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035 真壁透子は完全に目覚める

 唇に、柔らかな感触。

 ぼんやりとした意識の中で、それだけを知覚する。


 透子は、シザキとキスをしてしまった。

 あれでもう本当に終わってしまうのなら、どうにかして気持ちを伝えておかないとと思った。

 その結果、あんな行動を起こしてしまった。


 シザキに「気持ち」がちゃんと伝わったのかどうかわからない。

 説明する時間も、心の準備さえ、お互いになかった。

 

 あんな別れ方はしたくなかった。

 見たこともない、強そうな敵を倒しきることもできず、あんな危険な場所にひとり、シザキを置いてきてしまった。

 それも、とても心残りなことだった。


 透子は感触の伴わなかったキスを思い出す。

 あの世界で、自分は精神体だった。

 幽霊のような存在だった。だからシザキに触れることは叶わなかった。


 でも「キス」をしているという行為だけはお互いに認識できた。

 そのことが、透子の心の奥を今も熱くうずかせている。


 相手は老人だ。

 それにクローン人間という、生粋の人間ではない存在だった。

 いつもだったらそんな相手に、こんな気持ちになることはない。けれど……。


 もう会えない。

 そんな思いで、胸が締め付けられそうになる。

 閉じたまぶたの裏側に、じわりと涙が溢れていく。キスの瞬間を思い出すたびに、哀しい気持ちがこみあげる。今この時も、唇の感触が……あるから……。


 ある、から?


「真壁……さん……」


 誰かの声に、ハッと目を開けた。

 すると眼前には、なぜか大地君の顔があった。


 急な出来事に思わず息を止めてしまう。


「なんで……」


 なんで大地君がこんな近くに?


