悪役も侯爵令嬢のたしなみ!
気分転換したくなりました。
その結婚は、物心つく頃には、既に決まっていた。
けれども、アドリアンヌにはそれでよかった。不満などなく、なんの抵抗もなく、当然のように「わたくしは、この人と結婚するのだわ」と、思って育ってきた。
ベルモンド侯爵家は王家の系譜にあり、ルリス国内有数の名門貴族。その結婚相手と言えば、王族か、それに準ずる名家。姫君がいない際は、外交の一環として他国へ嫁ぐことが求められている。つまりは、政略結婚が基本だ。
当然のように、アドリアンヌの婚約者も、然るべき相手が選ばれた。第二王子シャルルとの結婚は、ごく自然な流れであった。
そこに、アドリアンヌの意思はない。
だが、それでも良かったのだ。
結果的に、アドリアンヌはシャルルに初恋をした。
きっかけは、社交界デビューを果たした七歳のときに、一緒にワルツを踊ったこと。月並みだが、その瞬間に、アドリアンヌは初めての恋に落ちた。
「アディ。薔薇のように可憐なご令嬢。私と踊ってくださいますか?」
薔薇のようだと形容され、差し伸べられた手が嬉しかった。アドリアンヌは、彼の言葉に違わぬ薔薇になろうと、決意した。
ステップは軽やかに、しかし、しなやかに。そして、大胆に。
纏うドレスは豪奢に、しかし、清楚に。そして、鮮やかに。
立ち振る舞いは上品に、しかし、したたかに。そして、可憐に。
燃えるように美しいブロンドには、常に薔薇の香水を纏わせる。晴れた空のような青い瞳に合うよう、装飾品は銀を基調に取り入れた。
いつか訪れるシャルルの妻としての自分に相応しい薔薇になろうと、アドリアンヌは一切の手を抜かなかった。貴婦人の中では誰よりも華やかで目立つ存在に。男性とも渡り合えるように、抜け目なく。
誰よりも美しくて聡明。秀麗にして優美。完璧な花となったアドリアンヌは「社交界の薔薇」と称される美しい才女となっていた。
全ては、初恋の相手であるシャルルに相応しい女性になるため。将来の肩書に負けない自分を作るため。
ああ、それなのに。
「それじゃあ、アドリアンヌ。楽しかったですよ」
以前のように「アディ」と愛称で呼ばなくなったシャルルの背を見送るときも、アドリアンヌは笑みを貼り付けた。
ただの一曲ワルツを踊っただけで去ってしまった婚約者に、怒りを覚えることはない。むしろ、婚約者と一曲踊るという建前を演じてくれただけでも、ありがたいと思える。自分が好いている相手は、場を弁えない愚か者ではないと証明されたのだから。
今宵は仮面舞踏会。
婚約者と形式的なワルツを踊ったあとに、他の女性をエスコートするシャルルの表情はきっと笑っているのだろう。
シャルルが執心するのは、アドリアンヌとは別の女性だ。
サーシャス伯爵家の令嬢リリアである。サーシャス伯爵も歴史ある名家だが、ベルモンド家には劣る。おまけに、リリアは伯爵の隠し子であり、最近まで市井で育てられていたという。
生まれも育ちも、アドリアンヌより格下の娘である。アドリアンヌが豪奢に咲いた大輪の薔薇であるなら、リリアは蕾を膨らませたばかりの小さな野薔薇である。
そんな相手に、婚約者の心を奪われながら、何故かアドリアンヌは穏やかな気持ちでいた。怒りもなければ、悲しみもない。ただ、「ああ、そうなのね」と納得するだけだ。
自分でも、不思議であった。よく聞く月並みな感情を振りかざし、嫉妬に狂うと思っていたのに。
なにも感じない自分は、薔薇ではなく、ただの人形のように思えた。
「よろしかったら、踊りませんか? お嬢さん」
マドモワゼルではなく、フロイライン。異国の言葉で呼びかけられ、アドリアンヌは声の方を振り返った。
夜を溶かしたような艶やかな黒髪が揺れる。濃紺の衣装をまとった仮面の騎士が、腰を折っていた。仮面舞踏会では珍しくもない出で立ちだ。
顔の右半分は仮面に覆われているが、左半分から見える藍色の瞳は優美な笑みを描いていた。歳の頃は、アドリアンヌと同じ十六歳前後といったところか。
