瞳をしていた。
そして、こちらを見る眼はひどく優しくて、なんだかひどく懐かしくも感じた。
はじめまして、おうぎまちこと申します。
この度、はじめて小説を書いてみました。
次のお話も早めに書けたらと思っております。
どうぞよろしくお願いいたします。