8話 永い時を隔て、繋がりはここに至る
巫女はついに知る。少年とのつながりに。
それから俺は朝九時になると神社へ行き、巫女さんと一緒に修行をすることになる。
巫女さんが向ける銅鏡に向かい俺の姿を映し、神通力の本質を知りたいと願い、祈り続ける。
目を閉じると、また金屏風の光景から始まり、巫女さんたちの事を見続ける。修行をするたびにいろいろなものが見えるが、そのほとんどは巫女さんを中心に起きた出来事ばかりだった。古い都で起きた騒動がやがて大きな飢饉をもたらし、太陽が無くなると、妖怪たちがそこら中に歩き回る。そして最後には巫女さんが2年前の夏まで孤独に久我守神社で寂しそうにしている光景。
それを見続けるのは正直辛いと思うこともあったけど、こうして修行して巫女さんと一緒に過ごす時間は心地がいいとも思う。
今までの夏休みだったら絶対にありえない巫女さんとの日々。いつのまにか、親友とお遊ぶことと同じぐらいに巫女さんと一緒にいる。
修行が終わればすぐには帰らず、巫女さんの好きなように撫でられながら、巫女さんからいろいろなことを教わる日々。
「そういや巫女さん。俺が祈ってる時なんて言ってるの?」
「ん?祝詞のこと?」
「のりと?なにそれ」
「正式には伊勢内宮神前祝詞って言ってね、伊勢神宮でお祈りする時に神様に聞いてもらうための言葉なんだよ」
「ふーん……ってなんで伊勢神宮なんだ?ここ久我守神社だろ?」
「私の姉様が伊勢神宮ににいるからかな」
「あ、そういやちょっと前にも言ってたけど巫女さんお姉さんいるのか」
「うん」
「巫女さんのお姉さんも巫女さん?」
「うーん。まぁそこにいるっていうか、まぁでも神子さん…かなぁ?」
「なにそれ」
お昼前には終わる修行、家で用意されるお昼ご飯の時間ぎりぎりまで巫女さんと話し続ける。それはまるで巫女さんが数百年の間一人きりだったその寂しさを埋めてあげているようなものだった。
俺がと巫女さんが出会ってたった数日、修行の後のたった数時間。それが何百と巡りまわった季節を一人で過ごした巫女さんの寂しさ全てを俺が埋めてあげることはできないかもしれない。
それでも、今こうして巫女さんと一緒にいてあげられるのが俺だけだから。ほんの少しでも一緒にいてあげたいと俺は思う。
「巫女さん祝詞っての教えて」
「祝詞はね、えっとこうやって字を書くんだよ」
「神風の伊勢国 拆鈴…ってすげぇ漢字多いなこれ!」
「えっと、紙に書いて持ってく?」
「持って帰って覚える」
神風の伊勢国 拆鈴五十鈴原の 底津石根に 大宮柱太敷立
高天原に 比木高知て鎮座坐 掛巻も綾に尊き天照皇大御神
亦の御称は撞賢木厳之御魂天疏向津比売之命
亦の御称は天照大日霊之命の 大朝廷を祝斎て 云巻も畏加礼と
天津日嗣知食皇命の大御代を 常磐に堅磐に護り奉給ひ
現き青人草をも恵み幸へ給へる 広く厚き御恩頼に報ひ奉ると
称辞竟奉りて拝み奉る状を 平けく安けく聞食と恐み恐み白す
「これマジ?なんか凄まじく難しくね?」
「そうかな?」
「まぁいいや。夏休みの間には覚えてやる」
「がんばって!」
「がんばるぜ!」
巫女さんとの日々、それは俺にとってはとても短くあっという間だった。
今までの夏休みとは比べ物にならないくらい充実していた。
自分の神通力の事を知れば知るほど、巫女さんと自分のつながりがよくわかっていく。
巫女さんと話をすればするほど、巫女さんへの想いも強くなっていく。
俺の中ではとても幸せな時間だ。
神様へ神通力の事について祈る傍らで、俺はもう一つ心のにある気持ちを願う。
修行の後に神社の縁側で二人並ぶこの光景が、いつまでも続いてほしいと。
そして、俺の神通力の本質を知るべく続けてきた修行も、十日目。
俺はその朝、あの夢の続きを見る。
――――火渡、火渡はどこじゃ!
――――紅月が、巫女さ…ま…纏。私は、ここに
――――あぁ、火渡!火渡薙枯!
――――ご無事で…ござい……ました…か
――――酷い怪我じゃ!傷が癒えぬ!辰の神の加護はどこぞに!
――――藤原が……謀反を
――――もうよい、もうなにも申すな!誰ぞ!誰ぞ居らぬか!