社交界に出る要人は、ほぼ頭に入れている。だが、彼はアドリアンヌの知らない人物のようだ。外国語を交えていたので、留学生なのかもしれない。
しかし、解せないのは「フロイライン」という異国語。
隣国グリューネの言葉である。ルリスとグリューネは現在、戦争状態にあるのだ。グリューネ語を操る異邦人というのは、少々ワケアリのようにも思えた。
「異国の方ですか?」
アドリアンヌは当たり障りない質問から入る。
「そのようなものです。美しい花を見つけましたので、愛でずにはいられませんでした」
「お世辞が上手いのですね」
「光栄です」
騎士の装いをした異邦人は再び優雅に一礼すると、アドリアンヌに手を差し伸べた。
社交界で燦然と輝く薔薇アドリアンヌをダンスに誘いたい男は何人もいる。
婚約者がいても、別の男と踊ってはならない決まりはない。だが、アドリアンヌは今まで、誰の誘いにも乗ったことはなかった。
一つは、第二王子である婚約者の顔を立てる目的。
もう一つは、自分の価値を落とさないためである。
社交界の薔薇と呼ばれる自分は安くない。高嶺の華を演出することで、自分と婚約者の価値を高めているのだ。決して、美しいだけの華ではないと見せつけるために。
それがわかっているので、有力貴族の子息はアドリアンヌを誘わない。誘うのは事情を知らない田舎者か、自分にこの令嬢が手に入れられると勘違いしている愚か者だけ。
目の前の男は、きっと前者だろう。異邦人であるなら、知らなくて当然である。
「お誘いは嬉しいですわ。でも、お断りします。わたくしには、心に決めた一人がおりますので。お話なら、お付き合いしましょう」
誘った相手を不快にさせないよう、極上の笑みを湛える。真っ赤な口紅が引かれた唇が優美な弧を描くのが、自分でもわかる。
だが、目の前の男は不敵に笑みを返した。
「お言葉ですが、ご令嬢。そのお相手は、今どちらに?」
意外な一言だった。
明らかに、今中央でダンスを踊るシャルルとリリアを視界にとらえ、男は挑むように笑ったのだ。
事情を知らない異邦人ではなく、一人の男としてアドリアンヌをダンスに誘ったと言っているようだ。
アドリアンヌは自分の表情が消えるのを感じた。
「いえね、あなたの婚約者は毎晩他の女性の手をとっているというのに、あなたは一人だけを想って誰とも踊らず拒んでいる。これは、とても滑稽なのではないかと思っただけですよ」
饒舌に語ると、男は広いダンスホールとなった会場を見渡した。
皆、アドリアンヌと、その婚約者を交互に見ているのがわかる。
アドリアンヌという女性がありながら、リリアに入れ込む王子を嘲笑する視線。いや、二人の仲を黙認しながら、壁の花を決め込むアドリアンヌに対する同情――どちらも違う。婚約者を奪われても愚直にダンスを拒むアドリアンヌを蔑み、嘲笑う視線だ。
本当は、こんなものには気がついている。
自分の行為がどう思われているかなど、とうの昔に知っているのだ。
シャルルの気持ちがアドリアンヌから離れた時点で、もう意味のない行為だ。
「気分を害しました」
アドリアンヌは逃げるように踵を返し、その場を立ち去ろうとする。
「帰ってしまうのですか? それでは、婚約者の不貞を諌めることも出来ず、ただ見ているのに耐えられなくなった悲劇のヒロインを演じたいと思われますよ」
「な……」
なにを言っているのですか。そう言いたかったはずだが、声が出なかった。
だって、それは概ね外れてはいないのだから。
貴族たちは嫌味や陰口、謀を好物とする生き物だ。事の真偽などよりも、他者の醜聞や失態を好む。アドリアンヌが婚約者を盗られて、ほくそ笑む者も多いのだ。
「そうやって言えば、わたくしがあなたと踊るとでも? しかし、わたくしはあなたを決定的に気に入っていません。踊ったところで、あなたを好くことはなくてよ」
「僕は流れ者のようなものです。一夜限りの夢を手にする努力をしているにすぎませんよ。明日には国へ帰れと命じられているので、今宵、この国で一番贅沢な思いをしたくなってしまいました」
滑らかに言いながら、男は再びアドリアンヌの前に手を差し伸べた。
