030 真壁透子は三角関係になる
透子は尿意を感じて、起き上がった。
ふらふらと歩きながら、先ほどの夢を思い出す。未来の……200年後の世界のことを。
「ホント……バカすぎ。わたしいったい、何を……」
まさかあの人が起きているなんて、知らなかった。
それなのに自分はのうのうと髪を撫で続けてしまった。なんであんなことをしたのかわからない。自分が嫌で嫌で吐きそうになる。
透子が共同トイレに着くと、自動的にライトがついた。
センサーで点灯してくれるのでとても助かる。
正直、今も強烈な眠気が襲ってきており、かろうじて意識を保っているような状態だった。だからスイッチがどこにあるのかも、どうやってそれをつけるのかも、いちいちゆっくりと確認できない。
用を足し終えて、立ち上がる。
水洗も自動センサーで流れる。
透子はまたふらふらと自分のベッドへと戻った。途中看護師が自分に気付き、夕食を持ってきてくれることになった。
すぐにまた眠りそうになるのを耐え、食事が用意されるのを待つ。
夢の世界に戻ったら、あの気まずい空気に逆戻りだ――。
シザキにどう言い訳しようか、そう思うがまだ何も対応を考えられていなかった。まだ、起きていなければ……と透子は気合を入れる。
ぼやけた視界の中、病室の窓に分厚いカーテンがかかっているのが見えた。
部屋の照明がついているので、きっと今はもう夜なのだろう。そうだ、さっき看護師が「夕食」と言っていた。やはり、それだけ時間が経過しているらしい。
あまり食欲はないが、食べないと……そう思っていると途端にぐうと腹が鳴った。
卵かけご飯。
卵かけご飯を食べたいと思った。
シザキさんに食べさせたあのご飯を。
「ああ……なんで、わたし……こんな……あの人の事……考えてるんだろ……」
シザキさん、シザキさん。
夢の中にいた老人の名を、小さくつぶやいてみる。
透子はそのあいだ、一切大地君のことは考えられていなかった。ずっと夢の中で一緒だった、あの顔が何度も脳裏にフラッシュバックする。
「真壁さん。はい、ゆっくり食べてねー」
ベッドの上に簡易テーブルが設置され、トレーに乗った夕食が置かれた。
透子は目で、言外に一人で食べられるとアピールする。
「あ、じゃあ、食べ終わったら適当にそのままにしておいて。後で取りに来るからねー」
そう言って、看護師は去っていく。
透子はおかゆと、軟らかそうな魚の煮物、コーンスープをゆっくりと口にした。
母は家に帰っているのだろうか。父はまだ仕事から戻らないのだろうか。
ひとり、食事をしながら考える。
だめだ。
一口ごとに強烈な眠気が襲ってくる。
でも、まだ夢の中に戻りたくない。戻ったら、あの人に理由を説明しないといけない。
わたしは……わたしは大地君が好きなのに。
大地君が好きなのに。
そう何度も自分に言い聞かせるようにして、咀嚼する。
「また……お見舞いに来てくれる……のかな。ああ、でも、この姿じゃ……」
さっきトイレの鏡で自分を見た。
頭がぼさぼさで、目やにもひどく、なんとよだれのあとまでついていた。こんなの女の子として終わってる。洗面所でもあまり身なりを整えている余裕はなかった。それはこれからも……だろう。
またお見舞いに来られたら、これを間近で見られてしまう。そんなのは嫌だ。
透子は母親あてにメモを残そうと思った。「家族以外の面会は断って」そう書きたかったが、メモもペンも近くに見当たらない。
そうこうしていると「こんばんはー」と若い娘の声がした。
病室の入り口に見慣れた顔を見つける。
「千明……」
「あっ、透子! 起きてたんだね、良かったー!」
それはクラスメイトの横川千明だった。
「ねえ、お母さんは? 透子だけ?」
きょろきょろとしながら辺りを見回す千明に、透子は眠い目をこすりながら言う。
「うん、今は……いない。家に、帰ってるんだと思う……」
強烈な眠気が来て、透子はぐらりと枕に体を落下させる。
「ちょっ、透子!」
「大丈夫。眠い……だけ……」
ナースコールのスイッチをとっさに押そうとした千明を、透子は眠気を押し殺しながら止めた。
「でもっ」
「ごめ……せっかく……なのに、眠く……て、もう……」
すでにうまく口が回らなくなっている。
まぶたはもう完全に降りきっていた。
千明の心配そうな顔が残像として目に焼き付いている。意識はまだあるが、もう何も反応してやれない。それが、透子はすごく残念だった。
「透子……ねえ、寝ちゃったの?」
千明は確認するように訊いてくる。
ごめん眠い。
眠いんだ。ごめん。ごめん……。
もう、それしか考えられなくなる。
「透子……? 寝ちゃったなら、仕方ないけど……」
あと一歩で、夢の世界に落ちそうになる。
意識を手放そうとしたその瞬間、信じられない言葉が聞こえてきた。
