人狼の儀式
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──人狼の儀式
人狼の儀式は大抵人気のない森の中で行われる。
人がいると巻き込まれる恐れがあるからだ。
今回、アベルが選んだのも人気のない森の中だった。
志願者は10名。自分が死ぬことも厭わず、国のために戦うことを決めた兵士たちだ。その精神的成熟度から18歳以下の志願者は排除された。一時の感情ではなく、本当に苦痛に耐え、死の危険に挑み、人間を辞めることを決意した人間だけが選ばれた。
「よーし。貴様らは選ばれた」
夜の帳が下りた深夜0時。
アベルは志願者たちを見渡していた。
アベルはローラの魔眼ほど万能ではないものの、3000年という年月の蓄積した経験から来る観察眼がある。この中で邪な感情から人狼になろうとしたり、他人に強制されてこの場にいるものがいれば見ただけ理解することが出来る。
それによれば。ここにそのような人間はいなかった。誰もが覚悟を決めている。僅かに漂う不安の臭いはこれからのことを考えれば当然のものだろう。
「貴様らはこれから人狼になる。人狼とは心の中に、魂の中に獣を有するものたちだ。貴様らはこれから獣のように野を駆け、獲物を仕留めるだろう。だが、それも一時の快楽だ。すぐに人間として獣を制御しなければならない」
人狼とは獣と人間の共生する姿である。獣は人間に力を貸し、人間は獣を制御する。そうやって人狼たちはその多大な力を社会のために活かしてきた。
もっとも獣としての快楽に溺れ、処分される人狼がいないわけではない。
内なる獣を如何に制御するかが人狼の道を決める。
「獣の制御方法はいろいろだ。強く家族のことを思い出して、自分が守らなければならないものを思い出す。強く国家のことを思い出して、自分が何のために人狼になったのかを思い返す。こんな獣より俺の方がよっぽど利口だということを強く思い、理性によって内なる獣を征服する。それぞれが最適だと思う方法で制御してくれ」
アベルには困ったことに獣を制御するという困難を乗り越えた経験がない。
彼は生まれながらにして、内なる獣を征服した人狼だった。よって人狼をどのように制御すればいいのかと言われても具体的なアドバイスはできない。自分がしたことのないことをどうやって他人に説明すればいいというのか。
だから、アベルはこれまでの人狼たちが内なる獣を制御した方法を並べて見せた。基本的に個人的な事象ほど内なる獣を制御しやすいものである。自分の子供、自分の配偶者、自分の両親、そして自分自身。そういうもののためにならば、人は内なる獣を制することが可能となる傾向がある。
あくまで傾向だ。個人個人によって差はあるので万人に当てはまるわけではない。
「それでは人狼化の儀式を開始する。まずは全員、これを吸え」
「これは?」
アベルが何かの粉末を10名の人物に配るのに疑問の声が上がった。
「鎮痛剤だ。人狼化の儀式には痛みが伴う。多少はましにしてくれるだろう」
アベルは薬学の知識はないが、ハイデマリー王女にはあった。
彼女の助言を受けてキノコの一種から精製したのが、この粉末だ。アベルも一応試してみたが、ある程度の鎮痛作用は認められた。だが、人狼化の儀式を乗り切るには頼りないものだ。人狼化の儀式の苦痛はこの程度の鎮痛剤で乗り切れるものではない。
それでもないよりはまし。それに苦痛を味わってこそ、その苦痛に見合った責任を背負うようになるのだ。苦痛は必要なものだ。
「では、志願者順に始めるぞ。並べ」
アベルはそう告げて志願者を一列に並ばせる。
「最初はすげー痛いぞ。死ぬかもしれないと思うだろうし、実際下手すると死ぬ。それでも覚悟はできてるんだな?」
アベルは志願者全員に最後の確認を行う。
「できてますっ!」
「やってやりますっす!」
志願者たちは自らを鼓舞するようにそう返す。
「なら、始めるぞ。内なる獣に囚われた奴も俺が殺すからな。やるぞ」
