匂へど
「起・・・き・・・て、起きて。とも君、起きてよぉ。もう朝だよぉ」
かすかに揺さぶられる感覚と優しい声に薄く目を開けば、確かにカーテンの間から陽の光が漏れていた。
『んん?陽奈ぁ~。もうちょい』
頼みこみながらも俺は掛け布団を掴んで、頭まですっぽりとかぶる。
「えぇ~。やだぁ、とも君ってば。間違えて・る・ぞ。陽奈ちゃんじゃなくて奈々ちゃんだぉ?」
『・・・ぁ~、ハイハイ。奈々ちゃんね』
(・・・奈々・・・ちゃん)
潜り込んだ布団の中、二度寝を決め込んだはずの俺の眼が一気に覚めた。ガバッと跳ね起きて見れば、そこに立っているのは俺。
ババアに身体を乗っ取られたあの日から三週間が過ぎ、もう4月に入っていた。その間、声のみで命令されることはあってもババアが俺の姿で、眼の前に現れることなんて一度もなかったのに。
「寝ぼけてたのか?おはよう、もう朝だぞ。春休みだからっていつまでも寝てたらいかんよ?」
当たり前のように俺の身体を動かし、俺を見つめ、俺の声でしゃべる。けれどもなんだか自分が知ってる自分でないようで・・・『俺か?』と呟けば、何言ってんだよ?当たり前だろと目の前の俺は爽やかに笑う。
なんだ、こいつ。俺はこんなやつしらねーぞ
俺の戸惑いを無視し、見違える程に雰囲気の変わった俺が一気に掛布団を剥ぐ。
「おい、なんで、ここにいるんだよ。だって、ここは俺の・・・」
「うんうん、ここは俺の意識の中だって言いたいんだろうね。でもそれ俺と和知君で共通なのな!」
共通?なんだそれ?
「何?本気で気づいてないの。和知君は暇かもしれなくて、ダラダラしてんだろうけど俺の頭ん中でそれ!チラチラ見えてっから!すげー目障りなんだよね。そうかと言って、和知君は注意しても無視、何話しかけても無視。と、くれば直々に参るしかないだろ?」
これでもうるさく言うのずっと我慢したんだぜとカラカラ笑うババア。嘘つけ!ずっと母親みたいに細かい小言ばっかり言ってただろ。
「まっ、こうして妄想逞しく和知君の前に参上できるようになったわけですし。今日から何も出来ないお前さんに私が、直々に色々と、色々と、色々と仕込んでやるからさっさと起きて着替えて着替えて」
『なんだよ。色々っても家事させようとしただけじゃねーか。余計なお世話なんだよ。どうせ俺の身体は、ババアに乗っ取られて俺が居るのは頭の片隅なんだろ。そんなら遅くまで寝てたって誰にも迷惑かけるわけでもねーし。もう俺のことはいい加減ほっとけよ、馬鹿か。そもそもババアのくせに気安く俺に話しかけてんじゃねーぞ』
そう言った俺に、目の前に立つ俺は左の口角だけを吊り上げて笑う。
おい!なんだ?
俺は、そんな悪い笑い方はしねえぞ!!
「はぁ~。寝起きでよくもまぁ、そこまで口がまわるもんだ。和知君は。でも残念ながら今日からは、洗濯に掃除がまっているぞ。それとも何だ?色々と聞いてエロスなことでも想像したのか。流石は思春期だな・・・ムッツリな奴め。ふふん」
『ちげーよ。そんなのは女がやる仕事だろって言ってんの。なんで俺がやんだよ。俺は学生なんだから勉強だけでいいだろ?それと、その変なあだ名で呼ぶのはいい加減やめろ!!』
俺のことをお前と呼んでいたババアがある日、今日から“わち”くんと呼ぶと言い出した。名字の“和”と名前の“知”で、和知だと。
それを聞いた俺は、犬ころみたいで嫌だと言ったのにババアからは変更したいなら手数料払えと言われてしまった。なんのだよ。
「もう何、面白いこと言ってんの。全然笑えないけどね。どうせ勉強なんてしないんでしょ?言うだけ聞くだけ時間の無駄無駄無駄。それに和知君、家事は女の仕事とかサイテーな奴の言うことだな。今時代は、共働き夫婦で家事は半々だよ?そん時に家事のできない男は、親の躾が悪いとか言われちゃうから。だから二十七年も人生の先輩の私が、忙しい艶子ママに変わり家事を仕込んでやると言ってんの。ここは“奈々様。この愚鈍なわたくしめに本日は何を仕込んでもらえるのですか?”と聞くべきであって、返事は“ありがたき幸せです”しか受け付けない場面で~す~か~ら~」
腕を組み、偉そうにふんぞり返って言われた内容は、自分の姿ながらムカつく。
『っ!!俺の話し、ちゃんと聞いてる?ババアが勝手に俺の身体を乗っ取ったくせに偉そうにして勝手なこと言ってんじゃねえよ。それに家事なんて嫁さんが専業主婦だったら俺ができなくても問題ねーよ』
吊り上げた口角をそのままにうっすら左目だけが細くなる。だから俺は、そんな悪い笑い方しないっての!
