希望とは人間が努力をやめないことである。
儲からないとか、うまくいかないとか、失敗したとか、そういうことではなくて、生きていけないんじゃないかとか、死ぬしかないんじゃないかとか、どうして生まれてしまったのかとか、そういった悲しみを抱く人が、生きていれば何かいいことあるんじゃないかと希望が抱けるような世の中であってほしい。
そういう世の中をつくるにはどうしたらいいのか、今はよくわからない。
ただ一つ言えることがある。
問題発言があったから撤回しようとか、ヒアリが危険だからゾンビバエを放とうとか、病気だから投薬しようとか、そういうことでは根本的な解決にはならないと思う。
今は恐ろしいほど情報が溢れていて、過去とは比べ物にならないほど時代の変化が速く、その変化を予測するのも難しい。
よって50年後、100年後はどうなるかということは考えにくく、必然的に半年後、1年後、3年後はどうかというように、比較的短い期間で時代の変化を考察せざるを得ない。
だからこそこのような対症療法的解決策が多く講じられている。
しかしこの解決法には問題があって、対症療法の副作用ですら対症療法によって治療しているのが現状ということだ。
物事の因果関係を数年単位で捉えている以上、その期間よりも副作用の発症が遅い場合、その治療はどうしたって対症療法に拠らざるを得ない。(これには人間の能力的限界もある。)
こうして治療による副作用を治療し続けるという構図について考えると、もっと長い目、広い視野で物事の関係性を把握しようとする努力が必要だということがわかってくる。
ではそういった努力をしよう。そう思った途端に別の問題が生じてくる。
今日の生活はどうしよう。
明日はどうしよう。
考える前に働いて金を稼がねば。
そもそも人間せいぜい100年、考える間に死んでしまう。
問題発言もヒアリも病気もほったらかしにするわけにはいかない、とりあえず今できることを何かしておこうということになる。
(これはこれでいいと思うし、これが生活というもの。これを批判することが主意ではない。)
それに先述のように、今や情報は手に負えないほど横溢し、氾濫し、侵食している。
もはや人間の精神、人格が科学に先んじることは不可能だ、という構造的な問題。
AIにせよ、兵器にせよ、スマホにせよ、技術の進歩は著しく、それらについて逐一議論し、広く深く理解を進めることは原理的に無理がある。
その上やはり新しく便利なものは魅惑的だ。
だから難しい議論は追々交わしていくとして、とりあえず今は実用していこうということになっている。
この"とりあえず"という考えが非常に危うく、しかもこれが今の常識であり、これまでも常識であった。
だから、0か100か、理想か現実かというように白黒つけられないということは承知の上で、"常識的に生活している以上、その常識の為に視野が霞んで、問題の糸口すら見えてこないのではないか"と思う。
これは常識に逆らうべきだという主張ではなくて、常識の為に失ってはいけないものを失うべきではないということ。
もしその失ってはいけないものが常識の犠牲になることが分かっているか、もしくははっきりとは分からないけど犠牲になるかもしれないというのなら、むしろ常識を葬るべきだ。
常識を科学としても同様で、科学が未知数であり、統制が困難であるならば、ただ使わなければ良い。
それだけだと思う。
他人にこの考えを押し付けるわけではなくて、あくまで自分は、そうするのがよいのではと思っている。
そして既に常識の犠牲となり生活に埋もれている、本来失うべきではない何か。
これを考え、通常の感覚として取り戻すことが、今とても大事なことなのではないかと思う。
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