――――私は、もう助かりませぬ。
――――どうしてじゃ!辰の神!炎魔!返事をせぬか!
――――すでにこの身より、炎魔は居りませぬ。
――――……子が生まれたのか
――――私は、ここ、までの……ようです
――――あぁ、血が、血が止まらぬ。どうすれば、死ぬな!死んでくれるな!
――――纏、私の子を……辰の神は子の中に……どう…か、お守り……くださ
――――頼む!久我守が主よ!我、紅月が巫女が身命を賭して願い奉る!
「―――っが!あっぐぅ!」
自室で目を覚ました俺の胸に激しい痛みがあった。
思わず声を漏らしてベッドの上で寝たままうずくまり、膨れ上がるように胸が苦しくなる。
この痛み、この苦しみは夢の中の自分と重なるようでもあった。
あぁ、とんでもなく酷い夢だ。俺が死ぬ夢だ。
燃え盛る屋敷の中、心臓に突き刺さった刀に倒れ、そのまま体は焼け死んでいく。
そして何よりも体を貫くその衝動は、夢の中の俺が特別な感情を抱いていた女性、紅月纏との永遠の別れによる想い。
長くそばにいられなかった。守ることができなかった。使命を果たすことができなかった。そんな気持ちが夢を見た俺の体を貫いていた。この痛さは体じゃない。心が痛がっている。
「この痛みは、なんで?あ……う、うぅ、なんだ…これ」
しばらくするとその痛みはすっと引いた。が、代わりに体が異常な熱をもって襲った。
視界が薄れる、呼吸に熱がこもり、肺の中の酸素がどんどん失われていく感覚。
熱を持った体は凄まじくだるさを持ち、以上な発汗で水分が抜けていく。何より胸にあった内側からの圧迫感が膨れ上がっている。今にも爆ぜてしまいそうなくらいだ。
体調不良のそれじゃないのは明らかだ。それが俺の中にある神通力のせいであることは胸の異常な熱さが証明している。
「寝てりゃ落ち着くとか……そういうんじゃなさそうだよなぁ」
荒い息に混じる熱には覚えがある。そういえばいつかこんな衝動を感じたことがあった。
ふと思い出すのは巫女さんに再会するその直前の記憶。
そう、よくわからない不審者に襲われる直前だ。
お守りの力が完全に途切れた時、まるで熱にうなされるように悶え苦しんだ。
あぁなるほど……そうか、そういうことか。お守りの効力、巫女さんの加護が切れてしまっているのか。
毎日加護をもらっていたはずなのに、もう、1日も保っていられないのか。
「あぁ、嘘だろ。こんなに早いとか聞いて、ぐっ!……ないんだけど」
自分の神通力の成長速度が速いという認識はしていた。巫女さんにもそう言われた。
神通力の成長によっていずれ俺は限界を迎えるだろうと心の中で思っていたし、それは正しかった……ただ、その成長速度だけは俺も巫女さんも読めなかった。
自分の体に収まりきらなくなった神通力がまるで入れ物を壊さんとばかりに溢れる。胸の圧迫感はそのせいか。だとするなら、このままベッドに寝てたんじゃ俺自身の体が持たない。まずい。
甘かった。2年の間に急成長していたから、心のどこかではあと1年くらいは大丈夫だろうとなんの根拠もない事を頭の中で考えていた。
甘かった。巫女さんがいるから絶対に大丈夫だろうという慢心が引き起こした。
くっそ。このまま俺はどうにかなっちまうのか?