「あのさ……透子。こんな病気になってるときに悪いんだけど……ね。わたし、大地君のこと本気で……好きになっちゃったんだ。前から言おうと思ってたんだけど、なかなか言えなくて……。で、さすがに今日言っておかなきゃって、思って。でも……また違う日に」
* * *
「はっ……?」
戻ってきた。
目の前には、横になって目を閉じているシザキがいる。
透子は荒く呼吸を繰り返した。
嘘だ。嘘だ。だって……。
千明は自分の恋を応援してくれていたじゃないか。それなのに……なんでいまさら……。
まだ心臓が暴れている。
信じたく、なかった。
友達が心変わりをした。いつから? 最近? それとも自分が大地君を好きになる前から? わからない。あまりのことに気持ちがまるでついていけていない。
しかも……。
自分が病気になって入院している時に、それを告白してきた。
そんなの、自分がいない間に学校でどうにかなっちゃうかもしれない。「ぬけがけ」そんな言葉が頭によぎる。
「うっ……ううっ……」
思わず涙が出てきた。
透子は手袋に包まれた手を顔に当てたが、涙はピンク色の光を出してすぐに消えていく。
「マカベ・トーコ……? 戻ったか……」
声がしたので見下ろすと、なんとシザキが起きてきた。
体を起こす様子にハッとして後ずさる。
シザキは離れた場所に移動していくこちらをじっと眺めていた。
「どうした? 泣いているようだが……」
「あ、これは……別に……」
「先ほどの理由だが、言いたくないならばいい」
「え? えっと、そうじゃなくて……」
何を勘違いしたか、自分たちのやりとりについて泣いていると誤解されたらしい。透子は涙を拭って、きちんと説明することにした。
「ち、違うの。現実に……現実に戻った時にちょっとね」
「そうか」
「うん。わたしが……好きな人、大地君をね、わたしの友達も好きだって……告白されたの。それが……ちょっとショックで……」
「ショック? 誰がその男を好きでも、さして変わらないだろう。君はその男を恋愛面で好きになり、そしてその相手も君を同様に好きでいる……そこに問題は何もないはずだが」
起き抜けであるにもかかわらず、シザキはそう冷静に分析してきた。
透子は強く首を振る。
「違う。違うの。わたしは……しばらく眠り続けてしまう病気になってる。だから……その間に大地君は、心変わりしちゃうかもしれない」
「心変わり?」
「そう。きっと……ずっと眠ったままの女の子なんてつまらない……だからすぐに飽きて、好きじゃなくなっちゃう……と思う。普通の、健康な女の子に好かれてた方が……大地君だって……」
自分で言って、また悲しくなってしまう。
涙が溢れてくるが、透子は構わずに言った。
「そんなふうに……ふ、不安になってるのは、きっと……わたしが大地君からの恋愛感情も、信じられてないし……千明の友情も信じられなくなってるから……なの……。そんな、バカなわたし……それが、一番……嫌!」
透子は、そう言い切った。
言わないで心の中に貯めこんでおけば良かったのに、出し切って、心の内を全部さらけだしてしまった。そしてその反動で、哀しい気持ちがますます止まらなくなってしまう。
ひざを折り、床にへたり込む。
どこから出るのかと言うくらいの大声で、泣き続けた。
このフロアには自分たちしかいない。それは、知っていた。けれど、一つ下の部屋の住人はうるさいと感じているかもしれない。
でも、止まらない。止められない。
「あああああっ! あっあっあっ、うあああああっ! なんで、なんでええええっ!」
あとからあとから涙が溢れてくる。
泣き叫びながら、視界はきらきらとピンク色の光に覆われていった。眼前と、ひざの上と、床一帯が淡いピンク色の光で満たされていく。
強く目元を押さえていたので、指の間からしか視界がなかったが、まばゆい光の中で大きな手が突然こちらに突き出されてきた。
「ううっ……え?」
手をどけて、見上げると、なんとそれはシザキの手だった。
シザキが透子の頭を撫でていた。
「な……」
何も媒介となるものがないので、その手は、透子の髪や頭部を一部すり抜けている。だから今まで何の感触も感じられていなかったのだ。
それは……現実世界に戻る前の自分と、同じ行動だった。
「あ、あの……シザキさん?」
「こうすると、『癒し』を感じるか」
「えっ?」
「先ほど……私に君がしていたのは癒しを得る行為、だったのだろう? ペットを撫でると……撫でた方も、撫でられた方もそう感じるとあった。参考資料には、人に対する場合については書かれていなかったが……どうだ? 癒しを感じるか」
「…………」
透子は言葉を失った。
そして、その声と手と……いたわりを最大限感じて、思った。
ああ、わたし、この人のことが好きだ、と。
ここで発症編は終わりです。
次は心変わり編になります。




