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032 真壁透子は警告を受ける

 透子は己の指先を見つめていた。


 触れて……しまった。

 感触は全くなかったにも関わらず、視覚だけで、とんでもないことをしてしまったと強く認識してしまった。

 手が、小刻みに震えている。


 唇に。

 最初はヒゲだけだったのに、間違って唇にまで触れてしまった。

 イケナイことをしてしまったようで、今も胸がドキドキしている。


 目を合わせたくなくて、完全に背を向けてしまっていた。

 そして、そのまま振り返れない。


 透子は手元に小さな小さな時計を出現させた。

 五分。五分経ったら、きっとシザキさんは寝てくれる。そうしたら、振り返ってみよう。それまでは、シザキさんが寝るまでは、後ろを向いていよう。そう思って長針を見つめていた。


「…………」


 とても、時間が長く感じられる。

 透子は待つ間深く深く反省した。


 自分は大地君が好きだ。

 千明という親友が、恋のライバルになったとしても、彼を想う気持ちは変わらない。

 かなり絶望的な状況だった。それでも、まだ諦められない。


 そういう状況……なのに。

 それなのに自分は、この老人のことを好きになってしまった。


 ありえない。

 ありえない。ありえない。ありえない。ありえない。ありえない。ありえない。ありえない。ありえない。ありえない。ありえない。ありえない。ありえない。ありえない。ありえない。ありえない。ありえない……。


 何度も心の中でつぶやく。でも、どうしてもその想いだけが消えない。

 吐きそうになる。全然、枯れ専じゃないのに。


 どうか、この人と会う前の時間まで巻き戻って。そう願わずにはいられなかった。


「…………」


 シザキさんは、悪い人ではない。

 それはわかっている。

 悪いのは心変わりした自分だ。


 透子は下唇を強く噛む。


 シザキさんは、とても魅力的な人だ。

 クローン人間だけど、恋愛感情とか友情とかもわからない人だけど、それでも一緒にいて嫌な気持ちにはならない。

 むしろ癒される。優しいし、仕事熱心だし。髪は綺麗で、体は大きいし。声もかっこいい。


 だから、惹かれてしまった。

 大地君にはない魅力を、すぐ側で、感じてしまった。


 自分はこんなに節操のない人間だったのか……と、自己嫌悪する。

 高校に入学して以来、透子はずっと大地君一筋だった。

 初恋だった。

 中学までは好きな人なんて、全くいなかった。だから、初めて感じたこの想いを、大事にしていきたかったのに――。


 じんわりと、目頭が熱くなる。

 これは「そう感じている」だけで実際は錯覚だ。でも透子は「あ、また泣きそうになってる」と思って、さらに悲しくなった。


 どうして一途に想い続けられなかったのだろう。


 この世界に来なければ。

 この人に会わなければ……こんなことにはならなかった。


 そう思い至った瞬間、透子は自分を、この世界に、この発電所内に召喚させたシステムを……激しく恨んだ。また、そのシステムを作った組織に対しても。


「もっと……もっとこの世界について、知らなくちゃ……」


 せめてそう決意する。


 自分は、まだまだ無知だ。

 この世界の事なんて、それほど知らなくてもいいと思っていたけれど、ここまで影響されたとあっては、もう黙っていられない。

 これ以上、振り回されないために。自分でどうにか他の解決策を見つけなくては――。


 手元の時計を見ると、もう五分が経過していた。

 シザキさんは寝てしまっただろうか。


 振り返ってみると、先ほどと同じように、穏やかに眠るシザキがそこにいた。

 もうあまり見ない方がいいのかもしれない。

 この老人の顔を見ているだけで、側にいるだけで、心がざわついてしまう。


 とりあえず、シザキが起きたらまたいろいろと訊かなくては、と透子は思った。

 それまで部屋の中をいろいろ見まわしてみる。


「マカベ・トーコ、警告しマス」


 と、突然、宙に浮いていたオーブが鋭い声で叫んだ。

 透子は驚いて身構える。


「なっ、何……?」


 警戒しながら見上げると、オーブはくるくると回りながら透子の目の前まで降りてきた。


「これ以上、シザキ・ゼンジに特別な想いを抱かないでクダサイ」

「はっ?」


 何も言っていないのに、「見抜かれた」。

 透子は、寝ているシザキに視線を移動させる。今の言葉を聞かれたのではと思わず不安になった。しかし、シザキは相変わらず目を閉じたまますやすやと眠っている。


「……大丈夫デス。睡眠レベルを測定したところ、シザキ・ゼンジは完全に熟睡していマス。我々の会話は聞こえていません」

「そ、そう……」


 透子はホッと胸を撫で下ろす。

 きっと、この思いを知られてしまえば、すぐにパートナーとやらの契約も打ち切られてしまうだろう。シザキは、そういう男だ。なんとなくそれはわかっていた。とても寂しい。そんなことになったら嫌だな、と透子は思った。


