時雨の化
しとしとしと。
今日も上から水が落ちてくる。
おとうやおかあが言うには水が止んだら、世は終わるとさ。止んだことがないから、世は終わらんのだとさ。
水があればうちらは生きていられる。水がなくなると死ぬ。手を見ればわかる。うちらは水が薄膜に型どられて生まれた生き物。ウジンと呼ばれる。うちらの体は水でできていて、いつも上から落ちてくる水を仰いで飲んで、生きている。
水は日によって色んな味がする。水の中で色鮮やかに咲く花から出る蜜のように甘い水、その花の茎を噛んだときのような苦い水、香りが強い草花のように辛い水。色んな水の味があり、当然みんな、好き嫌いがあるけれど、それでも毎日水を飲む。だって飲まないと死んじゃうから。
薄膜一枚の中に水を注いでできたうちらウジンは、体の水が減れば次第に縮んでいく。年嵩のいったウジンは薄膜が弱って少しの水に打たれただけで薄膜が破れて水が出ていくから死んじゃう。他にも、生まれつき薄膜の弱いやつとか、病気になったやつとかも、やはり最期は薄膜が破れて死ぬ。
病気。それは上から落ちてくる水がもたらすものだ。落ちてくる水はうちらにとっては生きるために不可欠なものだけれど、災いももたらす。水は基本的に色がない。ところが時々、黒くて赤い、味のない水が落ちてくる。それがウジンの薄膜を弱らせ蝕む病をもたらすのだ。
病はケツウと呼ばれ、数あまたのウジンの命を奪ってきた。けれど、水が止んでしまうことに比べたら、なんてことないのだ、とおばばは言っている。
ケツウを避けるのに、うちらは水で育った黒い木を重ねて、家を作っている。黒い木は水を通さず、それでいて丈夫。
自分の家があっても、ウジンは家の中にはほとんどいない。いるのはケツウの水が降るときだけだ。ケツウになるともう治らず、死ぬのを待つだけだから、それが怖くて家にこもる。しかし、あまりに長い間こもっていると、体の水がなくなってきて、それこそ死んでしまうから、ケツウ以外のときはずっと外。そうしないと死んじゃう。
ウジンの薄膜は色んな色をしているけれど、元々のウジン──原初のウジンのカンダチさまは透明な薄膜だったという。
ウジンは、水の中より出で、水の中に還る。おばばがよくそう言っている。うちにはおとうやおかあやあんちゃんおねえなど、家族がいるけれど、みんな違う水の中から生まれた。おとうは辛い水、おかあは苦い水、あんちゃんは味のない固い水、おねえは甘い水から生まれてきたんだって。でもなんでみんなが家族かっていうと、同じ家の中に水避けに入ったからなんだって。
うちはどんな水から生まれたのか知らない。別に、知りたいわけでもないし、自分の生まれを知らないウジンは他にもいる。稀らしいが。
ウジンは生まれて一番最初に自分の生まれた水の味を知る。そりゃ、一番最初水は生まれたその瞬間に落ちてくるんだから当たり前だ。だからみんな、自分がどんな水から生まれたのか知っている。
うちは何故かそれを覚えていない。一番最初、一番最初、と一所懸命思い出してみようとするんだけど、どうしても、浮かんで来ない。別に無理して思い出すほどのことでもないよ、とおねえに言われて以来、気にしないようにしている。生まれを知らなくて死ぬわけでもなし。
ただ、生まれを知らないウジンは、他のウジンからよくからかわれる。ゾバエとか、キツネとか。
キツネは世にいるウジン以外の生き物だ。薄膜だけのウジンと違って分厚いふさふさの毛が全身を覆っており、手足が短く、四足で歩く獣だ。耳がぴん、と頭の上に立っていて、目は円ら。その顔は愛らしいのだが、ウジンしかいない世では、異形のものとして煙たがれる存在だ。こんこんだか、くんくんだか、そんな具合にしか喋らない。うちは面白い生き物だと思うけれど、一般的なウジンたちには異なるもので忌み嫌われている。
キツネは異の世から来たものとされている。うちらの住む世と別に存在する世から間違って来てしまったのがキツネなんだと。キツネが忌み嫌われるのは、キツネが来たことで異の世とこの世が繋がってしまい、異の世のコトワリが世に流れ込むと世が乱れてしまうからなんだ、とおばばが言っていた。簡単に言うと、上から落ちてくる水が、止んでしまうかもしれないんだって。
水はうちらの命だ。それが落ちてこなくなったら、確かにうちらは縮んで、死んでしまう。みんな死んでしまったら、世は終わってしまう。だから、ウジンは水が止むことを恐れるんだ。
でもうちは、キツネが好きだから、キツネを悪く言うやつは嫌い。自分の生まれを知らないうちを、みんなはキツネキツネ、とからかうけれど、むしろ嬉しい。キツネは可愛いし、別に悪いことはしない。異の世にも興味があるから、キツネに生まれるのもよかったかもなぁ、なんて考えるくらいだ。そんなことを言うと、おとうもおかあも怒るけど。
