031 シザキ・ゼンジはわからなくなる
少女はずっと黙っている。
頬を赤く染めて。胸元で軽く両手を組んで。
手を前後に動かすと、その度に小さく震えた。
「…………」
少女の頭の上には、いまだシザキの右手が乗せられている。
先ほどとは完全に逆の立場だ。
先ほどはシザキが少女に撫でられて。今は、少女がシザキに撫でられている。
この行為にはやはり、多少は「癒す」効果があるらしい。
少女の涙はもう完全に止まっていた。
「…………」
手を動かす。
しっかりと触れようにも、ホログラムのような少女の頭には、霧のように指が埋没するだけだ。
それでも、たしかに「頭を撫でている」という行為は維持できている。
撫でながら、シザキもまた癒されていくのを感じていた。
体がどことなくリラックスしていく。
少女を見ると、いつのまにかこちらをじっと見つめていた。
「……ん?」
不思議に思って首をかしげると、とたんに視線をそらされる。
何か言いたいことが、あるのだろうか。
そういえば、わずかな間にがらりと印象が変わってしまったような気がした。
よく見ると瞳がまだ少し潤んでいる。シザキはなぜか、それを見てどうしようもなくいたたまれなくなってしまった。
胸が締め付けられるように感じる。
耐え切れなくなり、思わず少女に声をかけた。
「マカベ・トーコ、なぜ私を見ている」
「えっ? べ、別に……見てなんか」
やんわりと否定する。
そんな少女に、シザキはますます混乱した。
何か決定的に齟齬が生じている気がする。
少女はさらに視線をあちこちに移動させ、明らかに落ち着きを失っていた。その態度も、シザキにとっては不可解極まりないものだ。
ため息をついてもう一度訊ねてみる。
「もし、何か言いたいことがあるのなら……言ってくれ。そうでなければ、私が今こうしている意味がない」
「え? だから……特になにもない、って……」
「では訊くが。コレは君にとってメリットがあるか? それならばもう少し続けるが……無いのならもう止める」
「えっ、あ、えっと……。ま、まだ、止めないで……」
その声に、胸がずくりと痛んだ。
どこも負傷していないというのに。
ナイトメアに攻撃された時のように、重い衝撃が体に走った。
その感覚に戸惑いながら、シザキは再確認する。
「そう、か……デメリットはない、のだな。ではもう少し続ける」
「う、うん……」
少女は軽くうなづくと、彷徨っていた視線をまたこちらに戻した。
赤い瞳。
それは、夢エネルギーを多く秘めている証である。
その宝石のような瞳を、見据える。
やめないでと言われた。
ならば、これはなにかしらのメリットが発生しているということなのだろう。「癒し」を少女は得ている……そう仮に結論付けてみることにした。
「マカベ・トーコ」
「な、なに……?」
ふいに名をつぶやくと、少女は弾かれたように顔を上げる。
「私は……生まれて初めて、他人に頭を撫でられた」
「え? そう、なの?」
「ああ」
先ほど自分が体験したことを、伝える。なぜか、そうしたかった。
「戸惑いはしたが、悪い気はしなかった」
「そう。それは、良かったわ」
「ペットの場合は……撫でる側が癒されるらしいな」
「え? あ、そ、そうみたいね……」
「君も……私をそういう風に見て、そういう理由で撫でていたのだと思った。だが……まあいい。逆もまたそうなるらしいな」
「ぎゃ……逆?」
「ああ。撫でられる、私の方も……」
これくらいでもういいかと、手を止める。
そして少女の顔を真正面から見つめてみた。シザキは驚く。
少女の顔が、より赤くなっていた。
「どうした?」
「え、いや、別に……。し、シザキさんそんな風に……思って、たの? 癒されたんだ……」
「ああ」
「そう……」
「……なんだ?」
「あ、あの……わたし……シザキさんをペットみたいって、思って、撫でてたわけじゃ……なくて……」
なにやら口ごもりながら言う。
それから少女はギュッと目をつむった。
「わたしは……わたしは……ただ……」
そして思い切ったように顔を上げる。
「シザキさんの、長い、髪を……綺麗だなって……思って、触りたいなって……それ……で……」
「……何?」
意外な告白に、シザキは何度もまばたきをした。
「今……なんと言った……」
「だ、だから……! シザキさんの、髪が綺麗だなって。それで、ちょっと……撫でたくなっちゃったの。同意なく触ってしまったのは……その、悪かった。ご、ごめんなさい!」
