036 真壁透子は恋愛と友情に悩む
自分はきっと今、ひどい顔をしているはずだ。
だから当分誰とも会いたくなかったのに……。
そんな透子のところに、親友の横川千明がやってきた。
「お、起きてる! 透子、眠り病治ったの?!」
そう言って嬉しそうに駆け寄ってくる千明を、透子は無下にできない。
「うん。さっき、目が覚めてね……。意識は、はっきりしてる。ぼうっとしてないし、もう大丈夫だと思う……」
「そう、良かった~! なんか一回寝ちゃったら、何週間も何か月も寝ちゃう人もいるって聞いてたし……透子は約三日くらい、かな? 割とすぐ治って良かったね!」
「三日……。そう、わたしそれぐらい寝てたんだ……」
寝ている間のことは全くわからない。なので、透子は改めてその長さを聞いて愕然とした。
千明はさっきまで大地君が使っていた簡易な椅子を引き寄せて、ベッド近くに座る。
「ねえ透子、その間のことって覚えてる? ずっと夢を見てたの?」
「えっと……うん。だいたい夢、見てたかな。明晰夢ってやつで……すっごくリアルだった。あ、でも……ときたまトイレと食事には起きてたよ。その時のことは、なんか半分夢みたいな感じであまり覚えてないんだけど……」
「そう……」
千明は急に視線をそらした。
覚えていないと言ったのは嘘だ。本当はしっかり覚えている。千明が「大地君を好きになってしまった」という告白も透子はちゃんと聞いていた。
しかし、千明もまた大地君と一緒で、ちゃんとこの場でそれを言ってくれる気はないようだった。
それがひどく悲しく感じられる。
透子は作り笑いをやめて、下を向いた。
「えっと……透子、大丈夫? 顔色がなんかまだ、悪いみたいだけど……」
こうなっているのは全部、千明のせいだ。……とは言えなかった。
透子は気力をふりしぼって顔を上げる。
「大丈夫。ちょっとだるいだけ。それより、わたしの病気のこと……誰から聞いたの? お母さん?」
「あ、うん。この前お見舞いに来た時にちょっと、ね。それで? もう退院できそうなの?」
「わからない。まだ、お医者さんからはなんにも言われてないから……」
「そう。じゃあ早く学校来てくれないと困るよー。透子がいないとつまんないんだから! あたし、毎日そのせいでここに来ちゃったんだからね!」
元気がないように見えるのだろうか。
そう冗談っぽく言って、千明は透子を励まそうとしてくれた。
けれど、その言葉は……寝ている間の秘密を知っていた透子にとっては、全く響かないどころか、むしろ苛立ちさえ感じさせるものである。
「あの、さ。さっき……」
「ん?」
声にどうしても深刻さが混じってしまう。
普段とは違う透子の様子に、千明はきょとんとした顔をした。
「どした? 透子?」
「あの、ね……さっきね、その……大地君が……」
「えっ?」
「大地君がね、お見舞いに……来てくれてたの。それで……」
千明は、とても驚いた顔をした。
なんで、とか、いつから、とか。様々な疑問が頭の中を渦巻いていそうだ。透子は続ける。
「それで……ね、彼にキス、されちゃった」
「えっ?」
なぜそんなことを言おうと思ったのかわからない。
でも、卑怯なことを平然としてくる友人に、少しでも仕返ししてやりたいと思った。
「な、透子、え? それ……ほんと? つ、付き合ってるの、あんたたち?」
「う、ううん……違う。告白もしてない」
「え? じゃあ……なんで」
「わからない。寝てたら、大地君が勝手にしてきたの」
「え……?」
混乱している。
わかりすぎるぐらい、だった。透子もまた、同じ気持ちだったからだ。
「なんで、あんなことしたんだろう……。わたしのこと、好き……だからした、のかな? でもそうだとしても、寝ているわたしに勝手にするなんて……。あんな、わたし……」
思い出してきて、また涙が出てきてしまう。
千明も、多少なりともショックを受けているようだった。