アベルはそう告げて、その鋭い犬歯を志願者の首に突き立てた。
それは一見すると吸血鬼が血を吸う光景に似ている。だが、人狼の場合は生命力を吸うのではなく、流し込んでいる。アベルの体内に流れる膨大な獣の血を流し込んでいるのだ。志願者は自分の体に未知の存在が流れ込む感触を味わう。
それから激痛が走る。
急激に流れ込んだ人狼のエネルギーが体を乗っ取るかのように変貌させ、筋肉が急速に膨張し、体毛が体中を覆い、その顔面の骨格が音を立てて変わっていく。
全てが終わった時には苦痛は消え失せ、獣としての気分の高ぶりだけが残る。人狼になったばかりの人狼は野を駆け巡り、自然の中で己の力を試し、そして内なる獣を制して、ようやく正真正銘の人狼と呼べるものに変化するのだ。
「次だ」
仲間の姿が変貌して野生の動物のように野を駆け巡るのに他の志願者はやや怯えたが、彼らも覚悟を決めてここまで来たのだ。今更引き返すなどありえない。
次の人間もアベルから力を授けられ、苦痛に苦しみながらも人狼としての姿となり、野生に帰ったかのように森の中を駆け巡る。
10名の人間が人狼化の処置を受けたが、その過程で死ぬものはいなかった。
そして、アベルは森の暗闇の中で人狼になったものたちが戻ってくるのを待つ。
彼らが内なる獣を制御できるかどうかを知っているものはいない。全ては本人の適性と後は運だ。彼らが野生に戻って森を駆け巡る中で、自分たちが果たさなければならない義務を思い出すことを望むばかりである。
もし、彼らが野生から戻ってこれなかったら、アベルが始末する。
全ての人狼の起源であるアベルから血を引き継いだ第二世代の人狼である彼らを野放しにはできない。彼らは人間にとっても脅威になる、ならば、殺さなければならない。人狼化した時点でそのことは理解しているはずだ。
「も、戻りました」
ひとり、志願者が戻ってきた。
口元は血塗れになってる。恐らく野生に帰って、野生動物を襲ったのだろう。血の臭いは人間のものではないし、人狼のものでもない。彼は己の中の内なる獣を制することに成功したわけである。立派な人間だ。
「よくやったな。合格だ。これでノルニルスタン王国はまたひとつ解放に向かったぞ」
「はいっ!」
最初に戻ってきた人狼の青年は中性的で、男らしくはないが、何も男らしいからと言って内なる獣を制御しやすいわけではない。統計では女性の方が我に返る確率が高く、人狼として成功するという数字も出ている。
マチズモである男性の方が力の誇示できる社会である野生の快楽に飲み込まれやすいともいえる。今回の志願者に女性はいなかったが、女性の志願者がいればまた違った結果を見ることが出来ることがあっただろう。
「貴様が最初の成功者だ。期待できるな。名前は?」
「フェリクス・ハインドカンプです。よろしくお願いします」
青年はフェリクスと名乗った。
顔立ちも中性的であれば、体つきも厳つくないが、精神力はあるのだろう。彼が最短で人狼化における内なる獣を制御したのだから。
「よろしくな、フェリクス。貴様には期待できそうだ」
「本当ですか!?」
「本当だ。だから──」
アベルが周囲を見渡し、耳を澄ませ、臭いを嗅ぐ。他の志願者たちがまだ野生の喜びの中にいる。獲物を仕留め、その肉の味を味わっている。
「夜が明けても戻ってこない連中がいたら、俺たちで殺すぞ」
アベルは親指の爪を噛んでそう告げた。
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開放感!
それが志願者たちの頭脳を支配していた。
この世の全てから解放されたような快楽。エンドルフィンが大量に分布され、快楽の中で彼らは森の中を駆け巡っていた。時に夜の中を生きる獲物を仕留め、加熱もせず、皮のまま食いちぎって腹の中に収める。
多幸感が志願者たちの頭脳を支配し、理性は失われる。
だが、待てよ。俺は何のために人狼になったのだ?
