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“幻惑のグスマン”

……………………


 ──“幻惑のグスマン”



 ハイデマリー王女が動いた。


 彼女は完全にアベルを魔族と認識し、その鉄塊のような長剣でアベルに斬りかかる。


「致命傷を負わせないように、穏便に制圧する。難しいな」


 アベルはそうぼやきながらも、ハイデマリー王女の攻撃を回避し、間合いを詰める。だが、ハイデマリー王女は“悪魔食い(デーモン・グリード)”としての身体能力で後ろに飛び下がり、アベルの攻撃の射程内に入るのを防ぐ。


 そして、再び長剣を振り回し、アベルを狙う。


「ふん!」


 アベルは今度は長剣を回避せずに受け止めた。


「悪いがこいつは没収だ」


 アベルはそう告げて思いっきり長剣を振り回し、ハイデマリー王女の手を長剣から強引に振り払った。ハイデマリー王女は小さく舌打ちしながら、長剣を放棄すると、近くにあった剣を抜いた。よりによってそれこそが魔剣だった。


「行くぜ、ハイデマリー!」


「来い! 薄汚い魔族め!」


 アベルが前に出るのにハイデマリー王女が魔剣を振るう。


 魔剣からは膨大な熱量を帯びた炎の渦が生じ、それがアベルに向けて飛来する。その速度は音速を越えている。流石は本物の魔剣というところだ。


 だが、それはアベルには達さなかった。アベルは瞬時に身を捻って攻撃を回避した。


 炎の帯びる熱量がアベルの皮膚を熱する。だが、この程度の熱でどうにかなるほど原初の人狼は軟ではない。アベルは熱を気にせず、ハイデマリーに向けて突撃していいく。


「受けよ」


 次は横なぎに払われた魔剣から炎が放たれる。


「よいしょっと!」


 アベルは空中に飛びあがってそれを回避した。


「馬鹿め! 空中では回避できまい!」


 ハイデマリー王女はそう告げて魔剣を空中のアベルに向けて振るう。


「それができるんだよ!」


 アベルは全身の筋肉を唸らせて、ハイデマリー王女の攻撃を回避した。


「よう。そろそろおはようの時間だぜ、ハイデマリー」


「貴様のような魔族が私の名を軽々しく──」


 ハイデマリー王女がそう告げて魔剣を振るおうとしたが、アベルは完全に自分の間合いにハイデマリー王女を捉えていた。


「痛いかもしれないけど、我慢しろ」


 アベルは手加減してハイデマリーの腹部に拳を叩き込んだ。


「ぐふ」


 ハイデマリー王女が打撃を受けて吹っ飛ぶ。


 だが、彼女の闘志は未だに尽きていなかった。


 彼女はゆらりと立ち上がると素手でアベルに挑んできた。


「おう。まだやるのかよ。わがままな王女様だ」


 アベルはそう告げて拳を構える。


「はああっ!」


 ハイデマリー王女の拳がアベルの顔面に叩き込まれる。


「ちとばかり痛かったな。流石はこれまでひとりで国を支えていた王女様だ。痛いなんて感触は久しぶりだぜ。だけれど、それだけだ」


 アベルはそう告げてハイデマリー王女の頬を平手打ちした。


「いい加減に目を覚ませよ、王女様」


 そう告げてアベルはハイデマリー王女を抱きしめた。


「あ、ああ……。くっ、頭が痛い……」


 そこでようやくハイデマリー王女が正気に戻った。


「ア、ア、アベル殿! どうして私はアベル殿に抱きしめられて……」


「ちょっとした混乱状態にあったからだよ」


 ハイデマリー王女が慌てふためくのにアベルがそう告げる。


「そうだった……。私はアベル殿を魔族と思い込んで……。すまない……」


「気にするな。久しぶりに楽しい戦闘だったからな」


 ハイデマリー王女はアベルの胸の中でそう告げるのに、アベルの方は全く気にしていないことが窺える笑みでそう返した。


「だ、だが、そろそろ離してもらえないだろうか。その、フェリクスも見ていることであるし、こういうことはもっとそれに相応しい場所で……」


「ああ。すまん、すまん。だが、気をつけろ。まだ幻覚剤の臭いがする」


 洞窟中に立ち込める刺激臭と甘い臭い。幻覚剤はこの洞窟中に散布されているようである。これをどうにかしなければドワーフたちは解放できない。ドワーフたちも幻覚剤によって支配されていると思われているからだ。


