040 シザキ・ゼンジは戸惑い、自覚し、傷付く
少女が目の前で消えてすぐ、シザキは己の口元に手をやった。
いつもと同じ長さの口髭に指先が触れる。
少女のキスは、一方的だった。
そして、当たり前だが相手が「明晰夢の天使」だったので何の感触もなかった。
あれが何を意味しているかはよくわからない。けれど……シザキの心臓は、まるで全力疾走した時のようにバクバクと鼓動していた。
「なん……だったんだ、あれは……」
ごくりと生唾を飲み込む。
少女は、特に理由を言わなかった。「どうしてもしたかっただけ」と言った。自分に何かをしてあげたいというようなことも、言っていた気がする。
その、真意は最後までわからないままだったが……。
――わからないわよね。今のわたしの気持ちなんて。
本人からもそう言われた。実際その通りだった。
シザキは、口づけの意味を、深く考える。
遠くからあの巨大なナイトメアが近づいてくる音が聞こえてきていたが、避難しながらもその意味を考えていた。
「普通は……愛情を持つ相手にしかしない、行為のはずだが……」
キスをする意味。それに関連する知識は、脳内の記憶チップにあった。
だからこそ、違和感があった。
あの少女は……マカベ・トーコは自分に対して「恋愛感情は無い」と言っていた。なのに、口づけをした。その矛盾……。
「どういうことだ……」
ガラガラと建物が壊れる音が背後に迫る。
それでもシザキは、移動しながら必死に考えた。
――わたしだって、本当は大地君しか好きじゃない! なのに……。だけどっ……!
あの少女はたしかダイチという異性を好いていた。しかしその言葉の後に、「なのに」「だけど」などという逆の接続詞を用いていた。
ということは……もうそのダイチという異性のことはそれほど好きではなくなっている、ということなのだろう。
そのことに気付いたシザキは、喜びを感じた。
「喜……び……?」
自分でいま抱いた自分の思考に疑問を抱く。なぜ喜んでいる。
理解できない。
「少女は、なぜ私に、キスを……」
――わたし……あなたのこと……。いえ、わからない、わからないわよね。今のわたしの気持ちなんて……。
さらに少女の言葉を思い出す。
幸い、記憶チップは無事だった。だから一語一句、鮮明に思い出すことができる。
自分にはわからない、そう断定された。
何を考えているのかわからないはずだと。ということは、およそシザキ一人ではたどり着けない解答になるはずだ。「絶対にありえない」答え――。その可能性が高い。
「ということは……まさか……」
ひときわ大きな音がして、頭上から大きな石がいくつも降ってきた。
シザキは当たらないよう、なるべく建物の陰に入る。
「あり得ない……。そんなことが、あるわけがない!」
一人叫んだ後、所持していた武器を確認する。
長銃は破壊されたが、短銃とナイフだけは無事だった。しかし、オーブも明晰夢の天使もいないこの状況では、ナイトメアと闘うだけの威力をそれに付与させることはできない。
ただひたすら逃げ、できれば元の基地へと戻ることが望ましかった。
そんなシザキは、また吐き捨てるように言う。
「そんなっ……あの少女が、マカベ・トーコが私を好きでいるなど……」
奥歯を強く噛みしめながら、さらに走る足を速くする。
ちらっと見下ろすと、きつく包帯の巻かれた右手の先が血でにじんでいた。だが構わず走る。走って、走って、逃げのびる。ただそれだけを考える。
他の事は何も考えたくなかった。
それなのに……シザキはどうしても少女のことを考えてしまっていた。
「どうして……私を……? どうして私にキスなんか、したんだ……? きっと、あの者は……もうこの時代には来ない。それなのに……どうして私に、こんな……」
――ごめんなさい。忘れて。
そんなことも言っていた。でも、忘れられるわけがない。この脳内の記憶チップの性能は高い。少々の衝撃や熱では故障したりしない。
忘れるためには……記憶をすべて抹消しなくてはならなかった。
かつての「彼女」の時のように。
唯一の友人であった明晰夢の天使を、忘れさせられた時のように。
「私は……『彼女』に友情を抱いていた。なら、今回も……『友情』を感じていたのか? あの少女に対して……? ならきっと……」
また抹消させられる。
きれいに消される。
完全に。跡形もなく。
どんな名前だったのか、どんな声だったのか。少女が自分に何をしてくれたのか。自分が少女に何を思ったのかもすべて……。
何を思ったか?
友情?
