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027 真壁透子は不覚にもドキッとする

 食堂から社員寮の方へ移動すると、見覚えのある所に出た。


 左手の壁の上部に「大浴場」と書かれた看板がある。その下には、二か所の入り口。そして「女湯」「男湯」と書かれたのれん。


 透子が前に訪れた時は誰もいかなったが、今は先に行った作業員たちでいっぱいだった。誰も彼も湯上り姿で、ぞろぞろと外へ出てくる。彼らはかっちりとした黒い作業服から、白いシャツとズボンとに着替えていた。


「マカベ・トーコ。私もこれから入浴をしてくる。君は……」

「大丈夫、ここで待ってるわ」

「そうか……」

「ええ。行って」


 シザキは躊躇いがちにこちらを見ていたが、透子は手を振って追いやる。

 いまさらどこかへ行く気はない。それなのに……何を気にしているのか。


 透子は、それよりも彼らの生活が気になりはじめていた。

 他の作業員たちは靴音を響かせて廊下の奥へと消えていく。あの先は、たしか各部屋に続く階段だ。


 クローン人間たちは毎日ここで暮らしている。それがどのような暮らしぶりなのか、来たついでにじっくり見ていこうと思っていた。


 シザキは踵を返して、浴場の入り口へと向かう。

 男湯と女湯の間の壁の前に立つと、突然その壁に「四角い穴」が開いた。

 シザキは所持していた装備品をすべてそこへ納める。肩に下げていた長銃と腰の短銃、額に着けていたゴーグル、防弾ベスト……すっかり入れてしまうと、穴はシュッと音を立てて閉じた。


「お疲れ様でしタ。装備品はメンテナンス後、各部屋へ送り届けておきマス」


 電子的な女性の声がする。

 これは、改札前の壁と似ている、と透子は思った。

 あれもたしか似たような造りだった。滞留者たちが殺到していたあの壁――。


 シザキはなぜかちらりとこちらを振り返り、何も言わずに男湯の方へと移動していってしまった。


 なぜ、一瞬こちらを見たのだろう。

 透子は疑問に思う。

 もしかして「君も風呂に入るといい」というような合図だったのか?


 しかし、透子は汗をまるでかいていなかった。

 疲労も感じていない。

 それが、きっとこの世界での自分の有り方――なのだろう。


 シザキは、透子の体は「精神体である」と言った。

 肉体がないというのは、つまりそういうことなのだろう。


 かつて流した涙は、床に当たった瞬間に消えた。ということは、汗も気づかないうちにどこかへと消えていっている可能性が高い。

 匂いは……わからない。

 くん、と鼻を自分の脇に近づけてみたが、何も感じられなかった。


 この世界の人間のように、風呂に入る必要はないのかもしれない。それは、あくまでも透子の予想だったが、今の自分は普通の人間ではないのだから生活の仕方もきっと普通ではない、と想像するのは自然なことだった。実際、お風呂に入っても、何も変わらないような気もする。


 透子はまた思い返す。

 あの視線はいったいどういう意味だったのか……。


 いくら考えてもわからない。なので、透子はもうあまり気にしないことにした。

 おじいさんのことをあれこれ考えても仕方がない。


 待っている間にせめて身だしなみだけでも整えておこうと、透子は目の前に赤い手鏡を出現させてみる。


「……あれ?」


 見ると、なんと髪型も全く崩れていなかった。

 風の干渉も受けつけないらしい。

 手袋をつけた手で触ると、少しだけ髪の毛の先を動かせた。


「ははっ、これもこういう仕組みなんだ。じゃあええと……こんなもん、かな?」


 納得いくように髪型を整えてみる。

 透子は終わるとパッと手鏡を消した。

 たいした変更はなかったが、こういうのはなんというか気持ちの問題である。見た目に気を配るのとそうでないのとでは、女子としての意識がまるで違う。


 その後はしばらく暇を持て余しながら、シザキを待った。


 ちらりと浴場の反対側を見てみると、大きなガラス窓がたくさん並んでいる。その向こうには、暮れていく街並みが影となって映っていた。

 巨大なビル群に明かりがたくさんついている。ということは、あちら側は廃墟ではないらしい。


「発電所は……どこまでが発電所なんだろう。あそこのビルには、シザキさんたちが食べていたようなものじゃない……ちゃんとしたご飯を食べてる人たちが、住んでいるのかしら」