胸を押さえ苦しさに目を閉じて――――そこに巫女さんの寂しげなその姿が浮かぶ。
あぁまだだ。まだ、どうにかなっちまうわけにはいかない。
「……動け、俺。体は動くだろうがよ」
ぎゅっと手を握り締めた。力が入ることさえ確認できればあとは根性だ。
意識を起こすと、まだ体が動くことがわかる。このくらいならまだいける。
ベッドに縫い付けられたように重く感じる体を全力で起こすと、ぐらりと揺れる視界に気持ち悪さを覚えた。が、トイレへ嘔吐しに行ってる時間すら惜しい。
巫女さんを探したときの体調不良に比べれば軽い方だ。絶対にたどり着けると自分に言い聞かせ、ベッドから降りる。立てるし歩ける。巫女さんの神社までは行ける。汗に濡れた服そのままで壁に手をつきながら自らを嘲りつぶやく。
「へ、夢の話を言ってなかったのが災いしたかなぁ。いや丁度いい機会と思うべきか」
奇しくも今日は修行の最後の日。
今日、修行をすれば俺の体にある神通力の本質がわかるのなら、俺の中の神通力がどうして凄まじい速度で膨れ上がっているのかもわかるはずだ。俺が今まで見てきた光景と巫女さんとのつながり、その過去も全部わかるはずだ。つまり、自らの中にあるコイツと向き合う時が来た。この体にある熱は、そういうことを言っているように思えた。
頬を伝う冷や汗を一つ拭うと、朦朧としかける意識の中、机の上にあるビー玉をその下にあった紙と一緒に握り込んでポケットに突っ込み、日の出前にも関わらず神社へと足を向けた。
2階にある自室から階段を下りるだけで辛い。あぁ、こんな体調で外に出ようものなら家族総出で止められるだろうけど今は日の出前の早い時間。幸いなことに家族は誰一人起きていない。
そういえば巫女さんには太陽が昇ってからと言われたが、そこまでじっとしていると俺の体がどうなっちまうか。仕方ないよな。巫女さんとの約束を一つ破ることに罪悪感を感じたがそれはもう謝ろう。怒られたって構うもんか。今はできるだけ早く神社へと急ぐ。
歩くたびに流れ落ちる汗は夏の汗ではない。死を間近に感じる冷や汗。血の気は引いているはずなのに、燃えるように体が熱い。日が昇るまでベッドの上で我慢してなくてよかった。今ならそう思う。
空が青さを広げていき、太陽が僅かに顔を出す頃、俺はなんとか神社の手前、石段の下に辿りついた。
まだ、まだだ。まだ安心できない。
意識を失わないように心の中で気合を入れ石段をゆっくりと昇る。
何度か立ち止まって上を見上げるたびに、そこに巫女さんが待っていると思うと歯を食いしばって足を進める。
そして朝日が差し込む境内にたどり着くと、社の前に巫女さんが座っていた。
早すぎる俺の到着に巫女さんは立ち上がり、驚きの表情を見せる。
「え?君……お、おはよう?」
「よ、よぉ。巫女さん」
「今日はすごく早いねって、すごい汗だけど、走ってき」
「巫女さん…俺の、胸が」
「胸?」
「熱い」
俺の言葉を聞いた巫女さんの表情が一変する。そしてすぐに社の扉を開けた。
俺の体に起こっている異常事態を詳しく説明する必要もなく、すぐにでも対処が必要だと判断したからだろう。
ふらつく足取りの俺を支えながら、巫女さんと一緒に社の中へと踏み込む。
胸の中で膨らみ続けるこの熱は、神社にたどり着いても収まる気配を見せない。
それどころか、神社についてからさらに膨らみ続けているようにも思える。
「すぐに力を抑えよう。君も限界だからすぐにっ」
「ごめ…ん、日が昇る前に、来ちゃっ―――」
まずは謝らないと。言葉を出してみたがそんな余力が残ってはいなかった。
言葉のすべてを言い終える前に視界が滲み平衡感覚が無くなる。一瞬だけ強く胸の圧迫を感じたかと思うと体の力が抜けてしまい、ぐらりと回る視界で極度の気持ち悪さに耐えきれず、俺はバランスを崩した。
あ、と声を出すが、力は入らない。
いっそ床に倒れたほうが楽かなと思ったが、俺の体が床を叩くことはなかった。
「よく、がんばったね」
倒れる俺を巫女さんは抱きしめそのまま二人で座り込む。
もう力は入らない。俺は巫女さんの体に体を預けるしかできない状態だった。自分の荒い息がうるさく感じるほどだ。そんな俺をぐっと、強く抱きしめてくれる巫女さん。
それはいつも修行の終わりに抱きしめてくれているよりもずっと強くて、俺のどうにかなりそうな体を、全力で元に戻そうとしてくれている。そこにあるのは、俺の危機感をほぐす巫女さんの優しさだった。
二人会話することなくしばらく同じ体勢でいると、胸の熱さがゆっくりと引いていく。
圧迫感が収まって体の怠さも呼吸も整い始めた。神通力が抑えられていると実感し、体調は嘘のように戻っていく。