アドリアンヌは人形のように身体を硬直させてしまう。まるで、初めてダンスに誘われた少女のようだ。こんな場面など、慣れたはずなのに、手が緊張して動かない。
「わかりました」
身体の震えを抑えながら、アドリアンヌはぎこちない動作で男の手に、自らの掌を重ねる。
初めてシャルル以外の手を取って踊った。
いつもと違う男にエスコートされてダンスホールの中央へ移動したアドリアンヌを、周囲は好奇の眼差しで見ていた。
高嶺の華を演じている彼女を落としたのは、どこの男だろう。
「第二王子の不貞を前に、令嬢はついに怒り心頭のようですわね」
「意趣返しでしょうが、果たしてシャルル殿下を取り戻すことが出来るのかしら?」
「あの薔薇を落とした彼は誰でしょうね?」
だいたい、話題はこんなところだろう。アドリアンヌはそつなく、しかし、誰よりも華麗にダンスを踊り、時間は淡々と過ぎる。
作業のような時間だと思った。
アドリアンヌの視界に、同じ会場で踊るシャルルたちの姿が時折映る。そのたびに、なんとも言えない感情が湧きあがることに気づいた。
嫉妬。悲しみ。憎悪。恋人を奪われたときに感じる月並みな感情だろう。
なにも感じていなかったのに、今更になって湧き上がるそれら。アドリアンヌは戸惑いを隠せなかった。顔に貼り付けていた仮面を剥がされた気分だ。
それもこれも、この男と踊ったからだ。
アドリアンヌは、目の前にある男の顔を睨みつけた。だが、男は半分だけ覆った仮面の下で、沈黙したまま微笑している。
やがて、ダンスの曲が終焉を迎えた。アドリアンヌは形式的な礼をとり、そのまま会場の外へと向かう。
頭を冷やしたい。夜風に当たろうと、バルコニーを目指した。
「まだなにか?」
先ほどの男が、まだアドリアンヌの後ろを歩いていた。
アドリアンヌは使用人からワインの入ったグラスを受け取りながら、構わずバルコニーへの出口をくぐる。男も当然のように後に続いていた。
「せっかくだから、忠告をと思って」
男は悪びれることなく両手を広げてみせる。彼は不敵な笑みを浮かべると、自らの顔半分を覆っていた仮面を外す。
満月の月明かりに、夜の色を宿した黒髪が艶めく。中性的な白い顔は整っており、したたかだが、儚げな印象をまとっていた。
「仮面、外しませんか?」
予期していなかった言葉と共に、男はアドリアンヌとの距離を一気に詰めた。アドリアンヌがなにも出来ないまま息を呑んでいると、彼はそっとアドリアンヌの顔に触れる。
舞踏会のためにつけていた仮面が外されてしまう。目元を派手に覆っていた仮面がなくなり、視界が一気に広がった。
「なにをするのですか!」
アドリアンヌは唐突な行動に対応出来ず、男から逃げるように身を翻す。バルコニーの手すりに身を押し付けるように逃げた。
だが、石製の手すりの下で、見てはいけないものが視界に入ってしまう。
バルコニーの真下にいたのは、シャルルだった。その腕には、リリアの姿がある。
ダンスが終わったあと、人目を忍ぶように庭へ下りていたのだ。
婚約者以外と踊ることは、別に咎められる行為ではない。しかし、こんな風に逢引しているなんて。
アドリアンヌは、二人から視線を外すことが出来なくなっていた。
「あなたは、薔薇のようですね。アドリアンヌ嬢」
いつの間にか、アドリアンヌの隣にもたれていた男が呟く。素顔を晒した仮面の騎士は笑うと、アドリアンヌをまっすぐに見た。
「美しさの裏に持った棘で、自らを縛る荊の君」
アドリアンヌ・ド・ベルモンドは社交界の薔薇。王子の婚約者であり、ルリスの誇る美しく可憐な薔薇。
だが、その荊は自らを呪縛する枷でもある。
そのことに気づかされ、アドリアンヌは唇を噛んだ。
シャルルに相応しい自分で在ろう。薔薇にならなくてはならない。その想いが自らを縛りつけ、嫉妬という感情を封印していたことに、今更気がついてしまった。
今まで、なにも感じなかったわけではない。感じない振りをしていただけだ。
認めたくなくて、アドリアンヌは自分の感情を殺していた。