家族はみんな、うちをからかったりしないけれど、あんちゃんだけは例外。あんちゃんはすごく年上ぶって、偉そうにして、うちをキツネと馬鹿にしながら、ちょっと意地悪してくる。青いカンロというすごく甘い貴重な水が落ちてきたとき、ひさしやひさし、と言ってうちの口に蓋をしてくる。蓋代わりのあんちゃんの手は固くて冷たくて嫌い。あんちゃんはウジンの中でも薄膜が丈夫だけれど、それに憧れたりはしない。だってあの薄膜の味を知っているから。
うちは絶対あんちゃんと同じヒサメの水からは生まれていないと思う。あんちゃん嫌いだもん。そうこぼしたら、おねえがこっそり教えてくれた。ヒサメ生まれは性格悪いって。
そんなおねえは花が咲く頃によく落ちてくるカウの水生まれだ。あんちゃんとは対照的に、薄膜が他より薄く、ちょっと脆い。だから強く打ち付けるシノツキとかがやってくると、薄膜が簡単に削れてしまう。そのため、おねえは他のウジンより家の中にいることが多い。その分優しい。
うちの薄膜は、あんちゃんのように固いわけでも、おねえのように脆いわけでもなく、柔らかく、しなやかだ。ほとんどのウジンは、薄膜に水が浸透して、口だけでなく、全身で水を吸収する。でも、うちの薄膜は水を跳ね返してしまうから、うちは口から水を得ている。
それも尚更奇特だから、キツネ、ソバエとからかわれるのだろう。あんちゃんの意地悪は嫌だし、みんなのからかい文句も嫌いだけれど、別に仕方ないか、と割り切っている。うちは大人だし、懐のでっかいところを見せておかなくちゃね。
いくらからかわれてもへこたれないうちの様子を、おばばは神妙な面持ちで見ているけれど。
今日は最初、青いカンロが注いでいたけれど、だんだんとそれは黒っぽくなり、次第に赤みがさしてきて、ケツウに変わった。誰も彼もが慌てふためき、近くの家にこもる中、うちはゆったりと歩いていた。他と違って、薄膜から水が入る心配がないから、口に入りさえしなければ、ケツウは怖くない。
それでもいつまでもケツウの中を一人で歩いていたら不自然なので、うちも家に戻ろうとしたのだが、そのとき、一匹の黒いキツネが目に留まった。
キツネとは、ほとんどが土みたいな色をしているものだから、真っ黒いそのキツネが珍しくて、ついそちらに足を向けた。近づくと、キツネはさっさと逃げてしまう。ケツウの中をひょいひょいと。
いつの間にやら、うちは黒キツネと追いかけっこを楽しんでいた。黒いキツネのふさふさの尻尾を捕まえようと手を伸ばす。キツネは手が触れる寸前でするりと抜けるものだから、これが悔しいのなんのって。そんな感じでケツウの中をずうっと走り回り──やがて知らない場所に着いた。
そこは見たことのない場所だった。それも当然、そこには水が落ちてこないのである。不自然にそこだけ明るい。キツネはそこで気持ちよさそうに頭上を仰いだ。まるでそこに射し込む光が、恵みの水であるように。
うちは気になってそろりとそこに足を踏み入れた。そこで初めて自分の色に気づく。いや、正しくは、自分に色がないことに気づいた。伸ばした手は、向こうの色が透けている。黒キツネにそっと触れると、触れた手は毛並みの黒と見事に同化してわからない。さわさわと心地よい感覚が薄膜の表面を撫でるだけ。
「くぅん」
キツネも気持ちよさそうに鳴いた。円らな目を細める。笑っているのだろうか。
とっ、とっ。
ふと、耳慣れない音がした。そちらを見ると、ウジンと同じ形の色鮮やかな生き物がいた。
「こんにちは」
その生き物が喋った。
「こんにちは?」
そいつが喋ったことに驚きながら返すと、語尾が上がってしまった。それがおかしかったのか、そいつはくすりと笑う。嫌な感じはしない。ちょうど真上から射している光みたいな笑みだ。
「君がウジンか」
「お前はなんだ?」
「ハクウ、シグレ、ハナビエ……色々呼び名はあるけど、敢えて言うならアメかな?」
「アメか」
「君の名前は?」
「うちの名前? うーん、そうだなぁ」
名前というのが呼び名であることは知っていた。けれど、呼び名なんてウジンの生活ではほとんど意味を成さない。同じ家に住む家族は「おとう」「おかあ」「あんちゃん」「おねえ」などと呼びわければいいだけだし、他のやつらは生まれた水の名で呼ぶから、固有の呼び名がなくても困らなかったんだ。
さてはて自分を振り返れば、呼び名はない。何せ、生まれ水のことを覚えていないのだから。
まあ、適当でいいや、と答えた。
「うちは、コト」
「コト……いい名前だね」
適当に思いついた名前なのに、アメは透明な声で褒めた。柔らかく温かいキリサメのような声だ。
「アメは、ウジンじゃないのか?」