俺は危なかった。と、心の中で安堵した。そんな俺の背中を優しく巫女さんが叩き、静かに言葉を口にする。
「もう、私の加護ですら1日も持たないなんて」
「巫女さんの加護でも、か」
「うん」
「俺の神通力、どうなってんだろうな」
「すごい速度で成長してる」
「……もしもこのまま成長していったらどうなっちまう?」
「はっきり、言うね?」
「おう」
「君の神通力が火であるなら、体の中に納まりきらなくなったそれは、君が君たる全てを焼き尽くす。灰も、骨も、一切残さない浄化の炎に焼かれて魂ごと消え去る」
「魂ごと焼き消える?」
「そう。魂も神の元へ行くことはなく、この世界から完全に消失する。魂は世という概念につながれているのだけど、それすらなくなってしまえば君がいた痕跡すらなくなる」
「痕跡?」
「君がいたという記憶、君が遺してきた全ての焼失。それは"最初からいなかった"ということに全て置き換えられてしまう。死よりも恐ろしい存在の欠落。本当はお守りを渡したときに全部解決するはずだった。そうじゃなくても私が加護を与え続ければ、こんなことには絶対にならなかった。でも……そうならなかった。君の神通力の成長速度は"私から見て異常"だ」
「巫女さんから見て、異常か」
「―――本来」
「本来?」
「本来、神様が人に力を与えるとき、分相応の力だけを授けるの。その人が神様に願った分の力だけ。でも君はそんなことを願ってもいないし、君に与えた神様もわからない。私にはどうして君が神通力を持っているのかがわからない。私にもっと力があれば君の神通力を抑える、ううん、これが自分の神通力だったら私は君を苦しめることなんかないのに……私は、また、助けられないのは嫌だ」
俺を抱く巫女さんの手が、ぎゅっと強く俺の服を握った。
巫女さんの表情は抱きしめられててわからないけど、その言葉から、服を握る手の強さから、どうして、なぜと自分を責めていることが分かった。
自分の力の無さを嘆く気持ちは俺もよく知っている。今は巫女さんの気持ちがわかる。
自分の神通力であれば……か。
俺は目を閉じた。
そして自分が今まで見てきた光景を一気に思い返す。
巫女さんの古い時代の過去、神通力を授かった火渡薙枯と言う男。そして今まで巫女さんがずっと一人だった久我守神社の光景。
巫女さんは言った。神通力の本質は修行をすることでわかると。
――――その時が来たのだ
どこからか聞こえてきたその声に、俺は従う。
「巫女さん、修行を続けよう」
「でも、今は君の神通力を抑えることだけに集中しないと」
「続けて欲しいんだ。今日で俺の神通力の本質……神通力がどこから来たのか、巫女さんにわかるようになるんだろう?」
「そうだけど……」
「なら知ってほしいんだ。俺の神通力が何かを。俺が今まで見てきた光景と一緒に」
「君が見てきた光景、それは神通力の本質にかかわることだよね?」
「そして、巫女さんにかかわることだ」
「私に―――?」
巫女さんの加護によって神通力を抑えた俺の体はもう力が入る状態になっている。
一つ息を吐くと、ゆっくり俺は巫女さんから体を離した。
不思議そうに俺を見る巫女さんに向かい、俺が知るその事実を言葉にする。
「俺の神通力はたぶん、巫女さんと無関係じゃない」
巫女さんは驚く。
今の今まで、巫女さんは俺の中にある神通力は、ほかの神様のものだと思っていたのだから驚くのも無理はない。
巫女さんに俺の名前を伝えられていれば。
巫女さんに俺が見た夢の話ができていれば。
巫女さんに修行で見た巫女さんの過去を話していれば。
俺の神通力と巫女さんのつながりを巫女さんがどこかで気が付いたのかもしれない。
今となってはもっと前に、いや修行をするときにでも、一回目の修行が終わったときでも話をすべきだったなと思うけど、それでもまだ手遅れにはなってないのなら、このタイミングは、絶対に逃すべきじゃない。
目を閉じればわかる。
この体に収まり切れず暴れまわっている神通力。今にも俺の体を焼き尽くそうとする。
巫女さんがこうして抑えてくれているけど、もう、もたないのは俺にもわかる。
信仰を薄れさせてしまった巫女さんでは、"巫女さんの神通力"が抑えきれないのだ。
……そういえば、夢の中で火渡薙枯と会話してたな。話、できるんだったよな?お前。
お前と向き合うのが遅かったかな。俺。
「……私が君の神通力の本質を見れば、その、君の言おうとしていることがわかるんだよね?」
「そのはずだ。でも、俺が言っていることが思った通りだったら、巫女さんには辛いことかもしれないけど」
「うん……うん、わかった」
巫女さんは目を閉じて、俺の言葉をまっすぐに受けてくれた。