なんて滑稽なのだろう。こんな男に気づかされるなんて、笑ってしまいたくなる。だが、笑みをこぼすことはない。淡々と、他の女と愛を語り合う婚約者を見下ろすだけだった。
「あなたは、疫病神ね」
隣の男に囁くとき、アドリアンヌは初めて微笑を描いた。自虐と自嘲を込めた微笑である。
「そんなことなど言われなければ、わたくしは、ずっと自分の気持ちに蓋をしていられたのに」
見ない振りを続けることが出来たのに。
批難の意味を込めて言うと、男は声をあげて笑った。
「失礼したね。僕は君に、薔薇は似合っていないと感じたので、指摘せずにはいられなかったのさ」
少し砕けた態度で言って、男はアドリアンヌを見つめ直す。きっと、彼の素はこちらなのだろう。慇懃を装っているよりも、生き生きしている気がした。
男はアドリアンヌの前に掌を差し出してみせる。そこには一輪の薔薇が握られていた。
「薔薇は君には似合わないよ」
二本の指が擦れ合い、男の手でパチンと音が響く。すると、持っていた薔薇が消え、代わりに黄色い大輪の花――向日葵が握られていた。簡単な手品の類だろう。この程度の芸当なら、素人でも披露できる。
「燃えるような黄金の髪には、こちらがよく合う。夜を飾る華美な薔薇よりも、太陽の方が相応しいと思うよ」
男はアドリアンヌの髪に向日葵を挿し、ニッコリと笑った。儚げだが、したたかで裏表のある笑みを浮かべる姿は、さながら月だった。
「少しくらい正直になるといい」
男は甘く誘惑するような声で囁く。まるで、悪魔の誘いだ。声は甘美な刺激となって、アドリアンヌの心を揺さぶる。
アドリアンヌはワイングラスを持つ自らの指が震えるのを感じた。
しかし、自分の意思でグラスを持ち上げ、やがて、傾ける。
真っ赤なワインが血のように流れ、夜の闇へとこ堕ちていく。
小さな滝となった紅い液体は、バルコニーの下で語らっていたリリアの頭上へと降り注いだ。
「リリア!」
想い人に降りかかる災難を察して、シャルルが身を翻した。リリアに注がれたワインを頭から被る形で、シャルルが受け止める。
「どういうつもりだ、アドリアンヌ!」
バルコニーを見上げたシャルルがリリアを抱きしめて叫ぶ。リリアは華奢な身体を震わせながら、怯えた目でアドリアンヌを見ているだけだった。
先に不貞を働いたのはシャルルだというのに、なんて身勝手なのだろう。
アドリアンヌは急に冷静になって、頭が冴えるのを感じた。
だが、感情の昂りはおさまらない。むしろ、愉快になって、ついバルコニーから身を乗り出してしまう。
「申し訳ありませんわ、シャルル。いつも見えない振りをしていたものですから……つい、今も二人がこの場にいないと思って、誤って手を滑らしてしまいましたの。本当にごめんなさい。だって、目の前の光景は幻かなにかだと思っていましたから」
笑いを禁じえなかった。
何年振りかわからないほど朗らかな笑声をあげた。他の者から見ると、高笑いのようだったかもしれない。突然、大きな声で笑いはじめたアドリアンヌに対して、奇異の目を向ける者もいた。
「……リリアは私が守る」
シャルルは短く言い捨てて、リリアを気遣いながらその場を去った。まるで、アドリアンヌが虐めているようだ。
だが、思ったよりも気分が晴れた。
アドリアンヌは手すりに身体を投げ出すように体重を預けると、グラスに残ったワインを口に流し込んだ。
「どうしてくれるのよ。シャルルを怒らせたわ」
隣に立った男を責める言葉を吐きながらも、表情は子供のように明るい自分がいた。少しも後悔していない。
明日になればわからないが、少なくとも、今は気分がいい。「清々した」とは、こういうときに使うのだろうか。
「これでも、彼を慕っていたのよ。婚約破棄されたら、どうしましょう」
「君ほどの花なら、引く手数多だろうさ。なんなら、僕が貰いに行こうか?」
「嫌よ。名乗りもしない無礼者になびくほど、わたくしは安くなくてよ」
アドリアンヌは笑声を転がしながら、髪に挿された向日葵に触れた。男は優しげに笑うと、流れるような動作で華麗に一礼する。
