2.太郎と貴志
三十歳を目前にした雨の日、太郎は十七年振りにその男と会った。
「貴志……?」
太郎の呼び掛けに、男はすぐに気付いた。そして、自分の名を呼んだのが誰なのかにも。
「太郎か? 久し振りだな? いつ以来だ?」
貴志と呼ばれた男は、興奮して傘を揺らした。
「小学六年生の卒業式以来だから、17年と112日振りだ」
「なんてこった、時間に直すと15万1,608時間振りじゃないか」
「いや、閏年があるから、正しくは15万1,704時間振りだよ」
わっはっは、と二人は笑い合う。こんなやり取りが出てきたのも、ひとえに、これが太郎と貴志だったからに他ならない。
「今、時間あるかい?」
太郎の言葉に貴志が頷く。二人は公園に行くと、雨の波紋が途絶えぬ池を眺めた。
「懐かしいね、この池」と、太郎。
「ここから俺が時速4キロメートルで右周りに歩いて、お前が時速10キロで左周りに走ったっけ」
「再会したのは12分後だった」
「近くの八百屋で買い物もしたよな」
「僕が一個120円のりんごを三つ、70円のみかんを二つ買った」
「別の日に、俺が2割引きになったりんごを4つ、20円引きになったみかんを3つ買って、お前との差額を求めたっけ」
「僕だけ損した」
「いや、あれは文科省の奴らが」
「分かってる……分かってるよ」
切なく太郎は笑う。そんな彼を見て、貴志が溜息を吐いた。
「俺だって、本当は入荷したばかりのドラゴンフルーツが欲しかったんだ」
「え?」
「輸入物のドラゴンフルーツが食べたかった。でも文科省の奴ら、それだと単価が高くて、計算の桁が大きくなり過ぎるからって――教科書に適さないって……」
「貴志……」
「悪い……。そういえば、おじさん元気か? よくお前のこと追っ掛けてたお父さん」
「実は……十年前に、いなくなったんだ」
「えっ」
「そのちょっと前に、母さんが、不倫相手のいる群馬に行っちゃって……そしたら父さん、昔と同じように自転車でさ、追い掛けたんだ」
「それは……」
「計算上は、3日と3時間52分40秒で追い付くからって――」
太郎はやるせなく笑う。
「父さん笑ってた。『昔、空港で迷子になったお前が動く歩道に乗ってた時も、父さん動かない歩道を走って3分20秒後に追い付いただろ』って――。父さん、そういうやり方しか知らないから……ハハ」
空気を変えようとしたのか、貴志が別の話題を振る。
「お前、今何してる?」
「……コンビニで、レジ打ち」
「なんだ、お前もか」
「貴志も?」
「どこに面接受けに行ってもさ、ダメなんだよ。名前を言えばみんなニヤニヤする。『ああ、君があのたかしくん? 教科書の?』――ってさ」
「僕もだよ。計算ができます、って言っても、『表計算ソフトは使えますか』って聞かれて」
「誰も俺たちの計算式なんて必要としてない」
「バーコードを読めば合計金額が出ちゃうから」
「昔が嘘みたいだ。算数のたかしくん、って言えば、市の教育長が頭下げてきてさ」
「『君たちは教科書として、本市教育における多大な貢献をしました』でしょ? 小学校を卒業して教科書から出てきたばかりの頃はホント――」
「――大人はみんな嘘ばっかだ」
「貴志?」
「小学校の頃はさ、ゼロより小さい数字はありません、って――俺も教科書として頑なにそう信じてきたよ。でも、教科書の役目を終えてシャバに出て、いざ中学校に行けばどうだった?」
「……マイナスの概念があったね」
「そうさ! 普通にマイナス1だの、マイナス5分の1だのという数字が出てくる! それで俺は先生に聞いたさ! √の中にマイナスは入らないんですか、って」
「……先生は『ありません』って言ってたね」
「そうだ! そして高校に行ったらどうだ!? 普通に虚数なんてものが出てきやがった! おかげでクラスの奴らからは吊し上げだ! 『お前が算数の教科書で言ってたことと全然ちがうじゃねえか』ってな!」
「うん……」
「俺たちはただ文科省に教科書の人物として組み込まれただけだ! 勝手に! 何の了承も無く! おかげで俺たちの生活はボロボロだ!」
「無意味に忘れ物をして時速4メートルで家に取りに戻って、再び学校に行こうとしたら父さんが自転車を貸してくれて、途中まで行ったら母さんが車に乗せてくれたけど――」
「じゃあ最初から車出してくれよ! 時速50キロメートルの車を!」
「おかげで母さんノイローゼだ。『こんなことに何の意味があるの?』って、毎晩毎晩……。家を出て行っちゃったのも分かる気がする」
その時、雨音に混じってクゥン、クゥン、と鳴き声が聞こえた。
池の端の石から、スルスルと地面を這って出てきたのは、薄汚れた数字の羅列だ。蛇のように滑らかな動きだが、しかし、弱ってもいる。
「円周率? 君、円周率か?」
太郎の言葉に、数字が反応する。太郎の足にすり寄り、クゥン、と鳴いた。3.14159265……と無限に続きそうな数字が、まだまだ石の陰から続いてくる。
「十七年、ずっとこんなところにいたのか……」
「こいつも俺たちも被害者さ。中学になれば誰も3.14なんて使いはしない。πだπだってチヤホヤして……今まで使ってたのが用済みとなればこの有り様だ」
「ひどい……けど、もう終わったことなんだよ」
「終わっちゃいねえ!」
「貴志……」
「何も、何も終わってねえ! そうだろ!?」
太郎と貴志は目を合わせる。そして、二人の視線は霞が関へと向いた。視界に映るのは、文科省本拠地、中央合同庁舎第七号館。
「……君も来るかい?」
足元を見た太郎に、円周率はクゥンと鳴いた。
* * * * *
合同庁舎が二人の男と一匹の円周率に占拠されたのは、雨天の午後三時のことだった。
絶対的な速度感覚と時間感覚を持った二人の男は、精緻な奇襲と合流を繰り返し、ものの一時間で庁舎を手中に収めていた。
文科省の職員は皆、無限に続く円周率に縛られ、身体の自由を奪われている。そして、庁舎の周囲においては、数多の「外周上を秒速2メートルで動く点P」が監視を続けていた。
「あれは何ですか、アキ」
「ケン、あれはゲリラの占拠です。そして、私たちは彼らを知っています」
今日三十歳を迎えた女性アキ。隣にいるのは同い年の男性ケン。二人は、群れる野次馬と報道陣を遠巻きに眺めている。
「アキ、今テレビカメラに映ったのは、タローとタカシ――彼らはかつて僕たち中学英語の教科書を使っていました――ですか?」
「はい、そうです。私は教科書の中から、彼らの沈んだ顔をしばしば見ていました」
「彼らはかつて、小学校の算数の教科書でした」
「はい、そうです。私は彼らがこのようなことを起こした理由が、やや分かります」
「僕たちは英語の教科書の人物として組み込まれ、今でもこのような喋り方が治りません。きっと、これからも治らないでしょう」
「それは、私たちの最も悲しいことの一つです。それは、まともな職にありつけないからです。しかしながら、もしかしたら彼らは、私たちよりも悲しい人々なのかもしれません」
「アキ、あなたは彼らのところに行きたいのですか?」
「もしも私が『はい』と言ったら、あなたは私を軽蔑しますか?」
「おお、神よ! 悲しいことを言わないでください。僕は思います。常にあなたのパートナーでありたいと」
「オー、それは最も嬉しいことの一つです」
二人の男女が、雑踏の中に消えていった。