「で、でもっ……。とにかく……まだ、病み上がりなんだから。そんなに……その、気持ちを取り乱したらダメだよ。忘れろとは言わないけど……さ。大地君にもなにか、理由があったかもだし……その……」
「うん、千明。ありがとう」
慰めの言葉に、透子は心から感謝を述べる。
でも、複雑な心境に変わりはなかった。
千明はこのことをどう思っているのだろう。実質、自分と千明はライバル同士だ。でも、それをきちんと宣言し合ったわけではない。そうする前に、この事件が起こってしまった。
千明は、大地君がしたことを軽蔑しただろうか。
卑怯な見込み違いの男だったと。それとも、変わらず今も好きでい続けているのだろうか。
透子は、泣きながらそんなことを考えた。
「真壁さん、起きたんだってー?」
突然、白衣を着た男性と女性の看護師が病室に入ってくる。
どうやら透子の担当の医師らしかった。
「わあ、初めてにしては早い覚醒だねえ。まあ、完全に治ったとはまだ断言できないけど……。次の傾眠期が来たら周期が多少は判るかな。お母さんは? まだ来てない?」
若い医師だ。キツネみたいな目をしている。
あたりをキョロキョロ見回していたので、看護師が代わりに答えた。
「はい、連絡しましたのでもうすぐ到着されるかと」
「じゃあ、とりあえず退院はできるけど……今後のことは親御さんと一緒に説明、かな。とりあえず、その食事はちゃんととっておいてね、真壁さん。それじゃ」
ほとんど看護師とだけ会話をしていたような若い医師は、一方的にそう言うとさっさとまた部屋を出て行ってしまった。
呆気にとられながら、千明と透子はそれを見送る。
「え、えっと……。透子、退院できるんだね。お、おめでとう」
「うん……」
透子は返事をしつつ、目の前の食事に視線を向けた。
夢と、現実と、どちらも精神的に疲れるようなことばかり立て続けに起きている。一時は回復したが、今はほとんど食欲が戻ってきていなかった。
医者からは「完全に治った」とは断言されなかった。
それだけが妙に心に引っかかる。
また発作を起こし、眠り続けてしまうのだろうか。だったら、またあの夢を……未来の夢を、また見ることになるのかもしれない。
そう思った瞬間、透子は心の内に「喜び」を感じているのを自覚した。
自分のことながらとても驚く。
「あ……え?」
「透子?」
千明が不思議そうにこちらを見てくる。
「う……ううん。大丈夫。わたしは……うん、大丈夫……」
自分に言い聞かせるようにそう言うと、千明の眼差しは、より不審な目つきに変わってしまった。そんな風になっては欲しくなかったが、でも仕方ないかなとも思う。
なぜなら自分自身でも、変だと思ったからだ。
現実で好きになった人より、夢の中の幻かもしれない人とまた会いたいと思っている。それは……明らかにどうかしている。
「透子。とりあえずあたし一旦帰るね。じゃあ……学校で待ってるから」
「うん、ありがとう。千明」
「お大事に」
言葉は優しかったが、それでも千明は振り返らずに行った。
もしかしたら……少し怒ってるのかもしれない。
大地君と自分がキスをしてしまったから。
でも、それはお門違いというものだ。
最初に大地君を好きだと宣言したのは透子だ。
それなのに、千明もずっと同じ想いを抱えていた。そして、その想いを隠してきた。大地君を自分も好きだと、なんでもっと早く言ってくれなかったのかと、透子はとても腹立たしい気持ちになる。
しかも、ようやく打ち明けてきたと思ったら、「自分が寝ている時」だった。
これもいろいろと納得がいかない。
納得いかないことが多すぎる。
夢ならば、もっと自由に、好きなようにできるのに――と透子は思った。
現実は何と不自由で、ままならないものなのだろうか。
透子は涙をぬぐうと、今度こそ無理やり目の前の料理に手をつけはじめた。
