044 シザキ・ゼンジは愛を告げる
「なっ……あれは?」
高層ビルのとある上階に身をひそめていたシザキは、その窓から見える景色に、驚愕していた。
ひとつは、あのSSS級ナイトメアがあっさりと斃されたところを目撃したから。
そしてもうひとつは――。
「あれは……まさか……」
マカベ・トーコ。
その存在に思い至るや、胸の奥がずくりとうずく。
「…………っ!」
シザキの脚は、知らぬ間に動き出していた。
なりふり構わず、非常階段を駆け上がる。
そして、屋上の扉を開ける。
強い風が吹き付けてくるのも構わず、傷んだ床の上を走った。
「マカベ……トーコ、マカベ・トーコ!!!」
声の限り叫ぶ。
すると、遠くの空を飛んでいた白い服の天使が、くるりとこちらに方向転換してきた。
「ああっ……ああ……っ!」
気付いてくれた。気付いて、くれたのだとわかった。
彼女との距離はどんどん狭まっていく。
マカベ・トーコの顔がまっすぐこちらを向いているのもわかった。栄養状態は良くなかったが、サイボーグ化されている己の目の解像度は少しも衰えていない。
拡大する。
その美しい赤い瞳が、自分を見つめている。
「ああ、マカベ・トーコ……」
歓喜で身が震える。
直後にふわりと少女が屋上に降り立った。
「シザキさん……? シザキさん、なの……?」
「ああ、私だ……。マカベ・トーコ」
「生きて、たんだ……」
そう言って、感慨深げにこちらを見つめてくる。
「君はもう一度、この未来の世界に来てしまったのだな」
「うん。うん……」
少女はそう言ってぼろぼろと大粒の涙をこぼした。
「さっきのナイトメアは、君が斃したのか?」
「うん。元の世界で、調べたの。あいつ……モチラって言って、強火でじっくり焼いたら固まって簡単に壊れちゃうんだって。それが弱点、って……」
言い終わらないうちにシザキは少女に近寄って、力いっぱい抱きしめた。
息が止まってしまいそうだった。
「し、シザキさん?」
素肌の部分は透過してしまうので、服の、胴体の部分を抱きしめる。
「マカベ・トーコ……」
腕の中で、愛しい少女は震えていた。
おそらく自分もだっただろう。ただ、この接触をシザキは体中で感じていたかった。
「会いたかった」
「し……」
言葉を紡ぐと、少女は逆に言葉を封じられてしまったようだった。
結果的にそれが良かったのか、シザキはさらに語り続ける。
「マカベ・トーコ……会いたかった。君を……。君ともう一度、こうしたかった」
「え、あの……?」
「私は、君に『愛情』を教えられた」
体を離し、シザキは少女をじっと見つめる。
よく見ると少女は首から上を赤くしていた。映像のような存在なのに、おかしいことだとシザキは思う。そして、その美しい顔に……口づけした。
「んっ……」
声をもらされる。
それだけで愛しさがさらにあふれてきてしまった。まったく触れられていないキスだが、それだけで十分だった。
もう一度少女を見ると、不思議な表情でこちらを見つめている。
「な、なんで……シザキさんどうして……? 愛情って、わたしを……?」
「そうだ。私は君を……愛している。あれから、気付かされたのだ」
「あ、愛……」
そう言ったきり、少女は俯いてしまった。
だが、しばらくしてまた顔を上げる。
その口元には、なぜか白いマスクがつけられていた。
「マカベ……」
「シザキさん。わたしも……あなたが好き。ものすごく好きなの……」
そう言って、ふわりと飛びついてくる。
シザキは、マスク越しに感触のあるキスをされた。それだけで脳がオーバーヒートしてしまいそうになる。
「む……。マカベ・トーコ……」
「透子。透子って呼んで」
「トーコ……」
そうして、シザキは少女と、しばらくマスク越しのキスをした。
何度も交わしていく間に、どんどん没頭していってしまう。接触をするたびに、身も心も溶けてしまいそうになった。圧倒的な多幸感。そして、胸の奥の痛み……。
これは愛だったのだと、改めて自覚する。
シザキは少女を抱きかかえると、もといた部屋に駆け戻った。
だが、そこは潜伏しているうちに少々薄汚れてしまったと思い直す。
瞬時に切り替えて、その隣の部屋のドアを蹴破った。
「し、シザキさん?」
少女の呼び掛けにも応えずに、部屋に押し入る。
このビルは高層マンションだ。
ほとんどの部屋は各家庭の生活用品がそのまま残されている。
年月が経ちすぎてボロボロになっているものが多いが、家具がまるでないところはむき出しのコンクリートの壁と床しかなかった。
この部屋は、ちょうどその何もない部屋だった。
むしろ何もない方が壁紙など垂れ下がっていないので、綺麗かもしれない。
「あの……シザキさん?」
「すまない、トーコ。私は……君がいない間……君を欲して、欲しすぎて……頭がおかしくなってしまった。だから……」
壁際に少女を立たせて、その顔の両側に手をつく。
今度こそいなくならないように。
逃げ出されないように。
退路を断って、そのまだマスクをつけている口元に口づける。そして、そのままその白いワンピース越しの体に荒々しく触れ……。
「し、シザキさん、待って!」
少女が制止の声を上げた。
だが、頭が焼けそうになっていて、止めることができない。