「とりあえず臭いの源を探ってみるか。ハイデマリー。貴様は入り口でフェリクスと待っていろ。俺はこの手の幻覚剤にある程度の耐性があるが、貴様らはそうじゃない」


「すまない。アベル殿。任せた」


 ハイデマリー王女に見送られてアベルは臭いの濃い方へ、濃い方へと向かう。


 ドワーフたちは生きていた。鎖で繋がれ、作業に従事している。恐らくは幻覚剤と洗脳の組み合わせで、奴隷にしているのだろう。


「胸糞悪いな」


 アベルはドワーフの奴隷たちを見てそう告げた。


「臭いがかなり濃くなってきた。そろそろだな」


 アベルはそう呟き、進み続ける。


「人間!?」


「どうしてここまで入り込んだ!」


 そして、それを示唆するかのように頑丈な鉄の扉の前に2体の魔族が見張りに立っていた。ここに何かありますと言っているようなものだ。


「ちいとばかり悪臭を撒き散らしている奴に文句を言いに来た。覚悟しろ」


 アベルはそう告げると一気に魔族たちとの間合いを詰め、両腕を使って2体の魔族の頭を壁に叩きつけた。魔族の頭蓋骨は砕け、壁に亀裂が走る。


「さて、ここに“幻惑のグスマン”とやらがいそうだな」


 アベルはそう告げて扉を蹴り破って開いた。


「何者だ」


 “幻惑のグスマン”の姿は見えなかったが、低い声が部屋にこだまする。


「流石に幻覚剤の臭いが濃すぎるな。これは多少の幻覚には気をつけないとな」


 アベルはそう告げると、周囲を見渡す。


 この部屋は宝物庫だったのだろう。金銀財宝で覆い尽くされている。ドワーフたちの集めた富を魔族が奪い、ここに保管しているのだ。


「俺はアベル・アルリム! 貴様に勝負を挑みに来た!」


 アベルはそう叫ぶ。


「ハハハッ! この俺に挑むだと! 命知らずの愚か者にもほどがある!」


 低い声がアベルのことを嘲る。


「なんだ? 態度はでかい癖にでてこないのか? ビビってるのか?」


 だが、アベルの方も声の主を嘲る。


「言ったな、貴様。許さんぞ。この魔王軍十三将軍のひとり“幻惑のグスマン”様を侮辱したことをあの世で後悔させてやる!」


 そう告げたとき、突如としてアベルの前に緑色の鱗を有するドラゴンが現れた。


「俺こそが“幻惑のグスマン”だ。貴様のちゃちな体を八つ裂きにしてやる」


 ドラゴンは“幻惑のグスマン”と名乗った。


 巨大なドラゴンだが、アベルが死の山で殺したヘリオガバルスと比較すればトカゲちゃんサイズだ。アベルはその大きさには驚かなかった。


「では、行くぞ、愚か者よ! 死ぬがいい!」


 “幻惑のグスマン”はそう告げて右腕を振り上げて、振り下ろした。


 アベルにとっては回避するのは余裕の攻撃──そのはずだった。


 だが、アベルの腕にはドラゴンの爪の数と同じ4本の裂傷が負わされていた。


「へえ。やってくれるじゃないか。本気で行くぜ!」


 アベルはそう告げると高らかと咆哮を上げ、その姿を人狼の正体へと変貌させる。筋肉が膨張し、骨格が変わり、顔が狼のそれへと変化する。


「その程度でどうにかなると思ったか!」


 “幻惑のグスマン”は再び腕を振り上げる。


 だが、今度はそれが振り下ろされる前に“幻惑のグスマン”に肉薄した。


 そして、拳を叩き込もうとしたとき──。


「どこを見ている。ここだ」


 幻惑のグスマンは瞬間移動でもしたかのようにアベルの側面に回り込んでいた。


「やるな。やるな、貴様。楽しくなってきたぜ」


 それからアベルと“幻惑のグスマン”の追いかけっこが始まった。


 アベルの攻撃は“幻惑のグスマン”には届かない。だが、“幻惑のグスマン”の攻撃も鈍すぎて、アベルに到達しない。2体の獣は宝物庫の金銀財宝を踏み躙りながら、一般人には理解できない速度で戦闘を繰り広げていた。