本当に友情だったのだろうか。
わからない。友情とは……少し違う気がしていた。
シザキは自分の胸をそっと押さえる。
この胸の鼓動。
そして、今まで感じた胸の冷たさ、熱さ。
少女が何かをするたびに、シザキのここはなにがしか反応してきた。
一喜一憂。
まさにそんな言葉が似合うほど、ひどく翻弄されていた。
それは、わずらわしくも思う反面、癒しや喜びも与えてくれていた。
今は、千々に乱れている。
「これは……まさか……」
あり得ない。
あり得ない解。
あり得ない答え。
そういうものを少女は自分に残していったというのか。
シザキは……ようやく自覚した。
「私は……そうか。あの少女を好きに……」
恋愛感情を抱いていた。
それが、答えだった。
信じられないが、そうであるならばすべてつじつまが合う。
自覚してすぐに、シザキは顔が熱くなった。
どれだけ自分が少女を思っていたか、そして彼女にふさわしくない存在だったかを思い知る。
自分はクローン人間で……はるかに年上で、そもそも人間らしい精神を持ち合わせていない、ポンコツな存在だった。
それなのに、少女はこんな自分を好いてくれていた。
最初は違っていたはずだ。
あの少女はダイチという異性を思っていたのだから。
しかし、共に行動する中で、徐々に自分へも情を抱いてくれていた。
数々のやりとりを、シザキは鮮明に思い出す。
そのどれもが、今となっては貴重でかけがえのないものだった。
今はすべて、無いものとなっている……。
「マカベ・トーコ」
名を呼ぶ。
だが、その少女はもういない。
「トーコ……」
自分はなぜ、今になって、それに気づいてしまったのだろう。
後悔しても遅いのだが。
胸の奥が鋭い何かにえぐられてしまったように痛い。
目の奥も熱く痛む。
体中の血がすべて抜けていってしまうような感覚。
よろけて、倒れそうになるが、それでもまた必死で走る。
自分は、どこへ向かっているのだろう。
基地へ?
基地へ戻れば助かるのか。そしてまた戦闘するために送り出されるのか。
基地はたしかにナイトメアを寄せ付けないような構造になっている。あそこへ行けば、身体的なダメージをこれ以上負うこともなく、かつ適切な治療を施してもらえるだろう。
しかし。
この感情を自覚した今。
あそこへ戻れば完全に消去されてしまうということが、一つの懸念材料となっていた。
記憶が、少女の思い出のすべてが失われてしまう。
「また、何もなくなるのか? 私は……!」
そう思うと、それ以上走ることができなくなってしまった。
後にも先にも行けずに、シザキは立ち止まる。
「だから……明晰夢の天使には遭いたくなかったんだ……」
こうなることはわかっていた。初めから。
不幸になる。
自分も、相手も。
そのことをわかっていたのに、それに逆らうような行動をとってしまった。
後悔しても遅い、それもわかっている。
全部がもう終わったことだ。
「そろそろ……私の役目も終わり、か」
疲れていた。
何度も同じことをすることに。
自分はこの発電所の作業員で、毎日決まった行動しかとれず、それでも心の奥底では人間らしさを求め、ギリギリのルール内で抗っていた。
日々、その繰り返しだった。
時には大きくそのルールを逸脱し、すべてを失うというとりかえしのつかない傷をも負った。
きっと、今度もすべて失うことになる。
失えなかったらそれまでだ。処分されて終わり。
ここでナイトメアに無残に狩られるのも、基地に戻って初期化されるのも、初期化しきれずに処分されることも、すべて同じなのだろうとシザキは思った。
「疲れた……もう……」
シザキはゆっくりと振り返ると、ナイトメアがいるだろう方向を見上げた。
すると、商店街の壊れたアーケードの上に……白い巨人の姿があった。ナイトメアはこちらを見て、巨大な手を持ち上げはじめる。
「マカベ・トーコ……できるなら、もう一度君に……」
会いたい。
会って、今度は自分から……想いを伝えてみたかった。
そうしたら、少女はいったいどんな顔をするだろう。
最後に見た少女は、泣いていた。
今のこの気持ちを伝えたら……少しは喜んでくれるだろうか。
こんな年老いたクローン人間から愛を伝えられて、はたして笑顔になってくれるだろうか。
「トーコ……」
キスを、したいと思った。
触れられなくても、少女がしてくれたような心のこもったキスを。自分もしてみたかった。
人間らしく、態度で愛を伝えることができたら――。
そんなことを思いながら、シザキは目を閉じる。
そして、ナイトメアの大きな手がいよいよ地面へと振り下ろされてきた。