申し訳なさそうに謝る少女を前に、シザキはどう反応すべきか迷った。
だがしばらく考えた後、結局思ったことを口にする。
「そうか。そんな理由……だったのか。私は勘違いを、またしてしまったのだな……」
少し、心の奥が寒くなる。
「自分の髪を綺麗だと……思ったことは一度もない。だが、君はそう感じたのか。そして……」
そしてまたきちんと、少女を見る。
「あのようなことを……」
「え? う、うん。すごく綺麗だなって。はじめて見た時からその……思ってたから。それにこんなに長いのにどこも痛んでないし。……もしかして、未来のシャンプーだから? やっぱりそれなりの効能があるのかしら」
シャンプーの効能など、シザキは憶えていなかった。そもそも気にした事すら無かった。だが、シザキは一応その言い分をありのまま受け止める。
「君は思い立ったら……すぐに行動してしまうのだな。後先も考えず……」
「え、えっと。結局、そういうことに……なっちゃった、わね……ご、ごめんなさい」
「それは……学術的な興味の範囲だったのか?」
「えっ、う、うん。そう……」
少女はさっきから、慌てたそぶりを見せている。
理由は判らない。歯切れの悪い回答が続くので、シザキは質問をさらに重ねる。
「そうか。では……他にも興味を抱いた箇所はあるか?」
「えっ……。ええっ?」
「他にも触りたくなったところがあるか、と訊いている」
少女はさらなる動揺を見せた。
困ったような、苦しむような、表情をころころと変えている。
また勝手に触れられたら敵わない、とシザキは思っていた。だから、前もって確認しておきたかったのだ。問われた少女は両手で口元を隠し、黙す。
「……あるのか。ないのか」
痺れを切らして言うと、少女はもごもごと口を動かしながら答えた。
「え、えっと……ないです。いや……やっぱりある、かな?」
「そうか。では……何をだ?」
「えっと、その……。お……おヒゲ……とか」
ゆっくり、少女の人差し指がこちらを指し示す。
口の上だけに生えそろった長めのヒゲ。自らのそれを軽く触ってシザキは訊き返した。
「そうか。これか……。今触るか?」
「えっ? えっと……」
またもや顔を赤くする。
なんなのだろう。少女の態度はまったくもってよくわからない。だが、シザキは思いつくままに言った。
「できれば、私の意識があるうちに……してほしい」
「え? いや、その……なんで……」
「寝ている間だと、色々と困る。だから、触れるなら今済ませてくれ」
「…………」
かなりためらっている。
ちらりと見上げる少女に、シザキは大きくため息を吐いた。
「埒が明かないな」
そう言って、シザキは強引に手袋に包まれた少女の手を取った。そして、自分のヒゲへと誘導する。
「えっ! あっ、し、シザキさん……!」
少女はびくりと体を震わせた。だが、相変わらず指を全く動かさないので、シザキが代わりに動かしていく。
ヒゲの上を、少女の指が上下に移動する。
無言でそれが続けられる。
少女の反応をずっと確認してみたが、嫌がるそぶりはなかった。
「どうだ。満足したか?」
一分ほどしてから、手を離させる。と、その拍子にうっかり唇の端が指に触れてしまった。
少女は、ぴたりと手を止めて息を飲む。
己の唇の端が、なぜか妙に熱く感じられた。
「あ、そ、その……し、シザキさん。もういい! あ、ありがとう……」
ぐいと引かれて、手が振りほどかれる。
わからない。
今の感覚はいったいなんだったのだろう。
わからない……。
たまたま触れただけなのに、なにかそれが特別なことのように感じられてしまった。
単なる、確認作業にすぎなかったというのに。
気のせい。
シザキはそう自分に言い聞かせた。
「満足したのなら……もう今度こそ私の睡眠を邪魔しないでくれ。では、もう寝る」
そう言い置いて、さっさとベッドに横になる。
残された少女はくるりと背を向けていた。
そうだ。そうしてもう、ずっとこちらを見ないでいてほしい。
「おやすみ。マカベ・トーコ……」
仰向けのまま、先ほど言われた、眠りの前のセリフを同じように口にしてみる。
すぐに目を閉じた。
もう、遠隔監視機能は使用しない。少女がこれからどうするかなど……もう見たいという気持ちはなかった。
眠れば、きっとこの状態異常も回復する。
眠れば、そう……忘れられるはずだ。
このわけのわからない感覚を。
シザキはそれを消すために、無理やり自分の意識を、遮断した。




