59話 緊急
――パティの妊娠発覚から1週間。
ニケルの生活は様変わりしていた。
朝は誰よりも早く起き、朝食後には組合に向かう。
難易度よりも期間の短い依頼を探し、その日の内に完了させる。時間があれば翌日の依頼に目を通し、準備に取り掛かる。
夕方になればギルドに戻ってパトリシアの身の回りの世話を焼いた。
シェフリアには前倒しでギルドに来るように催促し、ウィブにはバランスの良い食事をパトリシアに提供してもらう。
ニケルはこの二人にパトリシアを任せれば安心だと自分自身に言い聞かせ、今日も朝早くから組合へと向かって行った。
そして今、蜥蜴の尻尾では緊急会議が行われていた……。
「で、どうするのよ? このままじゃマズイでしょ?」
「まさかこれほど変わるとは思いもしなかったからな」
議題はニケルの変貌ぶりであった。
ニケルを除く蜥蜴の尻尾の全員が頭を悩ませているのだ。
「流石に自分も辛いっすよ」
「パティはいいじゃない、役得でしょ? って言ってもあれじゃねぇ」
「師匠、やっぱり正直に言った方がいいんじゃないでしょうか?」
税金の問題が発覚した数日後、グランツによりニケルを除くメンバーが集められた。
「ニケルにはもう少し、しっかりしてもらわなければならない」と始まった会議。
様々な意見が飛び交う中、カルの発案により一芝居が打たれる事が決定した。
パトリシアの妊娠騒動。
その一件はニケルを発奮させる為に全員で仕組んだもの。
魔族が吸い取った精気で妊娠するという文献は存在しないし、そもそもパトリシアは妊娠などしていない。
実際に行動に移すと明らかにおかしな点が出たりしたのだが、ニケルは失踪事件で冷静な判断を失い、パトリシアの見事な妊婦役もあって、まるで疑われなかった。
「パトちゃんが本当にニケル君と子供を作ればいいんだよ。今迫ればコロリと落ちるよ」
「はぅぅぅ」
「それ却下」
パトリシアは俯き耳まで真っ赤になり、ティルテュは怒りの形相をカルに向ける。
妊婦役に立候補したのはティルテュだった。だが、する事をしなければ子供は出来るはずもない。
そこでなんとか辻褄を合わせられるパトリシアに、渋々役を譲ったのだ。
太古の太陽や白金の狼には、グランツ、ウィブがそれぞれ協力を要請していた。
何も知らないのはニケルただ一人。
「いつかはニケルさんも気付くでしょ? もう少し経ってから残念ながら流れたって言ってはどうでしょう?」
「シェフリアの案は私も思ったけど、相当上手くやらないと廃人になり兼ねない勢いよ」
もはや冗談が通じる状況ではない。
誰もがここまでニケルが親としての自覚に目覚めると想像出来なかったのだ。
当初の予定ではしばらく時が過ぎた頃に真実を教える筈だった。
依頼に行く癖や、物事を客観的に把握するようになれば「遅かれ早かれこういう事も起きるんだ。今のうちから慣れる事も大事だぞ」と言い、ボヤくであろうニケルを交えて宴会でもすればいいだろうと、甘い考えを持っていたのだ。
実際、今までのニケルであれば「マジかよ!? あぁぁぁー、騙された!」程度で済んでいた筈だ。
しかし現状、安易に芝居だとバラせば、良くて一人で旅に出る、悪ければまさしく生ける屍状態になりかねない。
「カル、あなたの案でしょ? 何かいい方法は無いの?」
「うーん。確か記憶を無くす薬が魔術士ギルドにあったはずだよ。怪しい薬だから、失敗したら廃人直行だけど」
「聞いた私が馬鹿だったわ。グランツは何かない?」
「そうだな……。やはり正直に話すしか無いだろうな。赤ん坊が流れたと言えばいつまでも引きずる事になる。問題はタイミングだな」
皆が思案していると外から鼻歌とは思えないボリュームで、音程のズレた歌が聞こえてくる。
「やばっ、ニケル帰って来たわよ!」
「えっ、ニケルさんって難易度Bの依頼に一人で行ってたんでしょ? まだ昼過ぎですよ? 早すぎます」
「愛だねぇ」
「と、ともかくまた会議を開く。パトリシアはすぐに自分の部屋に戻れ。俺とウィブは調理場で後片付けだ」
全員が一斉に持ち場へと急ぐと「ただいま!」と上機嫌なニケルが入って来た。
「あ、あら、ニケル早かったのね。もう依頼は終わったの?」
「もう最近さ、力がみなぎっちゃって。やっぱり守るべき存在ってのはいるのは違うね。パティは部屋かな?」
ティルテュはパトリシアが部屋に戻ったのを確認してから「そうだと思うわ」と焦りながら返事をする。
良く見ればニケルの手に持つ袋には、赤ん坊の衣料が詰め込まれていた。
いくらなんでも早すぎだと、ティルテュは頭が痛くなるのを感じていた。
「ちょっとパティの顔見てから組合行ってくるよ」
「え、えぇ、あんまり無理しちゃダメよ」
ニケルの機嫌の良さに反比例して沈み込むギルド員達。
だが彼等はまだ妊娠騒動が霞む程の厄災が近づいている事を知る由も無かった……。
―――――――――――
国境警備隊駐屯地。
一人の警備兵が傷を負い、息を切らせながら駐屯地に辿り着くと、見張りの警備兵は異変を察知してすぐさま駆け寄った。
「――おい、どうした? 傷だらけじゃないか! 何があったんだ?」
「はぁ、はぁ、と、統括はどちらに?」
顔面蒼白の警備兵の腹には目を背けたくなる程の深い傷があり、いつこと切れてもおかしくない状態だった。
「誰か! 救護班に連絡、回復薬も持ってこい! ファミス統括への連絡も急げ!」
殺伐とした空気が流れ、慌ただしく警備兵達が動き回る。
ファミスが姿を現すと、生き絶えんとする警備兵は最後の力を振り絞る。
「はぁ、はぁ、と、統括。緊急事態です」
「喋るな、今救護班が到着する。先ずは傷を癒せ」
だが警備兵は言葉を発する事をやめない。
いくら回復薬や回復魔法があるとはいえ、自分の死期を悟っていた。
だが死ぬ前にすべき事が残っている。
その思いだけで命を繋いでいたのだ。
「はぁ、こ、ここより、西の国境に魔物の群れ多数。はぁ、はぁ、その中にお、古代の巨人らしき巨大な、はぁ、す、姿あり。な、南東に向かって、お、り……」
そこまで話すと糸の切れた操り人形のように、体から力が抜け動きを止めた。
「……報告確かに受け取った」
ファミスは目を見開いたままの警備兵の瞼を閉ざすと、ゆっくりと立ち上がる。
「今すぐ動ける者を集めろ! すぐに隊を組んで西の国境へと赴く。伝達兵は近くの街に早馬をひけ!」
古代の巨人……。
古い文献によれば一国を壊滅させた巨大兵器。
国家を揺るがす脅威がその牙を剥こうとしていた。