その疑問を抱いたものは幸運だ。
彼らは思い出す。自分が何故このような力を得ているのかを。その理由を。
家族のため、国家のため、自分自身のため。
それを思い出していけば、内なる獣に向き合える。野生の快楽をもっと味わおうと誘惑する内なる獣と対面し、それを制御することを試みることが出来る。内なる獣と苦痛を伴いながら必死になって戦い、野を駆ける快楽から逃れる。
そして、やがて人狼の姿から人間の姿に戻る。
それは内なる獣に勝利した証だ。正真正銘の人狼になった証だ。
彼らは人狼化すると同時に鋭敏な聴覚と嗅覚、そして触覚を手に入れる。
無事に人狼化の儀式を終えた人狼たちは自分たちの臭いを追って、アベルに人狼化の儀式を受けた場所まで戻ってくる。
「よくやったな。よく耐えた。よく乗り切った。貴様はこれで人狼だ」
アベルは戻ってきた人狼たちの手を握り、褒め称える。
アベルは人狼化の大変さを知っている。経験したことこそないものの、体験者たちからの声で、それが如何に苦痛なのかを知っている。
だから、アベルは褒める。努力したものは肯定されなければならない。それが次の成功に繋がる鍵なのであるからにして。
「9名。ひとり戻ってきてないな」
そこでアベルは志願者の数が合わないことに気づき始めた。
間もなく夜も開ける。そうなれば、もう野生の快楽からは戻ってこれない。つまりは、殺すしかないのである。
「フェリクス」
「はい。アベル殿」
「もしこのまま戻ってこない人間が出たら俺たちの仕事だ。だが、気をつけろ。人狼を狩るのは他の動物を狩るのとはわけが違う。相手は人間の知識を持った怪物だ。野放しに出来る相手でじゃない。命がけでやるぞ」
「はい!」
他の志願者たちは人狼化の儀式を終えてくたびれ果てている。動けるのはアベルとフェリクスだけだ。彼らだけが、野生に帰ってしまった人狼を屠れる。
「けど、大丈夫なんですか? 碌な援軍もなしに人狼の相手なんて」
「なーに言ってるんだ。ここには世界最強の勇者がいるんだぞ。第二世代の人狼程度軽くひねってやるよ。貴様はサポートに回れ。目標は俺が仕留める」
「了解です」
アベルが拳をならすのに、フェリクスも気合を入れた。
そして、夜が明けたが、最後の志願者は戻ってこない。
「やるしかないか。行くぞ、フェリクス」
「はい、アベル殿!」
アベルはフェリクスを連れて、森の中を駆けた。
帰ってきていない志願者の臭いは覚えている。森の中を臭いを追って追跡することは可能だ。アベルはフェリクスとともに臭いを追い、森の中を駆け巡る。
臭いの中に濃い血の臭いが混じる。
「随分とご機嫌だったみたいだな」
臭いの主の臭いが染み付いたのはクマの死体だった。内臓がえぐり取られ、ぽっかりと腹部に空洞の開いたクマの死体が森の中に転がっている。
「内なる獣を制御できていればいい人狼になっただろうに」
アベルはそう告げて森の中を再び駆け巡る。
帰ってこない志願者の臭いは濃くなっていく。距離は近い。
「近いぞ。分かるか?」
「分かります。近いですね」
臭いは移動しているが、アベルたちならば追いかけられる。
臭いの痕跡を追って、アベルたは森の中を駆ける。駆け続ける。
「……いたぞ」
アベルが静かに声を上げる。
人狼がいた。
今も獲物の鹿を貪る人狼の姿がそこにあった。
「フェリクス。貴様は支援に当たれ。万が一俺があいつを逃がしそうになった時には、逃がさないように足止めしておけ。まあ、そんなことにならないとは思うけどな」
アベルはそう告げると、風下から目標の人狼に迫る。
相手はまだ暢気に鹿を貪っている。それが食欲から来る行動なのか、それとも人狼の本能としての行動なのか分からない。生まれたばかりの人狼は血の味を求めるというが、このノルニルスタン王国では長年の食糧難もあった。どちらが本当の理由かなど知りようがない。結局は両方という可能性だってあるのだ。
「3カウントで仕掛けるぞ。相手は狩りに酔っている。食らいつく隙は十分だ」
アベルはそう告げると身を低く構えた。
3──目標の人狼は鹿の肉を貪っている。
2──内なる獣を制御できているようには見えない。
1──ただその本能が求めるままに狩りを行う人狼を生かしては置けない。
「いくぞっ!」
アベルが一瞬で加速する。フェリクスにはついていけない速度だ。
「!?」
ここでようやく目標の人狼は自分が狙われていることに気づいた。
だが、それは遅かった。
アベルの鋭い爪が目標の人狼の胸を裂き、目標の人狼が血飛沫を撒き散らす。
「貴様、よく聞け!」
アベルが目標の人狼に対して滔々と告げる。
「どうして人狼になったのかを忘れたか? 本当にその理由を忘れたか?」
アベルは問う。
人狼は低く唸る。それがアベルにやられた傷に痛むものなのか、それとも本当に自分が人狼になった理由を思い出そうとしているのかは分からない。
「本当に忘れちまったのか? 家族のことも何も思い出せないのか?」
今度の人狼の返答ははっきりしていた。
アベルの喉に向かって一直線に突撃する。
「忘れちまったのか。しゃーないな」
アベルは残念そうにそう告げると、次の瞬間、目標の人狼の喉から血飛沫が舞い散っていた。様子を見ていたフェリクスには全く分からないが、目標の人狼は姿勢を崩し、そのまま地面に倒れ込んでしまった。
「終わりだ」
アベルは少し悲しそうにそう告げた。
「戻るぞ、フェリクス。ハイデマリーにいきさつを説明しないとな」
「は、はいっ!」
目標の人狼は既に人狼化も解け、ただの人間として屍を晒している。
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