 涙がこめかみの横をこぼれ落ちていく。

 わずかな唇のぬくもり。これは……。


「……ご、ごめんっ!」


 大地君はあわてて起き上がろうとして、座っていた椅子を盛大に倒してしまった。

 廊下を歩いていた看護師さんが、その音を聞きつけて駆け寄ってくる。


「大丈夫ですかー?」

「あ、はい! すいません。あの、真壁さんが起きたようで……」

「そうですか。じゃあ今、昼食を持ってきますからねー」

「あ、ええと……」


 透子はそんなやりとりを聞きながら、いつもと同じような目覚めではないのを自覚していた。

 異常な眠気はほとんどない。

 だからこそ、大地君と看護師の会話にある「違和感」を覚えていた。これは、はっきりと意識を取り戻した「目覚め」だ。透子はそう確信する。


 大地君は椅子をゆっくり元の状態に戻し、ばつが悪そうにこちらを見下ろした。

 透子はベッドのリクライニング装置を操作して、体を起こす。


「大地君……お見舞いに、来てくれたのね」

「あ、ああ……」


 椅子に座りながら、ぎこちなく答える。

 透子はそんな彼を無表情のままに見つめた。


「前も……お見舞いに来てくれたよね? たしか」

「え?」

「ぼんやりとだけど、なんとなく……覚えているの。あの時、大地君わたしに何か言った? 言ったはずよ。なんて言ってたの?」

「え、えっと……」


 大地君は視線を斜め下に落とすと、赤面した。


「そ、それはその……。こ、ここで言うのはちょっと……恥ずかしいっていうか……。も、もうすぐ、看護師さんも来るだろうし。その……なんていうか、まだ」

「そう……」


 大地君の言いたいことはなんとなくわかる。

 それでも、透子はかなりがっかりとしていた。


 君が起きたときにもう一度ちゃんと言うよ――。

 そう言っていたはずなのに。


 看護師はなかなか来ない。今は……いったい何時頃なのだろう。

 きっとお昼の時間からだいぶ経っているはずだ。

 学校にいるはずの大地君が今ここにいるわけだし。放課後……四時くらいか。などと考えながら、透子は右手の人差し指で唇に触れてみる。


 シザキとはしたくてもできなかったキスを、思い出した。

 でも、この感触は……たぶん……「違う」。


「ねえ、大地君? さっき……わたしにキスしてなかった?」

「えっ……」


 ズバリ問い正すと、大地君はごくりと音を立てて唾を飲み込んだ。

 まるで、真犯人が探偵に名指しされた時のように。なんでわかったんだといった表情で固まっていた。


「眠り姫は……王子様のキスで目覚める。だからわたしもきっと、大地君のキスで……目を覚ますことができたのかもしれないわね。ありがとう。でも……」


 本当はわかっていた。

 起きた時に。目の前に大地君の顔があった時から、隠れてキスをされていたのだと、わかっていた。


 でも……。

 好きな人からそんな風にされても、正直ショックでしかなかった。


「できたら、起きてる時にしてほしかったな……」


 こんなことをする人だとは思わなかった。

 相手の了承を得ずに、勝手に、そういうことをするなんて。

 寝ている無防備な人に対して。フェアじゃないことをしていたなんて。信じたくなかった。


 そこまで考えて、透子は急に激しく自己嫌悪した。


 自分だって、シザキの気持ちも考えずに強引にしてしまった。

 わたしは、大地君と同じだ……と。


 相手が傷ついても、どうなっても構わないから、まずは自分の気持ちを押し付けてしまおうと、ただそうやって突っ走っていただけなのだ。


「ご、ごめん……俺……」


 大地君はひどく動揺している。

 けれど、透子の胸の痛みはそれで治まることはなかった。

 何と言っていいか悩みに悩む。けれど、結果、透子は言うことにした。


「わたしね、大地君。ずっと……大地君が好きだった」

「え?」

「大好き……『だった』。でもごめん。今ちょっと……かなりショック受けてて。ごめん。一人に……させて」

「…………」


 大地君は絶句していた。

 当たり前だ。隠れてしていた行為が、当の本人にばれてしまったのだから。

 気まずいに決まっている。


 しばらく顔も何も動かさずに、こちらを見つめていたが、大地君は看護師さんが昼食を持ってくる気配を感じ取ると席を立った。


「ごめん」


 それだけ言って、部屋を出て行く。


「さあー、真壁さん、お食事ですよー? 熱いのでもう少し待ちましょうかーって、えっ?」


 入れ替わるようにやってきた看護師が、配膳の支度をしようと透子のベッドに近づいてくる。が、こちらを見るなり驚きに目を見開いた。


「え、ま、真壁さん? 起きて……? も、もしかして意識、はっきりしてるんですか?」


 近づいて、胸元のペンライトをさっと目に当ててくる。

 まぶしいと感じた透子はとっさに目を閉じた。


「はい……。なんか眠気が、すっかり取れてます」

「そう……ですか。ではちょっと先生に確認とってきます。あ、このお食事、召し上がっててくださいね」

「はい」


 そう言い残して、看護師はベッドの上の台にトレーを置いて、急ぎ部屋を出て行った。

 透子は目の前の料理を見つめながら、この病気はもう治ったのかな、などと考える。


 病が完治したのだとすれば、もう二度とあの未来には行けない。

 シザキさんと会うことも……。

 透子はそこまで考えて、寂しい気持ちで胸がいっぱいになった。


「シザキさん……」


 高野豆腐の煮物の上に、涙が数滴落ちる。

 その涙はもう、ピンク色の光は発していない。消えずに実体を伴っている。それは普通の事でありがたいことだったが、透子は深い悲しみに襲われた。


 もう一度会いたい。

 会って、また話をしたい。


 そうすることなど、もうできるはずもないのに。そんなことばかり願ってしまう。

 声を殺して泣いていたが、ふと呼吸困難に陥ってしまった。

 透子はしゃくりあげながら両手で顔を覆う。


「ふ、ううっ……し、シザキさん……」


 もう一度、夢を見られたら。

 あの遠未来の夢を見れたら……。


 目を閉じるが、眠気は当分来てくれそうになかった。


 そうこうしているうちに、やがて落ち着きを取り戻してくる。

 同部屋の他の患者たちは皆寝ているが、それでも通りかかった誰かに不審に思われるかもしれない。なので、気持ちをよりフラットに近づけようと努力した。ゆっくりと深呼吸。


 しばらく泣いていたら、お腹がようやく減ってきた。

 透子は口内によだれが湧き上がってくるのを感じ、目の前の食事を思わず見つめる。


「おかゆと、高野豆腐と、野菜のスープ、か……」


 手始めにスープのお椀を持つ。

 ほんのりとコンソメの香り。キャベツやら人参やらが柔らかそうに煮えている。一口すする。熱い。でも、悲しみに縮み上がった心にじんわりと沁みていく。

 

「透子……?」


 そんなホッと一息つきかけているところに、聞き慣れた声がした。顔を上げると、部屋の入口に千明が立っている。


「千明……」


 大地君とニアミスだった。

 途中ですれちがったのだろうか。透子はそんなことを考えながら、力なく笑った。

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