それから、後ろに置いてあった銅鏡を手に取ると、今までと同じように俺の前に座り、俺の姿を銅鏡に映し出した。そこにはすでに、俺の胸で揺らめく赤い何かが映っている。
「火が映ってるのか」
「顕現してきてるね」
「けんげん?あ、いや、意味はなんとなく分かるからいい。時間もなさそうだしやろう巫女さん。俺はまた祈ればいい?」
「うん。君が今まで銅鏡に映してきた神通力。その本質を改めて私が確認する。君の神通力を私が抑えながらになるから、もしかしたら苦しくなるかもしれない」
「それくらい耐えて見せるさ」
「君に異変があったら、私はすぐに止めるよ」
「それで構わないから」
「……うん、わかった。では弐拝、弐拍手、壱拝し、祈りを」
社に響く柏手の音で心に落ち着きを宿す。俺は息を吐き目を閉じた。
今は神様に神通力の本質を願うと同時に、俺が見てきたすべてが巫女さんに届くようにも祈る。
相変わらず、目を閉じた時には真っ暗な光景だけど、それはいつものように現れる歴史の一端を描く金屏風の絵巻物。色鮮やかに描かれ、流れゆくその風景、修行の中で何度も一人で見てきた変わらないもの、今日は俺の横に巫女さんがいた。
横目で見た巫女さんは、ただ黙って流れゆく風景を見つめる。
巫女さんにもこの光景が見えていることを確認し、俺ももう一度この光景を見つめなおした。
かむかぜのいせのくに さくすずいすずのはらの
そこついわねに おおみやばしらふとしきたて たかまのはらに
ひぎたかしりて しずまりまします
かけまくも あやにとうとき あまてらすすめおおみかみ
またのみなは つきさかきいずのみたまあまかざるむかつびめのみこと
またのみなは あまてらすおおひるめのみことの――――
ふと、声が震えて聞こえる。
自身の過去、それも相当つらいその過去をもう一度見ることになるんだ、辛くないはずがない。そしてこれから受け入れるその事実を思えば、もっと辛くなるだろう。
巫女さんの歌うような声が止まりかけると、そこからの続きは俺が読むことにした。
祝詞はもう紙が無くたって言えるほどに覚えている。
おおみかどを いわいまつりて いわまくもかしこれど
あまつひつぎしろしめすすめらみことの おおみよを
ときわにかきわに まもりたてまつりたまい
うつしきあおひとぐさをも めぐみさきわへたまへる
ひろくあつきみめぐみに むくいたてまつると
たたえごとおえまつりて おろがみたてまつるさまを
たいらけくやすらけく きこしめせと かしこみかしこみまおす
俺が見てきた光景の最後、あの2年前の夏の日がゆっくりと消え、暗闇へと戻る。
鈴の音がしゃん――――と鳴ると、俺と巫女さんの目はゆっくりと開いた。
修行の終わり。自身の神通力の本質を知る。
俺の持っているこの神通力がどの神様から与えられ、そしてどんな力を持っているのかを夢で、修行で見る。そこで俺はずっと巫女さんの過去を見た。この修行は、神通力の本質を知ると同時に、つながりを知るものだったんだ。巫女さんに俺とのつながりがわかったかどうかは、頬を流れる涙を見ればわかる。
「そう、だったんだ……君はつまり、彼の、薙枯の血を引いているんだ」
「そうらしいな」
「そして君が持つその神通力は、私が薙枯に与えたもの」
「そう。俺の中にあるこいつは、巫女さんの神通力だ」
もう銅鏡に映し出された神通力を見る必要もなかった。
俺の中にある巫女さんの神通力は、銅鏡の中で大きく揺らめき、その形を龍のように暴れさせている。
長い長い時を得て巫女さんの元を離れていた神通力は今、俺の中にあった。
「そう、そうだったんだね……君が私と出会えたのは。でも、それはっ……君を苦しめているのは私のっ……」
巫女さんは、声を震わせながら涙を流す。
人との関わりが絶たれてしまい、数百年の間会話も触れることも、見ることすらもできなかった巫女さんを俺が見つけることができたのは、この神通力のおかげだった。
でも、巫女さんに会えたことが神通力のおかげであるなら、今まさに俺の存在を焼き尽くそうとしているのも、神通力のせいである。
もしも、俺がこの神通力を持っていなかったら。
もしも、俺が火渡薙枯の子孫でなければ。
俺は巫女さんに会うこともなく、命の危険にもさらされず、何も知らずに過ごすことができたはずだ。
巫女さんが声を震わせ止まることのない涙、それは自分を責める気持ちの表れ。
出会ってから初めて表に現れた巫女さんの深い悲しみ。震えた声が、震える手が、流れた涙が気持ちを伝える。
「な、なんで、なんで気が付かなかったんだろう。私はずっと、彼を見てきのにっ、君を見てきたのにっ。だって、君は……彼の、薙枯の面影だってあるのに。私はずっと気付かなかったっ。ごめんなさい……ごめんなさい」
がらんと、落ちる銅鏡。
