013 真壁透子は発症する
「起きなさい! 起きなさいってば、透子! お願い起きてっ!!」
誰かの必死な声が聞こえる。
透子はまぶたを開けようとするが、強烈な眠気のために、まったく動かすことができない。
そのうちペチペチと頬が叩かれた。
まぶたはもちろん、口も、手足も動かすのがひどくおっくうになっている。
まどろみの中、とある女性の声だけが聞こえていた。
「ああ! ああ、どうしよう! 昨日からなんか様子がおかしかったのよね……。もしかして、脳に異常でもあるのかしら。脳梗塞とかだったら……ああ、救急車! 救急車っ!」
女の人の声。これは……母だろうか?
透子の頭はようやく少し覚醒してきて、わずかに目が開けられるようになってくる。だが、相変わらず視界はぼんやりしていた。いつもとは何かが違っている……そんな状況に、透子はだんだん不安になってくる。
母らしき人は情報端末機を操作して、どこかに電話をかけはじめた。
「……はい。はい、そうです。娘なんですが……ええ17歳です。今朝からです。どんなに激しく起こしても目を覚まさなくて……あ、昨日の夜から、ですかね。え? 今ですか? はい……あっ! 今、少しだけ目を開けてます。はい、はい。では、声をかけてみます……」
誰かと話していた母は振り向くと、急にこちらを向いた。
「透子、大丈夫? どこか体調が悪い? もう9時よ? 学校には連絡しておいたけど……あの、どこか悪いなら言いなさい。眠いにしても……ちょっとあなたおかしいわ」
母の声に、透子はぼんやりとした意識のまま考えた。
自分に何か異常が起きているのだろうか。いったいなにがあったのか。ここは……家? 今はいったい何時だろうか。
だが、考えようにも、ものすごく眠たくて透子は何もしたくなくなっていた。
口をむにゃむにゃと動かしながら、かすれたような声をしぼり出す。
「母、さん……ごめん……眠い。もう少し寝かせて。わたしどこも痛いとか……ないから……だから、たぶん大丈夫。ちょっとだけ……寝る。というか寝たい、寝かせて。もうちょっとだけ……。おやすみ……」
そう言いながら、またまぶたを閉じる。
「ちょっと、透子! ダメ! ああ、どうしよう。まだ救急車は来ないの?」
母はついに救急との通話を切ったようだった。代わりに違うところにかけ始める。
「ああ、あなた! ちょっと大変なんです。透子が……ええ。ちょっと様子がおかしくて……全然起きないんです。はい。救急にはもう。はい、そうですね。あなたはお仕事ですし……はい、任せてください」
あなた、と母が言っている。ということは電話の相手は父のようだ。
透子はこんなときにでも妙に「いい夫婦だな」などと思っていた。お互いに信頼し合っていて、いつでも助け合う夫婦。こんな夫婦に、自分もいつかなりたい。
そう……大地君と。
透子の意識は、そこまで考えたところでまた深い夢の世界へと落ちていった――。
* * *
気が付くと、またシザキ・ゼンジのいる部屋だった。
白髪のおじいさんと、宙に浮いている黒いボールが見える。首をめぐらせてあたりを見回そうとするが、なぜかまったく体を動かすことができなかった。
「え? なんで? わたし、どうして動けないの?」
そのようにしゃべったつもりが、口も動かせていなかった。
ただ、声が出たような錯覚に陥っただけである。
透子は、首や視線を動かそうと何度も試みてみたが、どうしても動かせなかった。
「くっ……!」
やがて、そのまままた視界がブラックアウトする。
* * *
透子はまた現実に戻り、目をゆっくりと開けた。
救急隊員がすでに部屋に到着している。透子は近づいてきた隊員にまぶたを全開させられ、まぶしいライトを照射された。透子は思わずそれを手でさえぎる。
「おっ、反応ありましたね。お母さん、どうやらこの子はそれほど重篤ではないようです。少なくとも脳梗塞などは……。ええと、たしかお名前は真壁透子さん、でしたよね?」