「ハルとお呼びください。残念ながら、今は仕事の都合で身分を隠しております。でも、必ず迎えに来ると約束しましょう」
「なあに、それ。密使かなにかだと言いたいのかしら。大したお仕事ね」
「こうしてあなたを口説いている方が大事だと思える程度に、些細な仕事ですよ」
「まあ、いいわ。そのときに、わたくしの気が向いたら、またお相手してあげましょう」
改まって畏まるハルを見て、アドリアンヌは軽く笑った。
ダンスホールから漏れる、優雅な旋律が暗い夜風に乗って舞い上がる。夜会はまだまだ終わらない。
仮面をまとった紳士淑女が踊る様を眺めて、アドリアンヌは太陽のような笑みを湛えた。
† † † † † † †
アドリアンヌがささやかな「悪戯」をしてから数日後、シャルルから婚約破棄の申し入れがあった。
どうやら、リリアと本気で結婚する気のようだ。庶民の出である彼女と結ばれるために、毎日奔走していると聞く。
貴族たちも、今度は伯爵家の庶子に熱を上げすぎている第二王子を嘲笑っているらしい。
まさか、本当に結婚するつもりだったとは。出来ると思っているのかしら。浅はかで滑稽な元婚約者のことを、アドリアンヌも笑った。
結婚適齢期なのに相手がいなくなってしまったアドリアンヌの処遇について、周囲は大いに揉めた。
王家に匹敵する名家の美しい令嬢を手に入れようと、これまで黙っていた貴公子たちが一斉に婚約を申し込んだのだ。
だが、どれも気が乗らない。
アドリアンヌは誘いを受けては相手を振り回し、すぐに捨ててしまった。そんなことを数回繰り返すうちに、「あの令嬢は男を弄ぶ魔性だ」と周囲に囁かれるようになる。
単に、家柄に釣り合い、尚且つ、アドリアンヌが気に入る男がいなかっただけの話だ。加えて、シャルルたちに対する「悪戯」の噂が広まったのか、アドリアンヌはいつの間にか、悪女のような立場になっていた。
リリアは他にも心ない嫌がらせを受けていたようで、それらも全てアドリアンヌの仕業にされていた。
本当に、貴族という人種は噂と謀が好きな連中である。アドリアンヌは呆れたが、否定する気にもなれなかった。
小さなことなど、どうでもいい。アドリアンヌはもう、婚約者のために自らを着飾って背伸びする薔薇などではないのだから。
そんな折である。
アドリアンヌの元に、一件の結婚話が舞い込んだ。
戦争状態にあったルリス王国とグリューネ王国が停戦し、和平を結ぶことになったのだ。その平和の証として、ルリスからグリューネへ花嫁を嫁がせることになった。
王家には、まだ年端の行かない幼い姫君しかいない。白羽の矢が立ったのは、王族の血統を継ぐベルモンド家のアドリアンヌだった。
いがみ合いを続けていた隣国へと、払い下げられる花嫁。そんな立ち位置には、アドリアンヌのような「悪女」がお似合いなのだろう。同情よりも、嘲笑の目が向けられた。
アドリアンヌの元へ、グリューネから一枚の肖像画が贈られる。
新しい婚約者となった王子エアハルト・フォン・グリューネの姿絵だ。歳はアドリアンヌと同じ十六だが、その若さで主に外交で手腕を発揮する遣り手らしい。今回の和平にも、一役買ったという噂がある。
「あら」
優雅に紅茶をすすりながら、アドリアンヌは思わず声をあげる。
使用人が壁にかけてくれた肖像画――濃紺の軍服に身を包んで佇む王子の姿を見て、アドリアンヌは満足げに微笑する。
艶やかな黒髪を背で一つに結い、凛々しい表情を浮かべる男。白くて整った顔立ちはしたたかだが、中性的で月のような儚さを持っている。胸には、何故か大輪の向日葵の花が挿してあった。
「いいでしょう。またお相手してあげるわ」
誰に言うでもない独りごとを発し、アドリアンヌは優雅に笑った。
《完》
悪役令嬢や婚約破棄モノ……転生や「ざまぁww」展開がなく、厳密には違うと思うので、期待した方は申し訳ありません。
本作は長編「侯爵令嬢も騎士のたしなみ! ~騎士の俺が、身代わり花嫁はじめました!?~」のスピンオフとして書き下ろしました。こちらは主人公変わってラブコメ寄りとなっています。
単品でお楽しみ頂ける仕様のはずです。