巫女さんは手で顔を覆い、自責し、大粒の涙と共に悲しみに泣く。
もう声すらも出せずに泣く巫女さんを見てはいられず、思わずその頭を抱き寄せる。
小学生の小さな体では巫女さんがしてくれたように落ち着かせることはできないかもしれないけど、それでもなにもしないわけにはいかない。
巫女さんは腕の中で、泣き続け、俺はただそれを聞き続けるしかなかった。
でも、どんなに悲しくて、どんなにつらい出来事だったとしても、俺の中が持っている真実を伝えなきゃいけなかった。
一歩、辛いことに向き合うことでその先に進めると信じているから。
その先で、巫女さんと笑い合えると信じているから。
「もう、君を苦しめたくはない」
そう巫女さんがつぶやいたのは、涙を流してしばらくしてからだった。
だいぶ泣いたのか俺の服は巫女さんの涙で濡れている。巫女さんの顔も泣いた跡がくっきりと残っている。
でも、巫女さんのその表情には一つの決意の様なものが現れているような気がした。
「俺はどうすればいい?」
「方法はもう、一つしかない」
「ここにきて一つでもありゃ十分。その方法は?」
「君の中にいる神通力を表に出し、無理やりにでも抑え込む」
「それってさ、もしかしてだけど」
「君のご先祖様である火渡薙枯がかつて私の神通力を抑え込んだ方法」
「やっぱりか。そうなるよな」
「私の力だけじゃ、もう」
「わかってる。でもやらなきゃいけないならやるしかねぇな」
「彼、火渡薙枯の才覚は人のそれを遥かに超えていた」
「人の才覚を?いわゆる天才って奴か?」
「おそらくそんな言葉では彼は収まらない。一歩間違えば神の領域に踏み込みかねないほどの才覚。私が神通力を授けた時、彼は既に十二の神通力を持っていた」
「全部で十三の神通力を持ってたってことになるのか」
「膨れ上がった私の神通力を抑えるには」
「それ同等の力が必要ってことか」
かつて遥か昔にいた俺のご先祖様、火渡薙枯。
人の世を襲った飢饉と悪鬼羅刹に対抗するため、そして愛する紅月纏を守るために自身の体に多数の神通力を宿し戦い抜いた。十三というおそらく人ではありえない数の神通力を体に宿しておきながら、その神通力に身を滅ぼされることもない。
巫女さんの神通力を体の中にいれている俺だからこそそれがどんなにすごい事かわかる。神通力一つで生死の境をさまよってるような俺とは比較にならないほどの才覚に凄まじさを覚える。
おそらく天性によるものだろう。まさしく神に愛されていたと言っても過言じゃない。
俺がしなくちゃいけないのは、そんな火渡薙枯の再現だ。
俺はただの小学生。それも巫女さんがいなくちゃなんもできない俺が、火渡薙枯と同じように神通力を直接抑え込む。考えてみれば無理な話だ。
知識もない。特別な力もない。俺が巫女さんに会えたのだって火渡薙枯の血を引き、中に巫女さんの神通力があるからに過ぎない。そんな俺が神通力を抑え込む。どうやったって無理な事だろう。
無理で、無茶で、無謀な話だ。
考えれば考えるほどに結果が明確に想像できる。燃え尽きて死ぬその未来が。
「でも、ま、やったろうじゃん」
普通なら絶望して泣くか達観してしまうかなのかな。
でも、たとえ無理で無茶で無謀であったとしても、俺の中では、世の中の全ての出来事が無限大だと信じている。逃げ道がなければ、引く道が泣ければ立ち向かうだけ。そこにわずかな可能が必ずあると何の根拠もなく信じている。だからこそ、たった一度きりの俺の人生で諦める必要はどこにもない。
「君はどんな逆境でも諦めないんだね」
「まぁ、諦めるの苦手だしな」
「流石……彼の血を引いてるだけあるんだね」
「ご先祖様の?」
「うん。だからこそ、私は君を全力で助ける」
「火渡薙枯を再現するにはどうすればいいんだ?今すぐに……はできそうもないか?」
「場を整えないと。"君の神通力を表に出す"。"君自身に神通力を抑えるだけの力を与える"。そして"手伝う私の神通力を最大に発揮できる"この三つを兼ねそろえた場所を用意しなくちゃいけない」
「ただの神社ってわけにはいかなさそうだな」
「かなりの信仰がある場所か、天津神の神通力が宿る場所に限られる」
「もう有名どころしか思いつかねぇなそれ。でも、用意できるのか?そんなとこ」
「用意する。用意して見せる。あてがないわけじゃないから任せて」
「俺にできることは?なんかない?」
「君にできること、とは少し違うけど一つだけ」
「なに?」
「私が場を用意するまで、君は私に会いに来ちゃ駄目」
巫女さんの目がまっすぐ俺を見据える。
少しだけ強く向けられたその言葉に巫女さんの強い意志が宿っている。どうしてと言葉が出そうになるが、その答えを俺はもう知っていた。俺が巫女さんに会い、俺がいつ苦しむようになったのかを考えればわかる。