アメの色つきの薄膜が気になって聞いた。薄膜、というより、キツネに近い感じがしないでもない。
けれどウジン以外の生き物なんて、キツネくらいしか知らない。アメはキツネと違って、毛は頭にしかない。
訊くと、アメは苦い水を飲んだような顔で笑った。
「僕はヒトだよ。カンダチに言われて時々こっちを覗きに来ている一族さ」
「カンダチって、カンダチさま!?」
カンダチさまはウジンの中ではとっても偉いウジンだから、その方を呼び捨てにするアメは同じくらい偉いんだろうか、なんて不思議に思った。
「ははは、カンダチがさま付きで呼ばれてるんだ。なんかおかしい」
「カンダチは一番最初のウジンなんだぞ? 一番最初だから、偉いんだ」
一番最初のウジンだから、後のウジンのためにウジンは水がないと死ぬとか色々なことを伝え残してくれたいいやつなのだ。そうおばばは教えてくれた。
それをそのまま伝えると、アメは尚更おかしそうに笑った。
「カンダチはそんなに偉いやつじゃないよ。こっちの世界でひとりぼっちになっちゃったから寂しくて別な世界に引きこもった、可哀想なやつなんだ。僕たちはその可哀想な存在を唯一わかってやれたから、こっちの世界を見に来るよう頼まれた」
「へぇ、変な話」
「ははは、やっぱり変?」
「でも、好きだよ。聞いたことないもん」
「それでね、コト」
「うん?」
首を傾げて応じると、アメはおばばがうちを見るときのような顔をしていた。何か、深刻そうだ。
「もうすぐ、この世界は終わるんだ」
それは信じられない一言だった。というか、冗談だと思った。
「終わる? どういうこと?」
「雨がね、止んじゃうんだよ」
「あめ? それはお前の名だろう?」
「違うよ。この世界に降り注ぐ、水のことだよ」
水が、止む──確かにそれは、世の終わりだった。止んだら終わりだと、常日頃からおばばが言っていたことだ。
「でも、それが本当だとして、どうしてアメにそれがわかるのさ?」
「僕が雨だからさ」
意味がわからない。
アメは静かに説明する。
「この世界はね、カンダチの悲しみから生まれた世界なんだよ。カンダチはかつてヒトだった。けれど、ある理由から透明なウジンの姿になってしまった。それで、ひとりぼっちになってしまって、寂しくて……泣いたカンダチの涙がこの世界の雨になったんだ」
「カンダチさまの涙……」
水が落ちている方の上を見る。暗くて彼方までは見えない。
「僕はウジンの姿になっても雨と同じで透明なカンダチの形を見られたから、カンダチの友達でいられたんだ。それでね、カンダチはこの世界にやってきて、自分と似た姿の友達を呼び寄せた。誰にも気づかれないようなヒトたちを。それが"ウジン"なんだ」
それが今はたくさんいるだろう? と言われ、頷いた。ウジンは確かにたくさんいる。数人で家族として集って家を作り、その家はそこかしこにある。それくらい、ウジンはいる。
「仲間が増えて寂しくなくなったカンダチは、泣くのをやめた。だから、もうすぐ涙の雨は涸れて、ここの雨は止むだろう」
「そしたら、ウジンはどうなるのさ?」
さあねぇ、とアメは肩を竦めた。
「行くべきところに行くんじゃないかな。コトは、死んだウジンがどうなるか、知ってる?」
ええと、確かおばばが言っていた。
「死んだら、水に還るんだよ。水に溶けて、またいずれ、水から生まれる」
「じゃあ、そうなるんだよ」
そんな適当な! と思ったが、アメの表情は真顔だった。無表情に近い、真剣な顔。
「本当はここに来るべきヒトじゃなかったんだ、みんな。でも、どこかで一休みしてからじゃないと、還れないからここに来た。でもね、僕は一人だけ、還れなさそうな君を迎えに来たんだよ、コト」
「え?」
うちが還れない? どういうことだ。
「君はケツウから生まれた子だから。水がなくても生きられるんだよ。だから、ひとりぼっちで生き残っちゃう。それが可哀想だから、連れて行こうと思って」
「どこに?」
「空に」
意味がわからない──はずなのに、何故か懐かしい言葉だった。
「空に行って、僕と一緒に雨になろう。いや、僕が雨だから、コトはそうだなぁ、雲がいいかも」
空、雲、雨……どれも、懐かしい言葉だった。
ウジンになる前──人だった頃に聞いた。
人は死ぬと、空の向こうに行くんだってさ。
「雲かぁ。自由そうでいいなぁ」
思い出した記憶に感慨深く呟く。アメが嬉しそうに続けた。
「もう、ひとりぼっちじゃないよ。だって雲と雨はいつも一緒にあるからね」
雨脚が、弱まってきた。
うちはそれをいつしか上から眺めていた。
さようなら、みんな。
みんなをどんな悲しい思い出が蝕んでいたか知らないけれど、雨のない空の上で、楽しく過ごしてくれると嬉しいな。
うちは時折、人のみんなに時雨の化を降らすよ。
どんな心も慰められる恵みの雨を。