* * *
食事が終わってしばらくすると、母親が到着し、先生のもとへ行った。
いわく、また発作が起きるかもしれないとのこと。
また次の発作はいつになるかはわからず、どれくらいの長さになるかもわからないということだった。
大人になる頃にはそういった頻度も減っていくということだったが……透子はそれらすべてを聞いても、複雑な心境のままだった。
タクシーで自宅まで戻り、仕事から帰ってきた父親と顔を合わせる。
警察官である父親はひどく心配していたが、傾眠期と呼ばれる眠り続けている状態を脱したということを伝えるととても喜んでくれた。
とりあえず、明日の朝までに異常がなければ、また登校してもいいという約束をとりつけた。
夕飯を食べ、風呂に入り、自室に向かう。
薄暗い部屋の電気をつけ、明日のための制服やカバンの中身をチェックする。
すべて用意を整えると、透子はベッドに入った。
「今夜は、夢を見るかしら……」
そうしたら、またシザキに会えるかもしれない。
でも、またあの未来に行ってしまったら、またクラインレビン症候群の発作が起きて、眠り続けてしまうかもしれない。
一抹の不安がよぎるが、透子は布団を被って目を閉じた。
シザキとのキスを思い出す。
悲しいキスだった。触れ合いたくても、触れ合えなかった、悲しいキス。
そして、今度は大地君とのキスを思い出す。
触れ合いたかったけど、あんな状態で触れてほしくなかった。
あれは、あれも悲しいキスだった。
「ひどい……わたし……」
自分は、どうしようもない浮気者だ。
ずっと大地君が好きだったのに、夢の中で、夢の中だというのに、夢の中の人を好きになってしまった。
そして、その夢の中の人――シザキを好きになったのに、目覚めたらあの憧れていた大地君にキスをされていて、ほんの少しでも「嬉しい」と感じてしまった。
己の身勝手さに自己嫌悪する。
状況的には最悪なされ方だった。
軽蔑すらしてしまったというのに。
でもその相手が、ずっと……普段から見つめ続けて、いつかは触れ合いたい、好きと言ってほしいと思っていた大地君だったから。
だから、嬉しくないなんてことがあるわけがなかった。
「どうして、こんなことに……なったんだろう。どうしたらいいんだろう」
悲劇のヒロインになるつもりはない。
でも、自分自身どうしたいのか、まったくわからなくなっていた。
夢の中でシザキに会ったら……どうしたらいいのだろう。
勝手にキスをしてしまったことを謝る? そして、その理由も告げる? でもそうしたら……きっともうパートナーとしては一緒にいられないはずだ。
それは仕方ない。
だってもう、彼の迷惑になるからだ。
「はあ……でも、夢を見なかったとしても……」
明日学校に行ったら。どうしたらいいだろう。
クラスで大地君と、ちゃんと顔を合わせられるだろうか。
なんて声をかければ?
いや、声をかけるどころか、そもそも無視されるかもしれない。
自分に好きと言ってきたことなんて、最初からなかったことだと、すっとぼけられるかもしれない。
それならそれでいい。
でも、嫌われてしまったのだとしたら悲しかった。
こんな変な女を好きでい続けてくれるわけがない。
そうだ、自分の勘違いだったんだ……キスも、告白も、気の迷いだったのだと、透子はそう信じ込むことにした。
なぜなら、想像していた大地君の姿がどんどん崩れていくことにも、恐怖するようになっていたからだ。
こうなったのは結構前からだ。
ずっと恐れていたことだった。妄想が現実に実現し出してからはより、そうなった。
ずっと片思いでいた方が幸せだった。誰も本気で好きにならず、接触しなければ……。
そんな風に、透子は目を閉じながら、ぐるぐると頭を悩ませ続ける。
そして、果てない思考の後、時計の針が日付をちょうど超えた頃。
ようやく透子は、深い眠りへと落ちて行った。