「俺の神通力は巫女さんに会うたびに強くなってるからか」
「うん。それは間違いない」
「……巫女さんの神通力か。もしかして、巫女さんの近くにいることで本来の力を取り戻してきてるのかな、こいつ」
「どうだろう。はっきりとは言えないけど」
「まぁとりあえず、これ以上でかくなられても困るしな」
「ごめんね。私はもっと君と一緒にいたいのに」
「でも、巫女さんと会えなかった2年を思えば、あっという間だろう?」
「うん」
「なら問題な―――って、まてよ。今はいいけど、巫女さんから離れたら俺って燃え尽きる?」
「そうならないために今から私が持ってる力全部使って神通力を抑え込む」
「巫女さんの全部の?それって大丈夫なのか」
「うん。君が持っているビー玉、それに、そのお札を使えば」
札と言われて思い出す。
熱にうなされ、無我夢中でつかんだビー玉の下にあったお札。くしゃりと握ってしまってはいるけど、それはあの犬が置いていったんじゃないかと思う伊勢神宮のお札は俺のポケットの中にあった。
「このお札でいけるのか?」
「大丈夫。私がお守りの中に吹き込む神通力なんか比じゃないくらいの神通力が宿ってる。ただ、君の神通力を抑えるようにはなってないから、私の方で正しい方向に導いてあげる必要があるんだけどね。でも、君が日が昇る前に無事ここにたどり着けたのは、間違いなくこのお札のおかげ」
「……巫女さんのビー玉のお守りよりすごいのか。犬にもらった奴だけど」
「犬?」
「真っ白い奴。どっかの野良っぽい奴で一緒に朝飯を食べた」
「そっか……うん、姉様は見ていてくださったのですね」
「んー……どういうこと?」
「このお札があればしばらくは大丈夫。私が場所を用意するまでの間はそのお札が君の神通力を抑えてくれる。と言っても数日程度だとは思うけど」
「巫女さんが場を用意してくれるまでは持つと」
「うん。お守りの光が消えたら。準備が整った印だと思って」
「わかった」
巫女さんが目を閉じて札に触れると淡く虹色の光が札に宿る。ビー玉のお守りと同じ色で、面積が大きい分、かなりきれいに見えた。それを手に持つとほんのりと暖かい。まるで太陽の日差しのように。
ビー玉とお札の二つがあれば、数日は持つはずだ。巫女さんを信じよう。
「あとは私が場を整えるだけ」
「その時を待てばいいだけ、か」
俺にしても巫女さんにしても神通力に対して試行錯誤する時間は終わった。
巫女さんは場を用意し、俺はその時まで巫女さんに会わずにじっと待ち続ける。
お互いにやれることは少ないけれど、今できる精一杯をしようと、笑みを向けあう。
言葉には出さなかったけど、たぶん、これが失敗したら俺は死ぬんだろう。あっけもなく、紙が燃えて無くなるように一瞬で。そしてそれを絶対に止めるだろう巫女さんも無事じゃすまないはずだ。なにせ、自分ではもう制御不能となった神通力が相手だ。失敗は許されない。俺が神通力を抑え込むしか方法はもうない。なら、やるしかない。
社の扉から出ると、夏の日差しが俺と巫女さんに降り注ぐ。神社の鳥居から見える青い空と入道雲はいつも通り。もう昼すぎあたりになっていた。
まだほんのわずかに胸に神通力の圧迫を感じる。それもあと数日の我慢。
おそらくそれが俺と巫女さんの運命の日となるだろう。
また二人で縁側に座り、話ができることを願って。また縁側でアイスを食べ合うことができることを願って。
お互いにお互いの隣にいられるように願って二人で「またな」「またね」と再会の挨拶を交わした。
それから、二週間の時間が流れた。
いつも神社に通っていたことが習慣になっていたこともあって、自然と神社への道をたどりそうになる。それが当たり前になっていたことを今更ながらに実感する。ほんの数年、巫女さんにあったのは、ほんの数日。それでも、俺の中であの神社と、巫女さんは無くてはならない存在になっていた。
俺は一人、自分のベッドの上で考える。
「失敗したら、俺は、死ぬんだろうな」
巫女さんが場を用意し、俺が自ら神通力を抑え込む。
人を燃やし消してしまうほどに凄まじい神通力。それを抑え込めなければどうなるか。そんなのはもうわかり切っていた。
たった十年余りか。俺が生きてきた人生は数えてもそんなもんだ。
大層な人生じゃなかった。やりたいことをやって、自由気ままに生きてきた。俺が俺の思うようにやってきたそんな人生だ。それがもしかすると、あと数日後にはその全部が消えてなくなってしまう。
俺が、燃えて、消えてなくなる。