「今の和知君を見ていてもお嫁さんを専業主婦にしてあげられる甲斐性の片鱗も見えないので却下。それともなんだ?“もぉ~ぉ、和知君もお洗濯手伝ってよぉ。そんな意地悪してると陽奈は知らないんだからねっ。ぷんぷん”と、でも言って欲しいのか。んん?」
『いやいや。俺の顔で、陽奈の真似はやめろ。気持ち悪いだろうが!!』
はぁ~と大きなため息一つ、そっぽ向いたかと思えばパッとその姿が消えた。
「はいはい、もうこの下り飽きたから。いいから早く着替えて洗面所へ行きなさい。でないと大好きな陽奈ちゃんにあることあること言いつけちゃうよ?リコーダーの件も毎晩の・・『だあぁぁぁぁ―――。分かったから!行くから!!行きます』
そう叫んだ俺に歌うようにご機嫌な声だけが聞こえてくる。
「最初から素直にそう言えば良いんだよ?まぁ、私は、いずれ自分の体に戻るから言いつけた所で他人事なんだからさぁ。どぉ~でもいいんだけど。ハハハ、これから和知君は大変だ。頑張るんだよ?私は頑張る子はすごく好きだからね。この意味もちろんわかるよね?」
『あぁ・・・・・・分かったよ』
渋々、ベットから立ち上がりのろのろと着替える。洗面所へ向かおうとドアノブを回せば、人の気配がしない静かな廊下が続いていた。
十五歳の春目前の失恋。相手は産まれた時から側にいた幼なじみの女の子。それは、いきなり身体を乗っ取った四十二歳のババアに脅しの材料にされる。
しかも・・・このババア、どこか変な奴ときてる。
(あぁ、どうしてこうなった)
□□□□□■□□□
頭の片隅には、初めての洗濯物に四苦八苦しながら干す和知君のイメージが浮かぶ。洗濯機を回すにも大騒ぎだった。
(和知君は、本当に何も出来ないんだな。艶子ママは、シングルで子供二人を育ててるんだから手伝いぐらいしてあげないと。もう体力的にもキツイ年齢なんだぞ)
そして、現実で洗濯物を干すのは私。正確に言えば、とっくに終わりベランダの手すりに寄りかかり澄んだ青空を眺めていた。
『うっせー。知ったような口きいてんな。そういうババアはどうなんだよ。嫌な奴だからその歳でも結婚できずに一人だったりすんだろ』
未だに頭の片隅では、和知君が洗濯物を干している。それは、自分の子供を思い出させるのに十分だった。
(結婚?してるよ。子供も二人いる。二人とも男の子で上は二十六歳か?下は十一歳。とてもいい子達なんだよ。うちの旦那様もすごくいい人でさ)
って、自分が聞いてきたくせに興味がないと無視かい。本当に可愛くない奴め。
和知君が洗濯物をやっと干し終え、時計を見れば七時ちょうどを差していた。
よし!次は朝ご飯でも作らせるかと台所に向かう途中で艶子ママの部屋の扉が眼に入る。
(なぁ、和知君。艶子ママってば、今日は早出って言ってなかった?時間、まだ大丈夫なのかな?)
『あ~、わかんね。だったら大方、寝坊でもしてんじゃねーの?』
いやいや、ソレじゃ駄目やん。艶子ママが働いてくれないと困んの自分なんだぜ。
艶子ママの寝ている部屋の扉を少しだけ開き、小さな声で控えめに「ねぇ、時間いいの?」と尋ねてみる。
俺の声にハッと起き出し、携帯を手に時間を確認した艶子ママは「だ、だめぇぇぇ」と絶叫し「あと五分」の呟きと共に身支度を始めた。
そうだろう、そうだろう。五分後には家を出ないといけない時間だもんな。それは焦るよね。
(もっと早く気づいて起こせば良かったかな?でも支度なんて五分あれば充分だよね。ねぇ、和知君?)
『いやいや、ババア?普通の女の人は化粧するんで、最低でも三十分は必要みたいですけど。逆に五分でいいって、俺も無理ですけど一体どんな用意だよ?』
(ん~?服着る、洗顔歯磨き、行ってきます。のスタンダードコースってとこだな)
眼の前をバタバタ走り支度をしている艶子ママ。見たところベースメイクだけして家をでるらしい。玄関でヒールを履く後ろ姿に「今日の夜は、俺と陽奈の合格祝いだからな。忘れないように。行ってらっしゃい」と釘をさし、ひらひらと手を振り送り出す。
あぁ、分かります。その顔は、すっかり忘れてたんですね。和知君はともかくとして陽奈の合格祝いが用意まだなんですか。
「現金が無難じゃね?」
ここ一番のアドバイスに驚き顔の艶子ママ。いいのかい?突っ立ったままでいるけど遅刻しちゃうよ?
はいはい、さっさと行きなと家から追い出す。
よし、和知君に朝ご飯の支度でも教えよ~うっと。それが終わったら掃除と・・・後は、夕方まで少し勉強もさせとくか。