 いろいろと、この時代の事に思いを馳せてみる。


 夢を見ている間はずっと、ここで過ごしていくしかない。

 もしシザキについて行かなければ、透子は今頃あの誰もいない廃墟だらけの真っ暗な空間にいなければならなかっただろう。

 ナイトメアにいつ遭遇するかもわからず、一人で恐怖に震え続けていた。


 滞留者……と呼ばれる人たちは、そんな発電所内に住んでいるという。

 ということは、誰もがそんな風にして暮らしているのかもしれない。

 どんな住処なのだろうと想像してみる。おそらく、あんなきちんとしたビルではないだろう。廃墟……というしかない場所だとしたら……きっといつでもナイトメアと隣り合わせの生活だ。それは、本当に大変な暮らしだと透子は思った。


「あの眼帯男……どうしてるかな。なんかいろいろと言われたけど……できればもう会いたくはないなあ」


 シザキや自分にかなりしつこく絡んできた、あのジョーとかいう男。

 何かシザキと深い因縁があったようだが、結局詳しいことはわからなかった。


「以前の明晰夢の天使……か」


 シザキに見せてもらった映像の中にいた、女性。

 あの人物がどうやら関わっているらしい。

 ふと彼女の裸を思い出しそうになって、あわてて意識を他に向けた。シザキさんと、ジョーという滞留者。二人はその人物のために今の険悪な仲になってしまったらしい。


 いったい、何があったのだろう。


 それは……いつかこの世界から消える透子には、あまり関係のないことだった。

 できれば、二人とも仲よくしてほしいと思う。

 けれど、透子は所詮一時的にこの世界に存在しているだけの人間だった。あくまでもお客さん、なのだ。


「…………」


 自分もシザキも不幸になると、あの眼帯男に言われた。

 だったらこれ以上関わったらダメなのかもしれない。シザキのことをいろいろ知っていくことも、本来ならやめなければならないこと……なのだろうか。


「ビジネスライク、か」


 透子はふう、と大きく息を吐いて、浴場の方を振り返った。

 そろそろ戻ってくるかもしれない。


 そう思って顔を上げると、すでにそこには入浴を終えたシザキが立っていた。


「えっ……」


 驚いて目を見開く。

 ポタリ、と――。濡れた前髪から一滴、雫が垂れていた。

 シザキのシャツの胸元にそれが落ちる。それは水の丸いシミを作り、すぐに他の乾いた部分へと広がっていった。


「シザキ、さん……」


 筋肉質な上半身が、麻のような白い服の中に窮屈そうに収まっていた。

 半袖の先からはたくましい腕が伸びていて、その先は首にかけられた白いタオルの端を掴んでいる。

 Vネックに太い鎖骨が見え、なんともいえぬ色気が――。


 ぶんぶん、と透子は勢いよく首を振る。危ない。


「ん? どうした?」


 不思議そうにシザキがこちらを見ている。


「べ、別に……」


 透子はなぜか顔が熱くなってどうしようもなくなり、そっぽを向いた。

 シザキはタオルを頭に載せ、乱雑に髪を拭きはじめる。 


「待たせて……悪かった」


 そう言って、タオルの隙間からこちらを見つめてくる。

 その視線に透子は無性にいたたまれなくなった。


「あ、そ、そんな……別に遅かったとか……怒ってないわ」

「そうか」

「ええ」


 シザキは透子の約1メートル先に立っていた。

 けれど身長がとても高いので、すぐ近くに立たれているように感じる。

 透子は妙に胸が高鳴っていることに、戸惑っていた。


「なんで……」

「ん?」


 違う。

 こんな反応は「違う」。

 わたしは別にこの人を「男の人」として見てるわけじゃない。なのに……なんで、こんな。


 動悸がしているという事実を、必死に否定した。

 違う。

 違う、違う、違う、違う、違う。

 どうにかして気持ちを落ち着かせようと、大きく息を吸う。


「どうした、体調が悪いのか?」

「へっ……?」

「何かのウィルスに感染したり……。そういうことはこの世界での君には起こりえないはずだが。まさか、現実世界でなにか異変が……?」

「べ、別に、そういうことでもないわよ!?」


 透子の様子に、シザキは妙に心配しはじめた。

 だがいらない心配なので、透子は繰り返し否定するしかない。

 シザキの真上を飛んでいるオーブがなぜか補足してきた。


「シザキ・ゼンジ。マカベ・トーコの精神体に異常はありません。現実世界でも体調面に大きな変化は見られません」

「そうか、私の気のせいだったか……」

「そ、そうよ。わたしのことは……その、いいの。それよりシザキさん、これから部屋に戻るんでしょ?」

「ああ……」


 透子はなんとかごまかそうとした。そして、うまいこと話を逸らせることに成功した。


 変な勘違いをされては困る。

 だって自分は大地君が好きなんだから。シザキに対して変な気持ちになっているなんて……知られたくない。それに、自分自身もそんなことになっているなどとは信じたくなかった。