食事をしてる時、部屋で一人でいるとき、お風呂に入っているとき、夏の空をベッドから見上げるとき、俺はそんなことを考えていた。巫女さんに会えない時間の中、ずっと考えてはいたけど、なんでか焦るような気持ちも、悲しくなるような気持ちもない。
俺はもう死地に立っているはずなのに、後が無いとわかっているのに、奮い立つことも無ければ、諦めの様な気持ちもない。それは言葉じゃ言い表せないような不思議な感覚だった。
夏の空を見上げ蝉の声を聞けば、これが最後の夏になるかもしれないのに、俺の気持ちは驚くほど落ち着いていた。
そんな二週間は、長いようで短い。
いや、今まで巫女さんを探していた二年間や、巫女さんが一人でい続けた数百年間を思えば相当短い。あっという間で一瞬に感じるほど。
自分の死の事を考えても心は落ち着いたままだったけど、何かはしようと考えた。
それでこの二週間の間。夏休みをできる限り満喫しようと遊んだ。
海に行って、山に行って、レジャー施設に行って、家族と、親友と、友達と、遊べるだけ遊んだ。珍しく夏休みの宿題もこの二週間で終わらせた。自由研究は勿論神社の事だ。とにかくやりたいことをやりたいだけこの二週間に詰め込む。
これが最後かもしれないという気持ちがどこかにあったからかもしれない。そもそも全力しか出せない俺の性格だったからかもしれない。それでも、二週間の間、動かずにはいられなかった。
そして、二週間がたったその夜。ビー玉のお守りの光がゆっくりと俺の手の中で消えていき、その時が来たことを知らせていた。
「やれることはやったか?」
俺はベッドの上で自問する。
一日の終わりでもうできることもないけど、それでも俺は考える。
明日、目が覚めて日が出たら神社に行き、神通力を自分で抑え込む。最後の勝負。
これが失敗すると俺は死ぬ。ただ死ぬだけじゃなくて、俺が生きてきたこと、俺がいた事が全部なくなって、誰も俺の事を覚えていないことになる。
ついに明日というところにまで来た心は今だ落ち着いたままだ。このまま寝てしまってもいいけど、いや、何かしよう。そんなふうに思いつく。
「最後の会話くらい、残らねぇかな?」
そう思った俺はベッドから起きる。
夜になって会話できそうな人はまぁ家族とか、あと迷惑になるかもしれないけど親友ぐらい。そんなほんの数人。それでも思いついたならやろうと俺は考えた。
とはいえ別段特別な会話じゃない。ただ普通の会話。夏休みの残りをどうしようとか、どこで遊ぼうとか。遊んだ思い出の話とか。
何か特別な事を言って印象付ければ俺を覚えてくれると会話してたけど、話しているうちに俺の痕跡を残そうというより、俺がみんなの事を覚えていたいと思っていた。
だから普通の会話だった。夏休みの思い出や、次どこに行きたいかっていう本当に何の変哲もないもの。
俺は、それで十分だった。
会話の最後、家族にも親友にも俺は神社に行ってくると言った。
事情を知らない方から見れば、明日の遊ぶ場所か何かに思うだろう。俺も重く受け止めてほしくないから軽く言った。
でも、俺の様子が違うことに気が付いていたんだろうか。
電話越しに親友の二人はいう。
「なにかは知りませんが、負けたら承知しませんからね」
「そっか。次ぎ合うときは夏休みが終わってそうだな。うん、学校で待ってる」
台所で洗い物をする母さんは背を向け涙声で言う。
「なにやったって、お母さんはいつだって自慢の息子って言うから」
晩酌に珍しく一番高いお酒を飲みながら親父は言う。
「最後まで思った通りにやってみろ。いいな」
軽く俺の頭を叩いて、何事もないように部屋に戻る兄貴は言う。
「行ってこい」
最後かもしれないその夜、自室の電気を消せば窓の向こうに星空が見えた。
その夜空を見ながら交わした会話を思い出し、しっかりと胸に刻みつける。それは忘れないようにするための物じゃない。もう一度ここへ戻ってくるためのものだ。
親友が、家族が待ってくれているのなら、戻らなくちゃいけない。そして戻ってくるなら、巫女さんと一緒に。絶対にこの想いは叶えて見せる。そう強く心に刻み付ける。
明日死ぬかもしれない。神通力を抑え込むのを失敗するかもしれない。そんな恐れは俺の心にはもうなかった。最後にもう一度、自問する。やれることはやったか?
「やった。やりつくした。ここに巫女さんと戻ってくること以外は全部だ」
言葉をしっかりと口に出せば決意は固まった。今なら強く心に持てる。
ただ落ち着いていただけの心に火が灯ったように気持ちが高ぶってくる。
自分が思い描く明日を夢見て、カーテンを閉めずに星空に誓い、俺は目を閉じた。
たった十一年くらい生きたこの俺。火渡石和というこの人生を明日を全部賭ける。
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