 オーブは、そんな透子の心を見透かすかのようにしゃべり出す。


「マカベ・トーコ。この時代ではクローン人間への不必要な接触、および特別な感情を持つことは法律で禁じられていマス。それはクローン人間への『虐待』デス」

「は? ぎゃ、虐待?」


 透子は思いもしなかった言葉に、耳を疑った。


「虐待って……ど、どういうこと? なんで、その接触……つまり触れ合い、とか、特別に親しくしたりすることが、虐待につながっちゃうのよ?」

「クローン人間は……そのようなことをする必要がないからデス。生まれた時から人としてではなく、機械のように、一部品として、感情をともなわない状態を維持することが義務付けられていマス。そのため、人間らしい対応をとられると、途端に不具合が出てしまうのデス」

「ふ、不具合って……? どんな」

「まずアイデンティティが崩壊しマス」


 オーブは無機質な、女性の声である。

 それはとても冷たい印象を受けた。


「自分が人間なのか、クローン人間なのか、わからなくなってしまうのデス。そうするともう、クローン人間としての仕事はまっとうできません。それは発電所の不利益となってしまいマス。デスから禁止されているのデス。また、一度人間になりたい、人間のような扱いをしてほしいと思ってしまったクローン人間は、そうしてくれる相手を永久に求め続けてしまいマス」

「…………」


 黒い球体の中心で青白い光が点滅する。


「クローン人間の寿命は恐ろしく長い、デス。それに付き合い続けられる人間は、統計的に見てもほとんどいません。誰も自分のことだけで、いっぱいなのデス。ゆえに、クローン人間の精神衛生上、そのような行為をすることは『虐待』とされていマス」

「そんな……」


 あまりに残酷な世界だった。

 人間として生きてはならないと、クローン人間たちは様々なルールで縛られているだなんて。透子は眠るシザキを見て、ひどく悲しくなった。


「シザキさんは……に、人間らしくいちゃいけないの? クローン人間として生きるために……友情も、恋愛感情も……知りたいってこの人は言ってたけど……それも、覚えちゃいけないっていうの?」

「はい。だから消去しましタ。以前の大きな悪影響も……」

「悪影響だなんて! そんな……それで……」


 以前いたというシザキの「友人」のことを思い出す。

 それが「悪影響」……。

 なんて扱いなのかと、透子は愕然とした。


「中には……消去、できないほど汚染されて、狂ってしまう者もいマス。その場合は、先ほどもお聞きになったと思いマスが……廃棄処分という処置になりマス。シザキ・ゼンジは記憶消去がうまく成功したため、現在も稼働してもらっていマス」

「汚染……? ひ、人らしくあることが……汚染?」


 透子はわなわなと肩を震わせる。


「友情も、恋愛感情も……す、素晴らしい感情よ! それが汚らわしい? 要らないもの、だなんて……そんなこと……」

「マカベ・トーコ。あなたは過去の、あなたの時代の価値観で物事を見ていマス。それは理解できマス。否定もしません。デスが……我々の不利益となることはやめていただきたい。シザキはベテラン作業員であり、貴重な労働力デス。彼を失うのは惜しい」

「そう……いうこと」


 透子はうつむきながら、ぶつぶつとつぶやく。


「シザキさんは……こんなところに、ずっと……」

「あなたが明晰夢の天使として、我々に協力してくださっていることは、とてもありがたく思っていマス。しかし、それ以上の不利益が確定した場合、警告を出すことにしましタ。マカベ・トーコ、今後もこのようにしてよろしいデスか?」


 一応確認という形で訊いてきてはいるが、実際は強制に近いものだろう。

 透子は険しい目つきでオーブを見上げた。


 透子は、彼にまだいろいろ教えてあげたかった。

 できたらもっと、触れあいたいとも思っていた。


 けれど――。

 オーブが言う通り、自分は彼をずっと見続けてあげることはできない。いつか消えてしまう存在なのだから。それに、シザキさんが最終的には困ってしまうのならば……やはりこのままではダメなのだろう。

 透子は、心を鬼にして言った。 


「……いいわ、警告し続けてちょうだい。そして、シザキさんのためにも、わたしのためにも……わたしの気持ちを止めてほしいわ」

「はい。本当に、よろしいのデスか?」

「いつかは……いなくなる身だし。シザキさんにもきっと迷惑をかける。わたし、それだけは嫌なの。だから……もうこれ以上、好きにならない。この気持ちは封印する。わたしは……わたしは現実の……そう、大地君だけが好きなんだから」


 オーブを見上げると、その目からはピンク色の光の粒が溢れた。

 それらがいくつも透子の足元に落下する。


 大丈夫。これは夢。

 いつ覚めるかわからないけれど、結局は現実ではない出来事。

 そこに、これ以上の気持ちを傾けるわけには……いかない。


 自分が好きなのは大地君。

 自分が好きなのは大地君。

 透子はシザキに背を向けたまま、その言葉を心の中で繰り返し続けた。

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