「そういえば、臨時の部屋があると指示されていたな。そこへ案内してくれ、オーブ」

「了解しましタ」


 オーブはくるくると回ってから、廊下の奥に飛んで行った。

 それを追いかけようとした矢先、前を歩いていた老人が振り返る。


「え? 何、シザキさん」

「いや……。その、君はこの後も私について来るのか?」

「へっ?」


 ほんのりと血色の良くなった顔を向けられて、透子はハッとなった。

 たしかにその通りだった。いつのまにか自然とついていく気満々になっていた。だが、良く考えてみればとんでもないことをしようとしてたように思う。

 一応男と女である。シザキはクローン人間とはいえ、間違いがあっても――。


 ぶんぶんと、また強く首を振る。

 またこれだ。間違いって何。


「……そ、そうね。他に行くところもないし……そうしようかと思ってたわ。でも、シザキさん……邪魔よね? わたしがお部屋に行ったら」

「まあ、そうだな」

「うっ……」


 即座に肯定されて、透子は傷つく。


 そう、当たり前のこと、ではあった。

 シザキはもともとついてきてほしいなんて言うようなタイプじゃない。

 そもそも薬で性欲をコントロールされている「クローン人間」なのだ。若い女性が部屋に来ることなどこれっぽっちも喜ばないだろう。間違いだって起こるわけがない……。


 自分はいったい、何を期待していたのだろう。


 期待?

 いや……違う、と透子は否定する。違う、違う、違う!


「オーブ。そういえば、マカベ・トーコ用の部屋はあるのか?」


 透子がパニックになっている間に、シザキはオーブにそう問いかけていた。


「部屋は……ありません。この施設内には『明晰夢の天使』用の部屋は存在していません。野生動物や滞留者を保護するための軟禁室、またはナイトメアの研究用ケージならありマスが……そこへ案内しマスか?」

「どうする、マカベ・トーコ」


 訊かれて透子は思い出す。

 あのミズサワ・レンと再会した場所……あそこは何もなく、紫色のライトで明るく照らし出されているだけの部屋だった。あそこが、軟禁室や研究用ケージと呼ばれるところなのであれば……いや、あそこだけは避けたかった。


 透子は真顔で答える。


「嫌。あそこは……誰もいないもの。外で独りでいるのと同じ。だから……」

「そうか。では……」

「ごめんなさい! 迷惑は、できるだけかけないから! だからその……シザキさんと同じ部屋にいさせてください!」


 深くお辞儀をしながらそう叫ぶ。

 シザキはそのお願いにしばらく絶句していたが、一度だけまばたきすると言った。


「君は……この世界では、睡眠をとる必要が無い。だから、私の部屋に来ても君用のベッドは用意できない。眠る必要がないからだ。その代わり、私は勝手に寝させてもらう。それでもよければ……」

「ええ、いいわ。それでいいから。だから……」

「……わかった。では、オーブ」

「はい、案内をいたしマス」


 そうしてオーブ、続いてシザキ、そして透子が一列になって歩きはじめた。

 この先には幅広の階段がある。

 元のシザキの部屋は、その階段を上って最初のフロア、二階だった。


 今夜はそこではない臨時の部屋となる。そこはいったいどこなのか。


 透子は歩きながら、シザキの後姿をじっと見た。

 がっちりとした大きな背が歩くたびに左右に揺れている。


 透子はひそかに、己の胸を高鳴らせていた。

 あまり、じっと見つめないほうがいい。そうわかっていながら、なぜか目がそらせない。


「…………」


 濡れた長い後ろ髪が背中の服を濡らしていた。

 ドライヤーはなかったのだろうか。

 他の作業員はこんな風ではなかったので、きっと髪を乾かすものは浴場の方にあったのだろう。


 それなのに、なぜ――。

 透子はそれも不思議だったが、ある可能性を考えて一気に顔が熱くなった。


 もしかして。

 もしかして……自分を待たせないように急いで来たのか? だから、濡れたまま――?


 透子は思わず片手で口を覆った。

 実体がないはずなのに、心臓が勢いよく跳ねている。まずい。なんでこんな。


「ち……違う、違う……」


 シザキに聞こえないように、透子は小さく手の中でつぶやいていた。

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