「すまない、トーコ……」
「ああ、もうっ!」
少女は顔を赤くしたまま、シザキの背後にベッドを出現させた。
夢見る力で作り出したらしい。
「もうっ、なんでわたしが……こんなの作らなきゃいけないのよ……」
ハッとすると、少女は目に涙を溜めながら、羞恥心でいっぱいという表情をしていた。
それを見たシザキは……頭のどこかの回路が切れる音を聞いた。
* * *
陽が暮れていく。
ゆっくりと窓からの光量が減っていくことに、二人とも時間の経過を感じていた。
だが、それでも離れられない。
一方は肉体があり、もう一方は立体のホログラムだとしても……愛し合えているとお互いの脳が認識しているならば、それは愛し合えているのだ。
ベッドの上に体を並べた二人は、徐々に薄暗くなっていく部屋をぼんやりと眺めている。
「シザキさんありがとう」
「なぜ、礼を言う?」
「たぶん好きになったのは……わたしの方が先だから」
「そうか」
「わたしの気持ちに応えてくれて、ありがとう。何も理解されれないまま、さよならした……つもりだったけど。シザキさん、気付いちゃったね。ごめんね」
「なぜ、謝る」
「あなたは本当は、恋愛感情とか……友情とか知っちゃいけない人……だったから。あのオーブっていうのに警告されてたの、わたし。これ以上シザキさんにアプローチするなって」
「そんなことが……あったのか。私の知らない間のことだな。眠っている間か」
「うん。そう、よくわかったわね」
「それぐらい、考えなくてもわかる。しかし……こうした思いは一度抱いてしまうと……押さえられないものなのだな」
そう言って、シザキは少女の体を引き寄せて、そのマスクをした口元に口づける。
身が、切なさでよじれそうになる。
「あなたが、そんなに情熱的な人だったなんて、知らなかったわ」
「私も、そう思う」
「こんなことになって……本当に良かったのかしら」
「私は後悔などしていない。そして、これからもだ。発電所には戻らないと決めた。だから、こうしてここにいる。戻っていたら……君のことを忘れていた」
「そうね……」
少女も、シザキに顔を近づけて、その口髭に覆われた唇を探し当ててくる。
触れられる度に、背中がぞくぞくとする。
陶酔するように相手の事しか考えられなくなる。
「君も……私のことだけを考えていたのか? 会って、いない間……」
ふとそんなバカげた質問をしてしまう。
すぐに後悔したが、少女はシザキの腕の中で微笑んでいた。
「ふふふっ。ええ、考えていたわ」
「…………!」
まただ。
また背中から、全身にぞくりとした痛みが広がっていく。
その痛みを解消するためには、少女とまた体を重ねなければならないのだが、さすがに今日はもう限界だった。
「嬉しい? わたしも、さっき何度も嬉しいことを言われたから、何度だって言ってあげるわ。あなたに会いたかった。わたし、この病が治ってしまって……もう二度と会えないかと思っていたの。毎晩毎晩、あなたに会いたくて涙を流して……。でも今は、すごく嬉しい」
「トーコ……」
「でも、心配」
「何がだ?」
「あなたは……発電所の仲間のところから離れて、ここでずっと隠れるように暮らしてる。それって……大丈夫なの?」
「…………」
少女の白い手袋に覆われた手が、シザキの胸や腹をすべっていく。
やや痩せたかもしれない。
もともとあまり食べない生活をしていたが、それは少量でも栄養価の高い、体が吸収しやすい食品をとっていたからだ。
今は命を長らえるだけの、最低限の栄養しかとれていない。
それを少女は心配しているのだろう。
「長くは、持たないだろうな」
「そんなっ……」
「だが、それでもいい。私は自由に生きられたのだ。自分の感情の保持を優先し、したいことをし、トーコというかけがえのない存在とともにいようとしたのだ。お互いに気持ちが通じ合えたことも、さらなる奇跡だった。ゆえに、これ以上望むことはない」
「でも……」
「できればずっと共にいたい。けれど、現実問題サバイバルをこのまま生き抜くのは難しいだろう。私は……所詮『籠の鳥』だ。基地を離れては長くは生きられない」
少女はしばらく沈黙したが、完全に外の明かりが途絶えると、むくりとベッドから起き上がった。
そして、小さなオレンジ色の光を空中に出現させると、その下で「たまごかけごはん」を両手の中に出現させる。
それは以前、基地の食堂でシザキが食べさせられたものと同じだった。
「さ、しょうゆもかけてあげたわ。食べて食べて」
「あ、ああ……」
シザキは、差し込まれたスプーンをとり、一匙口に入れる。
あの時と同じ、優しい味がした。
そしてすぐ、口元からピンク色の分解された夢エネルギー粒子が溢れ出していく。
「美味い。ありがとう。腹は……ふくれないが、嬉しい。ありがとう」
今度は、途中でやめはしなかった。
この奇跡の食事を、一口一口噛みしめるように味わう。
あとで余計に空腹感に苛まれるということがわかっていても、シザキにはそれを中断させることはできなかった。
たまごかけごはんの向こうには、オレンジの光に照らされたマカベ・トーコがいた。
少女は、幸せそうな、それでいて悲しげな顔でこちらを見つめていた。