「はい」
救急隊員と、母の会話が聞こえてくる。
「では……これから一応病院にお運びします。詳しい検査などはそこでしてもらいますが……過去に似たような症状になったことは?」
「いえ、こんなのはじめてです。ずっと健康が取り柄な子だったんですよ」
「そうですか……。ではいったん下に運びます。受け入れの確認がとれるまでは、車の中で少しお待ちいただきますが、よろしいですか?」
「ああ、はい。よろしくお願いいたします」
透子は、血圧など様々なチェックを終えると、救急隊員に背負われて階下に運ばれていった。
どこも悪くないのに。ただ眠いだけなのに。
そう思いながらも、それでもうまく体が動かせないことに不安を抱きはじめる。
十数分後、用意が整うと、救急車はあわただしく発進していった。
透子の意識はそこでまた途切れる。
* * *
目覚めると、またシザキの部屋だった。
今度は視線も体も動かせる。ハッとしてシザキを見ると、透子は叫んだ。
「あの! ねえ、わたし……今、変じゃなかった!?」
おそるおそる訊くと、神妙な顔をしたシザキが口を開く。
「ああ。君は今、エラーを起こしていた。それにより、現実世界にもいろいろな影響が出たようだ」
「影響……って?」
「君は、君の世界で……とある病、睡眠障害を発症したようだな」
「え? どういうこと? 睡眠、障害?」
病。ということは、あの現実でのことは嘘ではなかったようだ。
あれも夢なのではと一瞬思ったくらいだったが、救急隊員が来たり、うまく起きられなかったのは本当に起きていたことらしい。透子はさっと血の気が引いていった。
「あの……わたしが……病気に?」
「そうだ。オーブが検索した記録によると……クライン・レビン症候群というものを発症しているらしい」
「なに、それ……」
顔面蒼白になりながら訊き返す。
「クライン・レビン症候群だ。君は、ナルコレプシーという病気は知っているか?」
「なるこ……。そ、それって……!」
透子はその名を聞いてハッとした。
たしか、昨日の保健室の先生も同じ名称を言っていた気がする。
「そ……そのナルコレプシーが、何なの?」
「ナルコレプシーは強烈な眠気に襲われて、突然30分ほど眠ってしまったりする病気のようだ。そしてそれは継続して何度も起こるものらしい。一方、クライン・レビン症候群は、同じような強い眠気に襲われ、3日から3週間という長い時間眠る……別名『眠れる森の美女症候群』などとも呼ばれているようだ。君は……その病に侵された」
透子はわなわなと身を震わせた。
「そ、それって……本当なの? クラインなんとかっていう病気に、わたしがなったなんて……嘘でしょ?」
「いや。過去の記録をオーブが調べたから、それは確かだ」
「過去の記録って……わたしのいる時代のこと? どうやって」
「病院の記録だ。それと……先ほどから君の体は完全には消えず、意識だけ現実世界に戻っていた。それは、元の時代でも意識が完全に覚醒していない証拠だ。間違いない。君は現実世界でその病にかかり、かつその時代に完全に戻れなくなってしまっている」
「え……嘘っ。じゃああの光景は……そんな……」
透子は思わず両手で耳を押さえた。
愕然とする。ならば、もう現実世界で目覚めることはないというのか。
「どうして……どうしてわたしがそんな……」
「動揺しているところ悪いが、影響が出たのは君だけではない。私たちの世界でも……異変が起きている」
「……異変?」
「ああ、これを見ろ」
シザキはつかつかと歩くと、部屋の扉を開け放った。
そして透子に外の光景を見せる。
「こ、これは……」
そこは建物内の「通路」があるはずだった。けれど、今そこに「通路」はない。
代わりに広がっていたのはどこまでも続く「森」だった。