 どちらかが最初にボロを出せば、そっちの負け。死が待っている。


 緊迫感のある追いかけっこをアベルと“幻惑のグスマン”が繰り広げた。


 そして、ボロを出したのは“幻惑のグスマン”だった。


 彼の移動が間に合わず、アベルの拳が“幻惑のグスマン”に叩き込まれる。


 だが、衝撃はない。3Dホログラフィーに手を突っ込んだときのように、アベルの拳は“幻惑のグスマン”の体をすり抜けてしまった。


「こいつは……」


「よそ見をしていると死ぬことになるぞ?」


 アベルが一瞬考え込むのに“幻惑のグスマン”が拳を振り下ろした。だが、アベルの体には傷のひとつも刻み込まれない。


「分かったぜ、“幻惑のグスマン”。貴様のトリックが」


 アベルはそう告げると拳を構える。


「貴様の攻撃は洗脳魔術と幻覚剤によるものだけだ。俺が傷を負ったように見えたのは、思い込みのせいだ。俺は斬られたから傷を負った。貴様は俺にそう信じ込ませ、俺は傷を負ったというわけだ。実際に爪で付けられた傷じゃない」


「な、何を言っている……」


 アベルの推察に“幻惑のグスマン”が明白に狼狽えた。


「そのドラゴンの姿も見せかけだ。貴様の正体じゃない。貴様の本体は別の場所にいる。この幻覚剤の臭いを追って行けば正解にたどり着ける」


「クソ! 何をいい加減なことを! 貴様はここで死ぬのだ!」


 “幻惑のグスマン”はアベルに向けて腕を振り下ろす。


 だが、何も起きない。


 アベルの推察したようにあの最初の傷は幻覚剤と洗脳魔術による思い込みの傷だったのだ。本当にアベルの肌に傷を負わせたいならば、セラフィーネの“変換型電磁投射砲マギネティック・ランチャー”ですら威力不足だと思われている。


「臭いの源。それはここだ!」


 アベルはそう告げて金銀財宝の中に手を突っ込んだ。


「離せ! 大人しく死んでおけばよかったものを!」


 “幻惑のグスマン”の正体は小さなサンショウウオのようなドラゴンだった。腹部にいくつもの穴があり、そこから幻覚剤をばら撒いている。


「よくも散々、俺たちのことを玩具にしてくれたな? 覚悟はできてるだろうな?」


「ま、待て! 話し合おう! 降伏するから、そちらはここにある財宝をすべて持っていってもらって構わない。ドワーフたちも解放しよう。そちらの望むことは何だろうと果たして見せよう。どうだ? それでいいだろう?」


「そうか。俺の望むことは全て果たしてくれるのか」


「ああ。そうだ。だから──」


「なら、死んでくれ」


 アベルは思いっきり“幻惑のグスマン”を金銀財宝の上に叩きつけた。


 べちょりという音ともに“幻惑のグスマン”は潰れ、幻覚剤の散布は止まった。


「全く。このサンショウウオもどきのせいで酷い目に遭ったぜ。ハイデマリーとは戦うことになったし、ここでは追いかけっこをする羽目になったし。まあ、でもこれで一件落着だな! 後はこの幻覚剤を追い払って、洞窟のドワーフたちを解放するだけだ」


 アベルはまたしても魔王軍十三将軍のひとりを仕留めた。


 これが普通の人間だったならばハイデマリー王女のように洗脳されていたか、洗脳で負わされた傷によって死んでいたことだろう。


 全てはアベルがあらゆる毒物にある程度の耐性がある人狼だからできたことだ。


 アベルは宝物庫を後にすると、入り口で待っているハイデマリー王女たちの下に向かった。道の途中で正気を取り戻したドワーフたちが呻いているのに、彼らを縛る鎖を破壊してやり、アベルは彼らを連れて入り口を目指した。


「アベル殿!」


 入り口で待っていたハイデマリー王女がアベルに抱き着く。


「無事に帰ってこれたのだな。“幻惑のグスマン”とやらは倒せたのか?」


「楽勝だった。手品はそれなりに凄かったが、他は大したことはない」


 ハイデマリー王女が尋ねるのに、アベルがそう告げて返す。


「それより幻覚剤が流れるのを待たないとな。それからドワーフたちの解放だ」


「ああ。我々はまた一歩、ノルニルスタン王国の解放に近づいたな」


 ヴェルンドリア王国を覆っていた幻覚剤は通気口から流れ去っていき、ドワーフたちの王国は蘇ろうとしていた。


……………………

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